えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

形而上学を自然化する(出来事の存在論つき) Goldman (2007)

http://philpapers.org/rec/GOLAPF

  • Goldman, A. (2007) A PROGRAM FOR “NATURALIZING”METAPHYSICS, WITH APPLICATION TO THE ONTOLOGY OF EVENTS

1. 形而上学と認知科学

認知科学は要る

【p1】形而上学は現象から始まりそれを吟味して実在を探求する。実在は心と独立だと普通思われるから、実在の理解のために心の研究をしようという提案はアホに見える。しかし、「心」という語で、認識メカニズムの総計を指すとすれば、このメカニズムが現象を因果的に産出するのだから、形而上学的反省の前に心の働きについて知ることには意義がある。だから形而上学にとって認知科学は重要。

認知科学は重要(1)――語の区切れの場合

【p2】形而上学はふつう素朴な、直観的、非反省的判断(現象)から出発する。ここで、この素朴形而上学は哲学的に洗練されるべきであり、時には科学が素朴形而上学に優先するべきである(cf. 時間は流れない。時間はない。因果関係はない)という点は、実質的に全形而上学者が同意している。形而上学は主に心的でない対象を扱ってきたので、科学へ訴える事例で刺激的なものは殆ど物理科学へ訴えていたが、ここでも認知科学は役立つ。
【p3】なぜか:素朴形而上学改定の2つのやり方
1)消去する
2)存在は認めるが、素朴に考えられているのとは大幅に違うものであると示す
‐例えば、内在的だと思われている性質が、主体の心的(知覚・認知・情動的)反応との関係的性質だと主張する
認知科学は形而上学者が行う改定的な主張への支持を与えることができる。例えば……
・話を聞いている時、我々には語と語が無音で区切れている経験をするがこれは錯覚。聴覚刺激にそんな区切れは無い(Pinker[1994])。
【p4】ここから消去主義(「錯覚」)をとることもできるが、反応‐依存性を主張する戦略もある:語の区切れとは、ある音の連続体が持っている、聞いたものに「区切れ」経験を生み出すという傾向性なのかもしれない。こちらも改定的見解である。いずれにせよ、認知科学からの証拠は、可聴的な語の句切れの実在論を強く反証する。

認知科学は重要(2)――色の場合

【p5】より重要な形而上学的トピック、色の存在論的地位。色を普通の知覚者に特定の視覚経験を生み出す傾向性として扱う改定的な説がある(「二次性質」)。一方、色をこうした傾向性の「カテゴリカルな基盤」として扱う説もある(Ex. Brain Maclaughlin[2003]:赤色は赤を見させる傾向にある性質。赤さとは赤さ役割の「保有者」)。
 ・保有者説の2つの困難
1) 共通基盤問題:全ての赤い事物が共通に持つ(物理的な)カテゴリカルな性質はあるか?
――メタメリズム の研究によれば、単一の色に見えるものは、単一の光波振動数によっても光波振動数の様々な組み合わせによっても生ずる。
2)多重基盤問題:赤く見せる性質に一つ以上の基盤があるなら、その担い手を知覚者に赤く見せるような唯一の性質は無い。
【p6】ここでも認知科学は関係がある。まずメタメリズムは認知科学によって発見された(問題の提出)。またMaclaughlinは、共通基盤問題は色視覚の対抗過程説に訴えて解決できると言う(問題の解決)。

認知科学は重要(3)――嫌悪性disgustingnessの場合

 他の類似の性質にも色と同じことが言える。例えば嫌悪性は嫌悪感を誘発する傾向にある傾向性の基盤か? → 認知科学「そうではなさそうだ」
・嫌悪感の誘導因子は具体から抽象まで多岐(顔、死骸、体腔、疾病、寄生的伝染、規範侵犯)で、共通の基盤的性質はなさそう。嫌悪性が全ての誘因に共通な内在的性質であるか、そもそもそんなものは無いかの二択なら、〔後者を支持する〕消去主義が迫ってくる。
【p7】傾向性主義/反応‐依存性はどうか:嫌悪性とは単に嫌悪反応を引き起こす傾向性
→では嫌悪反応とは精確には何か:Kelly[2007]の嫌悪反応の3分説から2つを強調。
(1)感情プログラム:反射様の情動的反応、調和した心理・行動的諸要素のセット。嫌悪の場合、即時の引っ込め、弁別的な表情gape face、吐き気の随伴などの質的反応、等
(2)コア嫌悪:より認知的な部分。中心的な特徴として:不快感(嫌悪対象を汚い・不純と見る反感)と汚染に対する敏感さ(不快と見なされたものは他のものを汚染すると考えられる)
では、どちらも嫌悪反応に構成的なのか? 2つの反応があるなら2つの嫌悪性があるのではないか? しかしいずれにせよ認知科学から得られた機能的反応についての知識を反映する必要はある。

認知科学は重要(4)――道徳的概念の場合

【p8】道徳判断は情動と親密に結びついているという多数の強力な証拠が認知科学からある。これが、道徳的概念の反応依存的説明に繋がるのは自然である(Prinz[2006])。
ここでの論点は控えめ:人々通常の道徳把握を理解するのは道徳領域における形而上学の仕事の一部だが、経験的調査がこれに貢献できる。特に、道徳的判断と感情のもつれは意識的体験には明示的でなく、サブパーソナルレベルで処理されていると思われるので、認知科学や神経科学が有効。
【p9】さらに情動は事実判断にも役割を持つ。認知科学によって発見されたカプグラ症候群を見よ。カプグラ症候群からは、我々は人を同定する際に、全く気付かないサブパーソナルなレベルで、情動的な連合を使用していることが分かる。判断形成や概念所有は内観的に透明ではなく、形而上学が素朴な世界観から出発する限り、認知科学が重要である。

2.出来事と出来事の個体化の問題

まえおき:時間と嫌悪性との比較

 物理学から見れば、素朴な時間概念はかなり問題含みである。ではどんな外的な「事物」が「時間」という語で名指され得るのか、これが形而上学者の問いである。形而上学者は、空間時間多様体のもつ、出来る限り我々の時間経験に適合する側面を探す。そして理解や経験の本質を見ようとするなら、認知科学の助けを求める必要がある。
【10】同じように、嫌悪性とは何か知りたければ、嫌悪の心理学を理解する必要がある。前節では、嫌悪に関する事実が学ばれることで、嫌悪という現象を2つに分けた方がいいのではと示唆された。これと同様に、出来事だと考えられるものを我々が心理的に概念化する方法についてよりよい把握がなされれば、出来事についての特定の哲学的予断は道を譲るべきだということになるとここから論じていく。
なお、語「出来事」の様々なテクニカルな使用法はわきに置く。また、出来事トークンのみを扱う。

統一説 VS 性質例化説

60-70年代の議論状況をおさらいする。まずデイヴィドソンを筆頭とするきめの粗い説明(統一説)
・オリヴァーが指を動かし、スイッチをあげ、電気をつけ、空き巣に警告したなら、これらは全て同一。
【11】一方、キムやゴールドマンはきめの細かい見解をとって出来事の数を増やす。一般に、出来事とは性質例化である(キムの有名な定式化:eとe’が同一なのは、それらが同一の(諸)実体、同一の性質/関係、同一の時間を、「構成要素」として持っている場合に限る(Kim 1976))。
オリヴァーの場合、4つの異なる行為が存在する。60-70年代を通して、たぶん今も、統一説の方が支配的なので、ます性質例化説を支持する考察をおさらいして、まともな競合相手だと擁護しておく。

性質例化説への支持(1)

(B1)Boris’s pulling (of) the trigger  (B2)Boris’s firing (of) the gun
(B3)Boris’s killing (of) Pierre  (F)The gun’s firing
統一説が正しく(B1)=(B2)=(B3)とせよ。同じ出来事なら同じ出来事を結果するはずである。明らかに、(F)は(B1)の結果だが(B3)の結果ではない。従ってこれは統一説への反例である。
【12】想定反論:「Boris’s killing (of) Pierre」は確定記述「The action of Boris that causes Pierre’s death」に書き換える。その表示対象は(B1)、Fは(B1)の結果なので、(B3)の結果でもある。
再反論:「Boris’s killing (of) Pierre causes the gun’s firing」と言うのは直観的に正しくない。

性質例化説への支持(2)

ジョンが大きな声で調子はずれにうたった時、統一説に従って
(J1)John’s singing  = (J2)John’s singing loudly = (J3)John’s singing off-key
と考える。いま、Johnの怒った状態(A)がJ2に対して寄与的な原因だったとせよ。声の大きさは怒りの結果であった。しかし(A)がJ1に対し寄与的な原因であるとは考え難い。歌うどうかの決定は怒りとは無関係だから。ここから(J1)≠(J2)と結論せざるを得ない(Goldman[1971] cf. Paul [2000])。
 以上の議論では次の2点が両派で同意されていた。(1)出来事は存在する。(2)統一説か性質例化説のどちらか一つが正しい。しかし、両方正しい可能性を排除したのは早計ではないか? 出来事には二つの概念的把握の仕方があり、それぞれの説はそれぞれの把握の下で正しいという融和的立場を支持する認知科学を見ていく。

3.2つの表象システムと、それらの来事の存在論との関係

二つの表象システム

【13】主張:(出来事専用ではないが)出来事を表象するシステムは2つある
(Bennett[1988]は「the killing of the man」のような名前からは性質例化的な直観が、「the murder」のような名前からは統一説的な直観が出てくると考えたが、この説は同じポイントを捉えている)
ある領域の心的表象に2つの領域があるというアイデアは認知科学ではよくある。(例:二重視覚システム仮説(Milner and Goodale[1995]))
出来事や行為に向けられた過程の研究はまだ新しいが、出来事や行為の個体化に焦点を当てた研究がある(Wynn[1996]:連続的に進展する光景からの離散的な出来事の個体化は、認知的な押しつけである)。

発達心理学的研究

【14】幼児が世界の活動を個別の出来事へと解析する能力への関心。
幼児にとって解析能力が必要な理由として――(1)因果性を把握するために必要 (2)行為の個体化はその行為を自分が行うことを学ぶために必要な前段階 (3)他人と同じように行為を分析することは、動詞獲得、ひいては言語的コミュニケーションに必要(Sharon and Wynn[1998] 357)
 Spelke[1988](表面)、Bergman[1990](音)の研究から考えるに、幼児は運動の光景をバラバラの単位に分けるのに、時空的な非連続性を用いているらしい。

2種類の個体化の可能性:時空的連続性と種

【15】12カ月を過ぎると、対象の個体化に「種のメンバー性」を用いるようになる。異なる種の対象がスクリーンの反対方向から一つづつあらわれるという光景を12カ月の子供に見せると、2つの数的に異なる対象を表象する。この結果は時空的連続性に関する考察のみからは出てこない〔同じ種の対象の場合は1つしか表象しないから?〕(Xu and Carey[1996])。また、「車」という種名を知っている子供に、無傷の車3台と壊れて2部分に分解した車を見せて、「車」はいくつあるか尋ねると、5と答える(Shipley and Shepperson [1990])。これは、5歳児は種ベースの個体化が可能なのだが、より原始的な時空基準の個体化を好むということを示すようである。
 対象でなく出来事の個体化はどうか。子供と大人に動画を見せ、「How many Xs are here」と聞く実験(Wagner and Carey[2003])。Xには適当な出来事記述(出来事の目的を照準にしたものと、時間的に離散的なサブ‐行為に照準を合わせたもの)が入る。子供の場合、個体化は時空を規準にしがちだが、しかし3歳、明確には5歳までには、種ベースの個体化に対する感受性を持つことが分かった。逆に大人では殆どの場合に種ベースの個体化を行った。
【16】ここで主要なポイントは、大人には、出来事の個体化のために、時空的連続性に基づく第一システムと、種に基づく第二システムの二種類のシステムを持っているようであるという点(発達心理学を援用したのは子供への興味ではなくて、最も関連する認知科学的研究が行われている領域だから)。

哲学の問題へ

 出来事の個体化と言っても、心理学者は出来事分析:時空的流れをバラバラの単位へ分解することを問題にし、哲学者は同じ時間場所に生じる出来事を問題にする。両者は恐らく関係するが同じではない。
 ボリスの例再考:(B1)と(B2)は同じ場所時間に生じる出来事だが、これらが別の出来事なのかという問題(スライス問題)がある。これは心理学文献の直接扱う問題ではないが、間接的に関係はある。
→2つのシステムの存在が、統一説VS性質例化説の議論の発生と存続の診断を助けてくれる。

2つの見解と2つのシステム

個体化の際、ある出来事トークンがどんな行為タイプを例化するかに重要な役割を与えている性質例化説は、2番目の後から発達してくる出来事表象システムにふさわしい。では、統一説の方は1番目の先に発達する時空的要因に注目するシステムと結びついていると言えるか? →言える
【17】行為の表象に純粋に時空的な表象のみ使われるなら、行為が身体運動と解されるのは自然である。→デイヴィドソンの行為とは単なる身体運動だという見解に合致している。
 ゴールドマンの仮説:出来事スライス問題をめぐって対立する両派は、二つの別の種類の心的表象について理論を作っているのではないか?
【18】日常的な思考で、統一論者が種ベースのシステムを、性質例化論者は時空システムを使っていないと言っている訳ではない。問題は理論化の時にあらわれてくる。どちらのシステムも出来事に関する直観の源泉であり、理論家はどちらか直観群を強調するか選んでいるにすぎない。こうした直観群は、彼らの理論的な判断に影響する無視できない要因である。

結論:時間と嫌悪性との比較

時間の場合も嫌悪性の場合も問題はこうだった:世界の中に対象や性質を特徴づけるために無批判、非反省的に用いられる名辞に最も適合するような、世界の中にある性質は何か。
嫌悪性の場合には、単一の嫌悪性なる性質が存在するという仮定を排除し、嫌悪性1と嫌悪性2が存在するというのがベストな回答ではないかと示唆された。
同様に、認知科学から形而上学が学ぶべき教訓は、統一説か性質例化説のどちらか一つが正しいと言う仮定を排除せよと言うことではないだろうか。出来事1と出来事2という2つの形而上学的なカテゴリがあると言うのがベストな回答である。このように、認知科学は形而上学の営みで役割を果たしていく。