えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ノーブ効果の語用論的説明 Adams and Steadman[2004]

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-8284.2004.00480.x/abstract
Intentional action in ordinary language: core concept or pragmatic understanding?

意図的行為の「単純な見方」とノーブ効果

意図的行為をめぐって次のような二つの見解の対立がある

  • 見解1:行為者Sが行為Aを意図的に行うのは、SがAすることを意図する場合に限る(“simple view”)(Adams 1986, 1997; McCann 1986)
  • 見解2:SがAを意図的に行うが、Aすることを意図していない場合があり得る(ただし、Aが予見され、Sが自分の行為の結果としてAを受け入れる気willingnessがある場合に限る)(Bratman 1987; Harman 1976; and Mele 1992)

 Knobe (2003)]で提示されたデータは、行為者が害(/利益)をもたらしたと把握される場合には、たとえ意図がなくても、意図的に行為したと判断される傾向がある(/ない)ことを示す。これは見解2を支持するものとして扱うことができる。
→しかしこの実験では素朴な「意図的行為」概念がうまく分節化されていないのでは?

Knobe[2003]での説明

被験者は、破壊条件の下では行為者が大きな罪に値すると述べた(0-6で平均4.8)が、保護条件のもとではわずかな称賛にしか値しないと述べる(1.4)。これは意図性に関する判断と相関する。被験者が副作用を悪とみなす場合には、善とみなす場合に比べ、それが意図的に引き起こされたという気が非常に強い。
Knobe[2003a]は、以上の結果が見解1を支持するという結論は出さなかったが、そうできることを見るのはたやすい(Knobe[2003]bでは出している)。しかしその結論は早計である。

ノーブの実験の二つの解釈

1.〈意図的行為〉というはっきり分節化された中心的な素朴概念core folk conceptにアクセスしている
2.むしろ意図に関する言葉遣いの語用論的特徴という明確な素朴概念にアクセスしている。
 →「きみはこれを意図的にやったんだ」と言うことは、非難を会話的に含意する。しかし、非難は「何かを意図的に行う」ということの意味論的内容(あるいは中心的概念)ではない。

〈意図的行為〉概念の中心部 vs 語用論

・人々は、〈意図的行為〉というはっきり分節化された中心的な素朴概念を持っていない。
=行為を意図的にする心的なメカニズムに関する理論にたいして、どんなアプローチも持っていない。し、日常生活上では持つ必要もない
⇔ 意図に関する言葉遣いの語用論を十分把握する必要はある
・根拠として:Malle&Knobe[1997]は、人々の素朴な意図的行為概念に少なくとも5つの側面を指摘(信念・欲求・技術・意図・気付き)。一方で被験者がこの5つ全てを述べた者はいなかった。
・一方で称賛と非難に関する意図的行為の語用論的特徴に関しては非常に明確な考えが持たれている。→意図的と思われるよい行為はより称賛される/意図的と思われる悪い行為はより非難される
・ここで、称賛や避難は概念の中心部ではなく語用論に属する。何故なら、「Sは意図的にAした」の真理条件は称賛や非難を含まないから。(道徳的に無記な行為が意図的であり得る)

ありうるシナリオ

(a)社長は環境を意図的に破壊した
(b)社長は環境破壊のリスクを知っていてそれを生じさせた
もしこのように答えの選択肢を増やしていたら、少なくとも同じ程度の被験者が(b)を選ぶだろうと考えられる(実験準備中)。(b)でも社長を責めることができるからだ。

彼らは社長が環境破壊に無頓着であることに不賛成であった。この無頓着さを責めたいと思うが、もしこの行為が意図的になされたと言われるなら、非難は強くなり、より効果的にこうした行為をやめさせることになると知っている。〔そこで、〕非難を意図的行為と結びつける。社長が実際に環境を破壊しようと言う意図をもっていたかどうかは恐らく考慮に入れなかっただろう。〔見解2、つまり〕何かを意図することなしにそれを意図的に行うことができると判断していることになっていると指摘されれば、彼らは認知的な一貫性の無さに直面することになるだろう。もし選択肢(b)を選ぶなら、こうした認知的一貫性の無さは存在しない。ここから、(a)を選んだ被験者は、〈意図的行為〉という分節化された中心的な素朴概念にアクセスしている訳ではまったくなさそうだと考えられる。むしろ、意図に関する語りの語用論的特徴にアクセスしているのである。もし、彼らが中心的概念をアクセスしており、一貫性の無さを考慮したならば、彼らは(b)を選ぶ傾向にあると考えられる。 pp.178-179

非対称性

では保護条件で意図的だと判断されないのはなぜか
1)→社長の態度が卑劣すぎて、意図的と言うと称賛することになってしまうからかもしれない
・破壊条件下の「環境を破壊しようがどうでもよい」と違い、保護条件下の「環境を保護しようがどうでもよい」という発話には典型的に見て何か奇妙なものがある。被験者は何故良い結果を気にも留めないのか不思議がり、この態度を「良い結果に対するネガティブな態度」〔つまり、よい事なんて起こらない方がいいという態度〕だと捉えたのだろう。
2)→語用論の働きによって、結果に無関心ならばその結果を意図したりその行為を意図的に行ったりしないと考えたのかもしれない
・この場合今度は何故破壊条件で意図性が高くなるのかが問題になるがこれに関してはもう説明した。

意図

 Knobeは、「行為者が環境破壊/保全を意図していたかどうか」は訊かなかった。しかしこう聞いた場合それぞれの結果に対して意図があったと被験者が考えていた可能性はある。→この場合は次のような事実に訴えて非対称性の説明が可能
人々はポジティブな行為に関して、ネガティブな行為よりも<意図>と<意図的に行うこと>を分けるのかもしれない。何故なら、ポジティブな意図を持つことは容易(でよくあること)だがそれを意図的に充足するのが困難であり、逆に、人のネガティブな意図は、それを意図的に充足する前でさえ、常に規範から逸脱的(で、他人を脅かすようなもの)であるからだ。
・破壊条件:無頓着さは環境破壊への意図だととられ、ネガティブ態度のみに基づき非難を行う
・保護条件:無頓着さは環境保護への意図とはとられない
→この見方も見解1と整合的

結論

 ノーブの実験は見解1を無効にしない。ノーブの実験には言語上の問題があり、実際には語用論的特徴を測っていたのだと思われる。この実験が重要で非対称性が探求すべきものだということには賛成だが、今のところは見解1・見解2の論争の決着をつけるようなものではない。