えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

直観の構成主義的モデル――実験哲学と存在論 Thomasson (2012)

http://secure.pdcnet.org/monist/content/monist_2012_0095_0002_0175_0199

  • Thomasson, A. (2012) Experimental Philosophy and the Methods of Ontology

存在論と概念分析

  • 概念分析は近年様々な攻撃にさらされてきた。この論文では存在論上の議論に焦点を当て、これまでの概念分析批判が殆ど注意を払っていなかった概念分析のモデル、「構成主義的アプローチ」を擁護する。

構成主義的アプローチ:構成的な意味論上の規則を、指示される対象の様相的特性を決定するものとみなす。

1.存在論と概念分析

  • 構成主義的見解を支持する議論は、指示の因果説をめぐる考察からでてくる。
指示の因果説の二つの問題と規則
  1. ある名辞の指示を決定しようとする人が因果的接触を持っているものはたくさんあるので、名辞がいったいどんな種や事物を指しているのかに曖昧さが残る。
  2. ある名辞の指示を決定しようとする人は常に何らかのものと因果的接触を持っているが、一方で名付けは失敗することがある。

この曖昧さの問題を解決するには、名辞に次の2つの規則を結び付けてやればよい。

  1. その名辞の適用条件に関して:そもそもが名辞が何かを指示/名付けているかどうかを決定する規則。指示が行われている事例と行われていない事例の区別を行う。
  2. その名辞の再適用条件に関して:名辞が同じものを指示するのに再度使われるのはどんな場合かを述べる規則。「このNはあのNと同じだ」と言うことを可能にしてくれる。

→つまり、個体への指示は、用いられる名辞がこうした曖昧さ除去規則と結びついている程度だけ、存在論的に曖昧さを除去される

意味論的規則と存在論
  • 名辞が指示する事物にとっての様相的な事実を固定する
    • 適用条件は「there is N」と言うことが真であるような条件を与え、Nの存在条件を確立する。
    • 再適用条件はNの基本的な同一性条件を固定する。
  • 2つが合わされば、Nの基本的な存続(persistence)条件を固定する。

→存在、同一性、存続という最も基本的な様相的性質を固定することで、これらの規則は指示される存在者の存在論的カテゴリを確立する。

  • このようなアプローチは多く重要な帰結を持つ
    • Competentな話し手は、架空の状況における様々な事実に関する判断でラディカルで体系的な誤りを犯すことはあり得ない。何故なら、彼らがマスターしている意味論的規則は、問題となってる基本的な様相的事実にとって構成的だから。
    • いくつかの存在論的問題は、その問題を固定するのに十分な程度我々の概念がきめ細かくない場合には、回答不可能である。
    • この見解に基づくと、概念分析は存在論を営む中で重要な役割を持つ。また、ある対象の(形而上学的な)「様相的性質」について語ることは、その対象にかんする様相的真理の実体化を含む(ex.「この石像は破壊されれば存続できない」から「この石像は『破壊されても存続することはあり得ない』という様相的性質をもつ」へ)。また、言語能力によって我々は形而上学的に必然的な真理を知ることができるようになる。

→何が形而上学的に必然的かに関する基本的な真理は、構成的な意味論的規則の対象言語での表現である。我々が対象の様相的性質、存在論的身分を知るのは、関連する名辞をつかさどる構成的な意味論上の規則を知ることからはじまる。

概念の分析/概念での分析
  • 「概念分析」という語は注意深く用いられなくてはならない。概念分析は対象言語のうちで行われるものである。

スローガン:対象言語のうちで行われる限り、概念での分析であり、概念の分析ではない。

  • 分析が対象言語のうちで行われるので、分析は世界へと向けられ、対象の様相的特徴についての知識を結果として生み出す。

2.概念 対 対象

直観の使用に対する一般的な批判

▲我々の概念、名辞の意味、直観が、哲学的問題に関する事柄が実際にどうなっているかについて、何らかの導きや証拠をともかく与えてくれると、どうして考えるべきなのか?
(Ex.知識に関する直観が、人が本当に知識をもっているのは何時かについて、何か教えてくれると、どうして考えるべきなのか?)
(これと同じ批判は、直観に関するデータを、心の外の事柄に関する理論に対し証拠/反証として用いようとする、「ポジティヴな」「こころのそと」プログラムをとる実験哲学者にも当てはまる)

直観の証拠モデル
  • しかしこれまで直観の適当性に関する議論は、直観に関する一つのモデルに焦点を当ててきた。

〔証拠モデル〕:様々な事例に対する直観は、証拠としての役割を果たす。様々な事柄についての哲学的見解に対して、有利/不利な証拠を提出する。

  • このうえで直観の批判者は、「我々自身に関すること(直観や概念、言語使用)が、心の外、言語の外の知識対象に関して何か教えてくれる」というアイデアを攻撃する。
  • 直観擁護者も同じような直観モデルを採用している。例えばSosa (2008) は、知覚:科学=直観:哲学の類似を擁護した。

▲直観も知覚のように心の外の事実についての証拠を提出しうる能力だとすると、この直観なる準観察的な能力とは一体何なのか? それはどのように働くのか? また、直観は普通すこぶる不正確である。哲学的問題に関しての直観も同じではないか?
→そこで直観の証拠としての役割を様相的事実に制限しようとするものものもいる(Sosa[2008])。

▲様相的事実とは何か? 直観を通して我々はそれをどのように検出するのか。また、直観が様相的事実のみに関する知識を与えると考えるべき理由は何か?
→Sosa「深い理由はない。それが適当だと思えるので」

トマーソンの診断・直観構成モデル
  • 問題は、批判者にも擁護者にも共通な直観の証拠モデルであり、概念分析の使用ではない。
  • 構成主義者によれば、概念が適応される際の規則は、我々が語ったり思考したりするものの存在論的カテゴリにとって構成的である。
  • そこで一般的な批判へは次のような応答が為される。
    • 直観的な概念判断が関連する概念行使の能力を反映している分だけ、関係する概念や名辞の使用の規則をも反映している。こうした使用の規則はいつ対象が存在/存続等するかを「我々に教える」事が出来るが、それはこの規則が何らかの種の関連する証拠やデータを提供するからではなくて、我々が語っているものの存在論的な種が何なのかを固定するからなのである。
構成主義の魅力
  • 「何故直観の対象は様相的事実に制限されるのか」の問いにもっとちゃんと答えられる。短い答:様相的事実は色、形などに関する事実とは類似していないから。
  • 形而上学者が探究するような様相的事実は、様相的真理からの実体化である。
  • そして、様相的真理を述べるということは、対象言語を用いながら意味論的規則を明示化する一つの方法に過ぎない。

(Ex.「絵画はカンヴァスを破壊されれば存続できないということは様相的事実である」と言うこと←実体化―「絵画はカンヴァスを破壊されれば存続できない」という様相的真理。この様相的真理を述べること→規則「ある絵画の名前は、カンヴァスが破壊された後には適用できない」の明確化)
→従って、構成主義的見解に基づけば、概念や直観的判断が、様相的・形而上学的に事物がどうなっているかに関して導きを与えてくれるだろう方法には、何の神秘もない。能力や検出も必要ない。

3.文化的ヴァリエーション

  • 直観への懐疑は一般的なものに留まらない。実験哲学のネガティヴなプログラムは、直観が役に立たない点についてより特定的な証拠を探究している。
  • なかでも有名なのは文化差である。例えば知識や名前の指示対象に関する直観に文化差があり、信念の根拠を直観が与えてくれるという考え掘り崩されると考えられている。
存在論と文化差
  • これまでの実験哲学的知見には存在論に関するものがほとんどないので、存在論的判断が文化によって変化するかは分からない。とはいえ、これはありそうな話ではある。
  • 伊勢神宮には御正殿という建物があるのだが、Dominic McIver Lopesの研究が教えるところによると、御正殿は20年おきに場所を変えて立てなおされている。建物の連続性に関する日本の概念はかなり変わっている。欧米人なら、御正殿は築20年以内だというだろうが、日本人なら685年から同一でありここに建ち続けていると普通言うのである。議論のために、西欧人と日本人の間で建物の存続に関する直観が違うというデータがあるとしよう。
  • 問:こうした文化横断的な変化の存在は、「概念分析は関連する存在論的事実についての知識を与えることが出来る」というアイデアを掘り崩すか。
    • 答:全くそんなことはない
    • 構成主義によれば、深層にある様相的境界を片方の文化の直観がもう片方よりもよく追跡しているとかそういう問題はない。
    • 異なったグループの人々は、自分たちの実践的な関心に合わせて、異なった規則を持つ異なった言語を構築しているかもしれない。この場合、西洋の「建物」と日本の「建物*」では、使用の規則が違う。

もし建物/建物*の年代に関して一見したところ不一致があるとしても、それは単に概念枠の違いから生まれた言葉上の不一致であり、片方の直観が「存在論的事実」を捉え損なっていると考えなければいけないような実質的な相違は存在しない。

    • 確かに、存在者の同一性や存続に関する直観の差異というのは判断の自信を低下させる。しかしこのことは、概念枠の差異が我々の図式の恣意性を明らかにし、実践的関心から言って自らの概念図式が本当にベストかどうか再考を促すということである。もちろん、直観の差異が概念枠の「改訂」を促すこともあるというのは、それが「間違っている」ということとは全く別の問題である。
複雑さの問題

▲Weinberg and Crowsky[2009]は構成主義を取り上げこう論じた:もし直観が構成的であると同時に多様なものであるなら、哲学の概念にも同じだけの多様性が存在していることになる。知識や指示について単一の説明ではなく、膨大な説明が存在することになるというコストを構成主義者は採ることになる。

  • しかしこの議論に悩む必要はない。或る見解がことを複雑にするといって、その見解が間違っている理由には全くならない。
コミュニケーションの問題

▲概念に多様性があると、異なった概念枠を持つ者同士では、コミュニケーションや「同じことに関して」話すことができなくなるかもしれない。建物について議論している欧米人と日本人の不一致を名辞の曖昧さに訴えて説明し去ってしまうと、二人はあたかもBank(河原)とBank(銀行)について喋っている如く、完全にすれ違っていることになる。

  • 我々の名辞を体系的に「曖昧」だと扱う必要はない。使用の規則が異なる分だけ、指示される対象の様相的特徴も異なるのであるから、概念上のヴァリエーションや言語上の不一致を前にして、互いに異なっており関係のない概念群が存在すると言う必要もない。同時に、別の使用規則を持った人々がコミュニケーションできるということを否定する必要もない。

▲では欧米人と日本人の概念枠が異なっている場合、彼らは本当は「別の事物について話している」という見解にコミットするのか? しかしそれはあり得ないだろう。彼らは明らかに同じ事物(そこにある神社)について話しているのだから。

  • 哲学的考察の場面では、存続条件が違うものは厳密に同一とは言えないと考えるべき理由がある。従ってこの厳密な意味では、欧米人と日本人の思考や発話の指示対象は同一でないと言わざるを得ない。
  • しかし、日常の数を数える営みにおいては、ひとつの種名辞つまり「物質の塊」を用いて我々は数を数えている。
  • この問題は物質的構成物を巡る問題と同じである。多事物主義者は彫像と粘土の同一性を否定するが、我々の日常の数数え実践と、そこに物質の塊は一つしかないことを考えれば、何故我々がそこに一つの「事物」しかないと言うかに関して十分に説明できる。一人が彫像、一人が粘土について話していたとしても、同じもの((種名辞なしで言われた)あそこにあるもの)について話しているように見えるし、また多くの事柄(重さ、位置など)について完全にうまくコミュニケーションできる。

4.その他のヴァリエーションの源らしきものたち

  • 実験哲学は様々なファクターが直観的判断に影響するという証拠を示している。が、存在論に関しては具体的事例が書けているのでここは手短に済ます。
恣意的な因果的ファクター
  • 構成主義者のモデルでは、たとえ判断の背後で恣意的な因果的要因が働いていたとしても、その直観が存在論に関して間違っているとかミスリーディングだということには必ずしもならない。

規則の背後に恣意的な因果プロセスがあったとしても、名辞の使用規則が我々の話す事物の存在論的な種を決定するというアイデアは掘り崩されない。

  • これは、バスケのコートの規定の広さの規則が歴史的で偶然な制約によって決められたとしても、規則がコートの規定の広さだと言うものはコートの規定の広さであるのと同じである。
改訂と実践的関心
  • ここでも、恣意的な因果的ファクターの存在がわかれば、規則が公平で最善だという我々の感覚が崩され、規則の再考を促されることで、規則に関する我々の確信が揺らぐことはあるだろう。

意味論的規則に関しても、より我々の関心に即した、体系性や合理性がより大きい存在論的カテゴリの再考を促されることもあるだろう。

  • しかしやはりこれは、今の意味論的規則が存在論的「事実」にかんする「証拠」を与えていなかったとか、「真の」様相的境界を発見したとか、そう言う問題ではない。あくまで実践的関心に基づく改訂の問題である。

5.実験哲学の役割

  • 経験的方法、特に実験哲学的方法が、存在論で果たす役割はないのか? →いやある。
    • ひとつは、すでに見たように、実験哲学の知見は概念枠の改定を促す。
矯正としての役割
  • 我々が例えば、われわれの知っているものとしての、あるいは著作権法に保護されるもの等々としての交響曲の存在論的地位について語りたければ、公共言語におけるその名辞の使用の標準的な規則を扱う必要がある。
  • 実験哲学の方法は、名辞の使用に関して個人的で特異な規則を持っているかもしれない孤独な哲学者に対して、便利な矯正剤を与えてくれる。
有能だと知っていない話者

問:形而上学者が規則に習熟していなかったと判明する可能性があるので、概念分析はやはり存在論的な知識を与えることはできないのではないか?

  • これまでの描写では、名辞の規則に習熟した話者はその規則を明示的に把握でき、それにより様相的・存在論的な知識を得るとされていた。
  • しかしこの前提を実験結果が崩すかもしれない。有能な話者が、自分が有能な話者であるという知識を持っていないことが可能かもしれない。
  • そしてその場合、彼らは様相的知識を持っていないかもしれない――が、これは別の問題である。
  • 自分が何か知識を持っているが、そのことに関する知識は持っていないということがあり得ると考える限りで、例え自分が有能な話者であるという信念が経験的知見によって崩される可能性があっても、有能な話者はその習熟を用いて様相的知識を獲得できると考えてよい。
有能でない話者と能力/エラー問題
  • では、そもそも有能でない話者が様相的知識を得ることはありえるだろうか?
  • 実験的データはここで、有能でない話者が規則を明らかにし、様相的知識を手に入れるのを助ける働きをするかもしれない。

▲様相的知識の基礎として必要なのは「規則」の知識である。経験的な知見は、人が実際にどう名辞を使うかを教えるが、この知見それ自身では、どの使用が「能力」の表れで、どれが「遂行上のエラー」なのかを区別することができない。

    • →一階の言語的判断だけでなく、それに対する反応や、教えられること、訂正されること、話者の権威などに訴えることで、能力とエラー区別をよりよく捕まえることができるかもしれない。

▲しかし、もし純粋に経験的な方法のみを用いて規則を決定せよという要請があるとすれば、クワインやウィトゲンシュタイン、クリプキらが示したようにこれは不可能である。実験的結果のみでは、何が言語の規則なのかを教え、それによって関連する存在論的な知識を与えるという仕事はできない。しかし、助けになることはできる。

  • 状況は、ネイティヴの言語的振る舞いの観察から未知の言語の規則を見分けようとする言語学者に似ている。
  • ここで重要なのは、事実の観察だけではなく、深層にある規範的な実践をマスターすることである。規範に支配された技術と実験的結果とを用いることで、実験データを用いてこれまで習熟していなかった表現の規則を決定することができ、更なる様相的・存在論的な知識を得ることができる。
構成主義と経験的方法
  • 従って、構成主義を採ると実験的知見だけでは様相/形而上学的問いに答えることはできないことが帰結するが、これはあまり問題ではない。
  • 構成主義による様相的知識の説明は、一般化と推論の能力と意味論的下降しか使っていないのでまったく神秘ではない。しかし構成主義のストーリーのほかに、純粋に経験的手法で存在論の議論で問題となるような様相的知識を得ることができる他のストーリーは存在しないように思われる。

というのはその場合、われわれは様相的事実を経験的に検出できるということになるが、ヒュームの昔からこれは無理だとわかっている。

  • 結局、様相的知識を得るための純粋に経験的な方法がないというのは、憂うべき帰結というよりは避けがたい状況だ。