えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

哲学において直観は重要じゃないよ派 Alexander[2012]

Experimental Philosophy: An Introduction

Experimental Philosophy: An Introduction

  • Alexander, J. (2012) *Experimental Philosophy: An Introduction*

第1章 哲学的直観
第3章 実験哲学と心の哲学
第5章 実験哲学の擁護 ←いまここ

Experimental Philosophy: An Introduction
第5章 実験哲学の擁護

1.序

実験哲学の仕事は重要じゃないよ派
・誤った種の哲学的直観に注目しているから(→2、3節)。
・哲学的直観に注目しすぎているから(→4節)。

2.誰の直観が問題か?

【専門家擁護】:哲学的直観についての我々の興味は、哲学者の直観についての興味であると理解されるべきである。
訓練を受けたプロの科学者の物理的直観が、市井の人の物理的直観よりも信頼できるのと同じように、哲学者の様相的直観はより信頼できる(Hales)。

理由1:哲学者は関連する概念や理論をよりよく理解しているから

・哲学的議論は典型的にテクニカルな概念を含む。そして、哲学者は哲学的教育のおかげでこうした概念に特権的にアクセスできる。
▲多くの哲学的議論は日常的な概念を含む。多くの哲学的議論は日常概念の考察から始まるからだ。日常概念との接触を失った理論は、議論を動機づけていた日常概念に関する疑念に答えてくれない。

理由2:哲学者は日常概念をよりよく理解しているから

・たとえば哲学者は日常概念のより正確な区別をすることができるかもしれない。このことが哲学者の直観を理論的により価値のあるものとするかもしれない。
▲概念能力の相対性は、まさしく実験哲学が問題にしているものである。実験哲学者なら、「どのようなかたちで哲学者は市井の人と違うのかについて多くのことを知るのを望む」。両者に差があったとしても、市井の人の直観が無価値なわけではなく、「データの全体的なパターンが、哲学的問題の究極的な源泉について重要なことを教えてくれるだろう」(Knobe, Nichols)。従ってこの場合実験哲学はますます必要とされる。
▲両者の概念理解が違うという事から、どうして哲学者の理解の方が優れているという事になるのか。概念に関する判断を、受容されている直観/理論に対しテストしていくことで、概念能力を鍛えるというトライアル&エラーの哲学的教育がそうさせると考えられている。が、何故その理論や直観は確かなものだとされているのか? 説明上の遡及が起こる。
▲Weinbergらの研究によれば、過剰一般化、信念のバイアスなどが、哲学者をして自分の直観は調律済みであると信じさせてしまう。つまり、哲学的教育は特に役に立たないのみならず、そのことは気づかれないようになっていると考えられる。

理由3:哲学者は哲学理論や原理に習熟しているから

・科学において理論を知らない人の観察が役に立たないのと同じことが哲学でも言える。哲学理論は、架空の状況で或る特徴を際立たせ、その特徴の解釈をガイドして、直観形成を助けることができる。
▲哲学理論を通した判断はもはや哲学的「直観」では無い。少なくともそう言えるためには、フィルタリング過程は無意識的でなくてはならない。
▲理論へのコミットメントは、直観をクリアにすると共に濁らせもする。ただ、これは単に、理論の方の精確さを確かなものとする何かが必要だという事にすぎないと言われるかもしれない(Kornblith)。しかしこの場合、理論が直観を形作るなら、どうやって直観が理論の精確さを〔直観から〕独立に評価するのを助けてくれるのか不明である。この考えは、直観との合致によって哲学的理論を前進させることができると考える人には大きな脅威である。

理由4:哲学者は哲学的問題について長い間慎重に考えているから

・架空の事例に対する判断だけでなく、事例自体やその判断の帰結が与える影響等についても注意深く吟味・査定する時間が与えられた十分理想的な条件のもとで形成された「しっかりした直観」は、理論的により価値がある(Kauppinen)。反省的な判断は正しくある公算が大きい(Sosa)。
▲反省と信頼性の関係は一筋縄では無い。反省が以前の判断を単に追認し、判断の信頼性の増加なしに確信だけを増加させることもある。というのはまず概念的判断形成にかかわる認知プロセスは内観的にアクセスできないし、また、我々は自分の信頼性を自信を持ちすぎる傾向がある。
▲実際に反省を働かせる時、多くの認知的バイアスが入り込んでいる。こうしたバイアスに気づいている場合でさえ、我々はそれを補填することを苦手としている(Pronin et al)。

理由5:哲学者は手続き上の知識――特殊なノウハウを持っているから

・思考実験をどう読み、考えるのが最善かを訓練されていれば、哲学者の直観はより理論的価値のあるように思える。このノウハウがどんなものかについて二つの可能性がある。
1) Sosaによれば、多くの思考実験において被験者は、情景に明示的に書かれていない情報を取り出してくるように求められている。この点で、思考実験を読むことは小説を読むことに近い。哲学者のノウハウとは、特定の情景から重要な部分を適切に読み取ったり、想像する能力である。
2) Williamsonによれば、思考実験とは架空の前提をもった演繹的に妥当な論証を含んでおり、被験者はシミュレーション、背景情報、論理を用いてその議論を評価するように求められる。被験者はシナリオを読み、そこで真なことは何か、そのシナリオは可能か、前提は帰結を含意するかを判断する。哲学者のノウハウとは、特定の情景から重要な部分を抜き出し、反実仮想的推論を行い、論理的な結論を出す能力である。
▲ノウハウの比較は、概念能力の比較と同様、まさしく実験哲学が問題にしているものである。哲学者がよりよいノウハウを持っていることを、実験哲学の重要を減ずる理由にすることはできない。

3.どんな直観が問題か?

〔薄い直観:信念/信念を持つ傾向性/厚い直観:もっと制限された心的状態〕
【厚さ擁護】:哲学的直観が何であれ、それは実験哲学者が用いるような実験的研究で研究されうるようなものではない。
調査への反応全てで直観が示されている訳ではないのだから、直観とその他の心的状態を区別する任務がある。(Ludwig)
 この方針をとれば、実験哲学は正しい対象を研究していないのだから、Chap4で実験哲学が指摘した方法論的な問題を無効化することができる。
▲この戦略が有効となるには2つの条件がいる
(1)〔真の〕哲学的直観は真理追跡的である
(2)我々は実際に直観を同定する能力を持つ
→これが満たされなければ、実験哲学が直観を研究していないとわかったとしてもわずかな慰めにしかならない。
しかし厚さ擁護論者で、この二つを明示的に満たしているものは殆どおらず、大抵は問題をオープンにしている。このことは、より実験哲学的研究が必要であることを意味するだろう。ただし、実験哲学者は正しい心的状態を研究するよう大きな注意を払う必要はある。

4.直観は問題か?

 実験哲学の重要性は、直観の重要性に依存する。しかしDeutschは、哲学において重要なのは反例であり、反例に対する直観ではないと論じた。Ichikawaも、哲学者がある命題の直観的な本性に訴えるのは、弁論上の処置であり証拠上のものではないと論じる。Deutschは、多くの哲学的議論が直観への明示的な訴えを含まないことから直観の非重要性を主張する。しかしGoldmanが論じたように、直観の語彙で語られていないからといって直観について語られていない事にはならない。言われている事柄を理解すれば直観が重要な役割を演じていることがわかるだろう。

 しかし「そうである」は「そうあるべき」、「その必要がある」を含意しない。Williamsonは、直観は方法論上非本質的であり、そこから離れたほうが哲学にとって有益だと考える。非本質的と言うのは、多くの場合もっとよい証拠があるからである。例えば、知識がJTBでないことの最良の証拠は、pと知ることなくpというJTBを持つことは可能だという直観ではなく、それが可能だという事実である。Williamsonはさらに、直観を証拠として扱うと懐疑主義を呼び寄せるのでやめた方がいいと論ずる。哲学的証拠を哲学的直観に制限してしまうと、ある命題が真であると思われるという事実が、その命題が真であることの良い証拠を与えるのはどのようにしてかを説明する必要性が出てくる。Williamsonはこれを不可能な課題だと考えている。

 つまり、Williamsonは、直観抜きで哲学出来るししたほうがいいと言う。しかしそれは無理である。ゲティア事例の場合、Williamsonにとって次のような論証が妥当かつ健全であることになる。
(1)ゲティア事例は可能である。
(2)ゲティア事例が起こった場合、主体はpと知ることなくpというJTBを持つだろう。
(3)従って、主体はpと知ることなくpというJTBを持つことは可能である。
(4)従って、知識の必要十分条件は必然的にJTBだというのは正しくない。
確かにこの論証のどこにも直観への訴えはない。
 しかし、哲学は結局論証の営みであるから、妥当な論証を組み立てただけでは駄目で、その論証が健全であると納得させなくてはならない。直観は、前提(2)を受け入れる根拠を与えるのである。Williamsonの考えでは、「ゲティア事例が起こった場合、主体はpと知ることなくpというJTBを持つだろう」という事実から(2)が帰結する。確かにこの議論は妥当なのだが、説得力に欠けるという欠点をもつ。人が既に(2)は真であると受け入れていなかったら、実際に(2)は事実なのだという主張は何の役にも立たない。

 状況は、最良の哲学的証拠は、世界についての単に知られた事実以上のことからなると認めるか、もしくは、「哲学の議論実践は合理的説得を目指しており、証拠はその目的に役立つという」弁論術的な哲学観を放棄するか、いずれかだという風に見える。Williamsonは後者をとる。というも、証拠は納得してない人を説得する力をもつと考えると、懐疑論者は納得してない人なので、懐疑論者を説得しなくてはならないが、しかし懐疑論者は納得してないだけでなく説得できない人なので、こうした「弁論術的な証拠観」は決して満たされることのない証拠観だということになるからである。
 しかしここで問いを分ける:「あなたがpは真だと考える理由は何か」/「それはpが真だと考える十分良い理由なのか」。懐疑論者とは、前者の答え如何に拘わらず後者に挑戦する人である。つまり、pが真だと納得してない人なら、pが真だと信じる十分な理由の存在は受け入れるだろうが、説得できない懐疑論者は、そんな理由の存在を受け入れない。この区別に基づけば、証拠が納得しない人を説得するために、懐疑論者を説得出来る必要があるかは自明ではなくなる。何事も懐疑論者を説得できないという事実は、証拠は納得してない人を説得する力を持つという見解に対する反論にはならない。

 また、「弁論術的な証拠観」を受け入れるべき理由もある。証拠の価値は正当化〔されていること〕の価値に、正当化の価値は、信念を擁護する必要のある場合にそれを正当化できることの価値に依る。このように、証拠の価値とはなにか単純に反省してみれば、弁論術的な証拠観があらわになる。

以上のことから、上の二者択一では前者を取るべきだろう。

まとめ

実験哲学は直観と結びついているから、直観の重要性が否定されると実験哲学の重要性が脅かされる。
→でも、直観を哲学的主張の真理の証拠や、それを信じる理由として使わずに哲学の営みを行っていくことはできないとわかった。
→しかもこの種の心理状態に訴えても懐疑論は帰結しない。

5.結論

 伝統の擁護には二つの共通した考えがある(1)実験哲学は正しい対象を研究してない(2)だから、実験哲学は伝統的な哲学実践の理解に殆どに寄与しない。
 しかしここでは、直観は哲学者が求めている働きの少なくとも幾つかをすること、誰の/どんな直観が重要かに制限をかけようとするとより実験哲学が必要になることをみてきた。
 伝統の擁護の仕方の多くが、伝統に関する普通の考え方を大きく離れているので、実験哲学の者はかえって普通の考えを擁護して実験哲学を擁護するというパラドキシカルな立場に立っている。