えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

アウトサイダーとしてのライエル Rudwick (2014)

【要約】

  • ライエルは地質学会の新星として現れたが、プレイフェア、スクロープ、ハットンらの影響をうけ、またバックランドが象徴する国教会への反感もあって、当時の誰よりも厳格な斉一説を提唱した。
  • このことは確かに地質学者の同意を大きく揺さぶったが、斉一説と激変説の対立はライエルによって戯画化されている。多くの激変論者も、現在因の重要性や、太古の時間の長さは認めていた。真の争点は、現在と同じ強度の現在因で、すべての現象が説明できるか否かにあった。
不穏なアウトサイダー
  • 本書はここまで、チャールズ・ライエルに言及してこなかった。ライエルは、「地質学の父」、ダーウィンの進化論を準備した人物等々として名前はよく知られているが、より歴史的な仕方で評価されるべき人物である。

  • [163-4] 若きライエルは地質学会の新星だった。バックランドの講義に感銘を受け、ロンドンで弁護士としての訓練を受けつつ地質学会に入会し活動を始めた。『クォータリー・レビュー』誌へ寄稿した論文では、最新の地質学的発見・アイデアを概観し、地球史について主流の有向説を説いている。[164-1] だが、ライエルはプレイフェアの「現在因」の考えにも感銘を受け、現在因では太古の「革命」を説明できないとしたキュビエは早急だったと確信するようになっていった。コンスタン・プレヴォ(Constant Prévost)によるパリの第三紀層の説明や、自身でのスコットランドの湖の観察を経て、淡水性の地層は今日と同じ条件のもとで形成されたと納得し、中央フランスの死火山は過去の連続した噴火によって形成されたと見るスクロープ(George Poulett Scrope)に賛同した。
  • 図7.4: スクロープ『中央フランスの地質学』(Geolog of Central France, 1827)の有名な文。「時間! – 時間! – 時間!」現在観察可能な過程による地質現象の説明に、膨大なタイムスケールがどういう意味を持っているかを地質学者たちは理解していない、という信念が表明されている。
  • [165-2] またライエルは、中央フランスには最近の大洪水の形跡はないとスクロープに説得され、バックランドの洪水説へ疑念を抱くようになった。とくに、この洪水が聖書の洪水と同定されている点には懐疑的だった。この疑念は、オックスフォードが体現する、国教会の政治・文化的権力への反感によって強められた。そしてライエルは、洪水のみならずあらゆる「激変」を排除しようと企て、[165-3] ヨーロッパで大規模な地質調査を行った。

  • [165-4] ライエルは、当時進行中だった英国の政治改革と地質学の改革〔のタイミングを〕合わせようと決め、すでにフィールドにいる段階で、マーチソンに自身の本の構想を伝えている。[166-1] それは2つの根本的な「推論原理」に基づく。第一は「我々が振り返ることのできる最も古い時代から〔今に至るまで〕、現在作用しているもの以外の原因が作用したことはない」。これは当時の常識よりはるかに厳格な現在主義の原理である。第二は「(現在の過程が)、今とは異なる大きさのエネルギーで作用したことはない」。この2原則を一貫して適用すれば、地球の歴史についてはハットンの定常状態システムのようなものを採用することになるとライエルは考えていた。それは「絶対的斉一性」に基づくシステムであり、全体的な方向性も例外的な激変も持たない。

  • [166-2] 調査から帰ったライエルは、この種のシステムを確立するために『地質学原理』全3巻を書き上げた(1830–33)。本書は太古の痕跡のすべてを「現在作用している原因」から説明しようとしており、最初の2巻はこうしたプロセスが史料の残る人類史の範囲内で与えた効果の包括的な目録になっている(ドイツの公務員・歴史家カール・フォン・ホフ(Karl von Hoff)の資料を大いに活用した)。そこでは、変化は周期的であり、長期的に見れば地球は定常的であった。本書の扉絵は意外にも古典期の遺跡であるが、これは、地球の定常状態を人類史のスパンのなかでミニチュア的に示すものであった。

  • [167] 図7.5: 『地質学原理』第一巻(1830)の扉絵。 ナポリ近郊の遺跡セラピス神殿の柱には、海の軟体動物によって侵食された跡がある。つまり、古代ローマから現代までのあいだに、柱が立っていられるほどゆっくりとしたペースで、土地が一旦沈下して元に戻った。これは、地球が定常的な動的平衡状態にあるというライエルの解釈のミニチュア版である。
  • [166-3] 最初の二巻が与える [168-1] 「地質学の文字と文法」により、第三巻では地球の歴史の史料が書かれた自然の「言語」を解読できる(ヒエログリフ解読がこのメタファーを鮮烈なものにした)。ライエルは観察可能な現在から観察不可能な過去ヘ向かって、地球の過去を遡及的に再構成する。この戦略を例証するのに、最も近い過去である第三紀が特に注目される。この時代の最良の記録は豊富な貝の化石である。これらのうち、現生種の化石を多く含むほど新しい層だとして、ヨーロッパ中の第三紀の地層が年代順に並べられる。第三紀内部の各時期の名前はヒューウェルから借りている。すなわち、始新世(Eocene: 最新(=現生)種の始まり)から中新世(Miocene: 比較的最新)を経て、鮮新世(Pliocene: 完全に最新)に至る。

  • [168-2] 第三紀で一番古い地層(始新世)と第二紀で一番新しい地層はまったく異なっている。これは〔中間の〕化石が保存されていないことによるとライエルは解釈するのだが、注目すべきなのは、化石未保存の期間は第三紀全体と同じ長さだという主張である。この驚くべき推論は、変化の速度は統計的に一定という主張から出てきたものであり、「絶対的一様性」の原理をよく示している。またこの主張は、[169-1] 他の地質学者の想定とは異なり、化石記録は生命の歴史の完全な記録からは程遠いということを含意してもいた。[169-2] 続いて第二紀が簡単に検討された後、地球の歴史に関するモデルの要約で本書は締めくくられる。すなわち、記録される限り、あったのは定常的ないし周期的変化であり、全体的な方向性も例外的な激変もなかった。

激変対斉一
  • 当時のほぼすべての地質学者は、徐々に冷却される地球と「進歩」する生命という有方向モデルを採用しており、そこには現在因を強調するプレヴォやスクロープも含まれていた。この確信を説得して取り除くためにライエルは骨を折る必要があった。化石記録の断片性や絶滅哺乳類の存在など多くの論点についてライエルは自身の観点から説明を与えたが、[170-1] 最も信じがたいと思われたのは、巨大爬虫類の時代がいつか戻ってくるだろうとライエルが真剣に考えていた点であった。

  • [170] 図7.6: デ・ラ・ビーチの風刺画(1830)。「イクチオサウルス教授」が、人間の化石を自分たちより下等な動物の痕跡として解釈して講義している。未来にジュラ紀の爬虫類が戻ってくるというライエルの考えを揶揄したもの。
  • [170-2] 地球史にかんする根本的に逆張りの解釈が現れたことで、地質学者たちの同意は大きく動揺した。ヒューウェルは当時の激しい宗教論争*1をほのめかしつつ、地質学者が二つの宗派に分断されていると述べた。すなわち、ライエルの属する少数排他的な「斉一主義者」(Uniformitarian)と、[171-1] その批判者で多数派の「激変主義者」(Catastrophist)である。ただし後に誤解されてしまったが、この時点では両宗派ともいわゆる現在主義を支持していた。違いはただ、現在の強度の現在因で太古のすべてを説明できるかどうか、という点にあった。同様に、地球のタイムスケールについても論争はなかった。ただしライエルは、レトリックとして、批判者は時間を短く想定しているとよく主張していた。

  • コニベアは、そもそも長い時間だけでは有向性を示す証拠を排除できないと指摘し、[171-2] セジウィックはライエルが弁護士の言葉で喋りすぎていると不満を漏らした。だが結局、この論争は実質的には引き分けだった。たしかに多くの地質学者は、ライエルによって現在因の力をよりよく理解し、激変の一部は徐々に起こったかもしれないと認めた。しかし、地球を定常的なシステムと見ることには断固反対した。実際、地球の有向性・歴史性を示す証拠がますます集まっているように思われた。またいずれにせよ、この論争は英国に限られたものだった。プレヴォは[172-1]『地質学原理』を仏訳しようとしたのだが、七月革命に気を取られ実現されなかった。その後各国語に翻訳されたのは現在因の目録部分〔1-2巻〕で、これは確かに、異常・例外的な出来事に軽率に訴えないように各地の地質学者を促した。他方で定常的な地球の歴史という考えは『地質学要綱』(Elements of Geology, 1838)にまとめられたが、これは国内でも国外でも注目されなかった。

  • [172-2] ライエルの『原理』は雄弁に書かれていたため、英国では教養層でも地質学者とほぼ同様に理解できるものだった。大衆が本書のなかで最も感銘を受けたのは、地球の膨大なタイムスケールについての説得力ある証拠と、「聖書的」著者にたいする軽蔑であった。この2点はもちろんライエルと他の地質学者の合意点だったのだが、ライエルの巧みなレトリックにより、真に科学的なのは斉一主義であって激変主義者は「聖書的」著者とほとんど変わらないという印象が生じてしまった。

  • [172-3] 逆説的だが、激変の最も説得的な事例は、太古ではなく現在に近いところにあった。「洪積層」(diluvium)と呼ばれる謎の表層堆積物は、現在に形成されたものにも太古に形成されたものとも似ていなかったのだ。このため、地質学的な意味での洪水なるものが、聖書の洪水と同定されたのも無理なかった。しかし、ヨーロッパ各地の堆積層のさらなる調査により、これらの堆積物は聖書の洪水よりははるかに古いこと、また洪水は複数回起こったかもしれないことがわかってきた。セジウィックや[173-1] バックランドもこの点では自説を修正した。ライエルは、これで自身の批判者は地質学と聖書の出来事の関連をすべて放棄せざるを得なくなったと考えた。だが、洪水物語を人類史初期の局所的な出来事のかすかな記録としつつ、それ以前の地質学的洪水を説明する必要がある、と言い続けることもできた*2。それどころか、上述したように、迷子石やひっかき傷のある岩盤(scratched bedrock)をヨーロッパと北米で広く追跡できるようになったために、洪水説はますます信憑性を高めていった。
  • [173] 図7.7: 19世紀ヨーロッパに広がる「洪水」の流れの図(ラドウィック作)。迷子石や傷のある岩盤などの証拠に基づいている。各事例は各国の地質学者によって記載されており、今研究の際立った国際性がわかる。これらの事例はすべて、後には更新世の「氷河期」の巨大な氷床の痕跡であると解釈し直された。
  • [173-2] ライエルは、地質学的洪水の証拠なるものに別の説明を与えるために、新たな気象理論を持ち出した。気候は緯度だけでなく大陸の配置や海流によっても変化する。そこで、もし現在のヨーロッパがメキシコ湾流の暖流の影響を受けていなかったならば、北極圏の氷山は現在よりもずっと南にまであったはずである。そしてもし現在よりも海面が高かったならば、氷山が溶けたさいに、そこに載っていた迷子石が、現在のヨーロッパの低地全体に落ちたかもしれない。この説明は、しかしアルプスのような高地で発見される迷子石には適用できないし、傷のある岩盤、ティル、氷成粘土が広範に見られることを説明できない。しかしライエルは、すべての迷子石を漂う(drifting)氷山からの落下物と解釈し、堆積層全体を「漂流」堆積物と呼んだ。こうしてライエルの「漂流」理論は、最近の過去からあらゆる「激変」の気配を消し去り、全体的には定常的な気候の「斉一性」を確保したのだった。

  • [173-3] 漂流理論は、英国の最も新しい第三紀層〔=鮮新世の中で最も新しい部分〕に、寒冷地域にのみ生息する貝の化石が発見されたことで一定の支持を得た。ライエルはこの地層を特に更新世(Pleistocene: 最も新しい)と名付け、鮮新世の残りの部分を改めて「鮮新世」と定義しなおした。これは一見些細な名称変更だが、洪水時代とされているものを第三紀の通常の一部とすることで、地質学的に最近に「激変」があったことを暗に否定するものであった。ただし、漂流理論は十分に説得的でなく、多くの地質学者は洪水説を支持し続けた。

*1:オックスフォード運動のこと(要約者注)

*2:聖書的洪水と地質学的洪水の同一視はできなくなったが、地質学的洪水それ自体を否定する必要はなく、それを説明するために激変に訴えることも可能だった、ということ。(要約者注)

地質学と『創世記』の衝突? Rudwick (2014)

【要約】

  • ロンドン地質学会のメンバーは、「聖書的」な批判に強く反発した。だがここから、「科学対宗教」といった単純な図式を読み取ってはならない。実際のところ、地質学と『創世記』の関係については多様な考え方があった。
地質学と『創世記』
  • [155-1] 新しい地質学は、地球の歴史にかんする新奇な視点を備えていた。この視点から見れば、『創世記』の創造物語の直解は信じがたいものとなった。[155-2] だがこの事態は、現代の無神論者が想像するような「科学と宗教の対立」ではない。そもそも、当時地質学分野で活躍した人々の多くは聖職者であり、敬虔なクリスチャンだった(バックランドとセジウィック、またコニベア)。[156-2] ただし、学者の見解は英国の大衆文化には必ずしも受け入れられなかった。そこで学者たちは1807年に「ロンドン地質学会」(London’s Geological Society)を設立し、「地質学者」としてのアイデンティティを意識的に作りあげた。この協会は当初、思弁的な「地球の理論」を避け、単純な事実の収集を目的としていた。というのも英国では、革命戦争・ナポレオン戦争の熱狂の中にあって、フランス産の斬新で過激なアイデアに対する懸念が蔓延していたからだ。しかしすぐに、どんなに単純な事実にも解釈が必要だと明らかになってきた。

  • [156-3] そこで19世紀序盤、地質学者の仕事は、イギリスの活発な文芸文化の中で、伝統的な聖書解釈と比較されることになった。大衆の地質学への興味は、世紀のはじめにジェームソンが[157-1]キュビエを宣伝(歪曲)したことで掻き立てられ、20年代にはバックランドの活動によってさらに高まった。この流れの中で出版された国教会の聖職者ジョージ・バグ(George Bugg)による『聖書地質学』(Scriptural Geology, 1826–27)は、「地質学と『創世記』の衝突」を示す例としてよく取り上げられる。だが、事態はそう単純なものではなかった。

  • [157-2] 『聖書地質学』のような著作は、地質学者サークルの外から、その権威に挑戦するものだった。そのため地質学者たちは、この脅威を誇張しがちであり、自分たちと「聖書的」著者の境界が揺らいだときには特にそうだった。しかし、両者の境界は明確ではなかった。例えばアマチュア化石収集家のジョージ・ヤング(George Young)とジョン・バード(John Bird)の『ヨークシャー海岸の地質調査』(Geological Survey of the Yorkshire Coast, 1822)は、古めかしい「若い地球」解釈を含んでいたが、地元の地層や化石の素晴らしい描写を含んでおり、地質学者もハナから否定するわけにはいかなかった。
  • [158] 図7.1: メアリー・バックランドがヒューエルに宛てた手紙。「聖書的」著者に批判されたバックランドを殉教者に喩えている。この喩えは当時しばしば用いられており、地質学者と聖書的著者の対立が「科学対宗教」といった単純なものではないことが伺える。
  • [157-3] 地質学会の外では、地質学と『創世記』の関係についての考えかたはかなり多様だった。[158-1] 一方にはバグのような人物がいて、地質学の破壊的側面とみなした部分に敵対的だったが、他方で多くの著者は、地質学の発見に照らして聖書の物語を詳述・明確化することに関心を持っていた。[159-1] このことは、『創世記』(ないし他の聖書テキスト)に唯一明確な「直解」があったという考えは幻想であることを示す。たしかにほとんどの著者は聖書を霊感によるものと考えたが、同時に、古代のテキストの理解には困難があり、ナイーブな直解主義は極めて疑わしいと、十分承知していたのだ。

  • [159-2] また各種著作は、学術的なものだけでなく一般、子供向けのものまであるという点でも多様である。例えば、ロンドンの公務員でありながら古典学者、言語学者でもあったグランビル・ペン(Granville Penn)の『鉱物地質学と聖書地質学の比較評価』(A Comparative Estimate of the Mineral and Mosaical Geologies, 1822)は、年代について有望だと思われる諸理論を学問的に検討する著作だが、モーセを地質学者より信頼できる歴史家だとしている。また科学講師のジェームズ・レニー(James Rennie)が匿名出版した『地質学対話』(Conversation on Geology, 1828)は、ペンの考えをハットン、ヴェルナー、バックランドらと公平に比較すると謳う著作で、教養ある母親が子供を啓蒙するという体裁で書かれている。

  • [160] 図7-2: 『地質学対話』の挿絵。北ドイツのハルツ丘陵の地層は、第一紀の花崗岩を基盤に様々な層が重なっている(上図)。同じように、聖書はその他の書物の基盤である(下図)。伝統的な「自然の書」のアナロジーを新しい地質学に応用したもの。
  • [159-3] 「聖書的」批判者が地質学者を攻撃するときには、「常識に反する」と言うことが極めて多い。とくにイングランドやスコットランドのような深くプロテスタント的な国家の伝統的文化では、人は自分自身で物事を判断する権利があると考えられていたのだ。一方で地質学者たちは、前世紀の教会的権威よろしく、自分たちだけがより深い真理を知れると主張しているように見えた。そこで地質学者たちの方も、一般著作では、新しい考えは自分たちが見たもの、とくに野外で見たものに基づいており、誰でも近づけるものであると説明する必要があった。

  • [159-4] とはいえ、地質学と『創世記』をめぐるこうした騒ぎは、ほぼ英国と米国というコップの中の嵐だった。[161-1] ヨーロッパの地質学者は、自分たちは無知な批判者と戦う必要がないと嘲笑気味に述べている。また英国の地質学者も、学術書や定期刊行物ではそうであった。地質学者たちは国際的ネットワークで結ばれ、地球史に関する広範な合意を形成していたのだ。

  • [161-1] より長い目で見れば、〔地質学と『創世記』の関係より〕遥かに重要だったのは、自然界が神の摂理によって支配されているという感覚が大きく広がったことだ。キリスト教の主流派の考えでは、こうした「自然神学」は啓示神学の準備段階にすぎないものとされてはいたが、その説得力は各宗派を超え多くの人々を結びつけていた。[161-2] 英国では、ウィリアム・ペイリーが示した議論を拡張すべく『ブリッジウォーター論集』が組まれた。バックランドは『地質学と鉱物学』(Geology and Mineralogy, 1836)を寄せ、同僚と大衆に自身の科学を印象的に紹介した。この著作は、太古の歴史という新たな次元によってペイリーの議論を拡張しており、例えば三葉虫の解剖学的分析を示しながら、生物は常にうまく設計されていたと事実上主張している。

  • [163-2] 自然界が神によってデザインされているという感覚と密接に結びついていたのが、失われた太古の光景への驚異の感覚である。地球の歴史の膨大さや予想外の奇妙さは、しばしば創造の壮大さを示すあらたな証拠として歓迎された。19世紀初頭、地質学は宗教の同盟者・支持者として広く認められていたのである。
  • [162] 図7.3: マンテルの『地質学の驚異』(Wonders of Geology, 1838)の扉絵、「イグアノドンの国」。イラストを描いたジョン・マーティンは、聖俗問わず人間の歴史の感傷的場面を描くことで有名な画家だった(バビロンの終焉やヴェスヴィオ山の噴火など)。

現象的意識と道徳的地位の関係 Shepherd (2022)

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/21507740.2022.2148770

マッピング

現象的意識と道徳的地位の関係について、6つの立場を分類することができる。〔要約者注:以下、「意識」は現象的意識を指す〕

  • 1: 意識は道徳的地位の必要条件である。だが、十分条件ではない。
    • 意識に加えて、より高次の認知能力が必要とする立場や、有感性(快・不快を感じる能力)を必要とする立場など
  • 2: 意識は必要十分条件である。だが、道徳的地位の高低を決める要因が他にもある。
    • 意識だけでも一定レベルの道徳的地位を持てるが、高次の認知能力をもつものはより高いレベルの道徳的地位にある、といった立場
  • 3: 意識は必要十分条件である。そして、道徳的地位の高低を決める要因は他にはない。
    • 福利に関する経験主義(Experimentalist)の立場
  • 4: 意識は関係ない
    • 現象的意識は錯覚であるという見解(幻想主義)と親和的
  • 5: 意識は必要条件でも十分条件でもない。だが、道徳的地位の高低を決める要因かもしれない。
    • リスト説のうち、意識とその他の要因の共存を挙げるものなどがありうる(実際に提唱している人はいない)
  • 6: 意識は必要条件ではない。だが、十分条件かもしれない。
    • 意識の必要性を否定する場合に最もよくある立場。現象的意識が道徳的に重要であることは認めるが、危害や欲求充足などは現象的意識とは無関係であり、前者があれば道徳的地位をもつには十分だとされる(Carruthers 1999; Levy 2014; Shevlin 2020; Sinnott-Armstrong & Conitzer 2021)。

 1-3は「意識が道徳的地位の必要条件である」という判断(必要性判断)を共有しており、「意識ベースのアプローチ」と呼べる。このアプローチは、ゾンビに関する直観を引き合いに出して支持されることが多い(Siewert 1998)。すなわち、現象的意識を欠く哲学的ゾンビの利害関心は、道徳的に重要ではないと思われる。

 ゾンビは現実的な政策問題とは関係ないものの、意識ベースのアプローチが正しければ、非人間(AIや動物)が意識を持つかどうかが重要な問題になる。

意識は道徳的地位の必要条件か?

 「意識が道徳的地位の必要条件である」という必要性判断は、しかしそこまで強固なものではない。ここでは3つの反論を示し、必要性判断の信頼性を低下させることを目指す。

1. 幻想主義による議論

 まず、現象的意識については上述した幻想主義が正しいのかもしれない。このとき必要条件判断の処遇については2つの選択肢がある。

  • (a)必要性判断は正しい。だが、現象的意識はこの世界には存在しないので(幻想主義)、道徳的地位を持つ存在もこの世界には存在しない。
  • (b)必要性判断も幻想である。道徳的地位には本当は別の根拠がある。

 (a)はここでは扱わない。(b)の場合、「ではなぜ人は必要性判断を行ってしまうのか」を説明する必要がある。これは内観の信頼性の低さによって説明できるだろう。すなわち、我々は、真に道徳的重要性を持つ特徴と、それに付随するように思われる現象的性質とを、明確に区別できないのである、と。

2. 無知による議論

 現象的意識を欠いた心に道徳的重要性があるかどうかを考える場合、私達はまず自分自身の心について考え、そこで重要だと思われるものが、現象的意識を欠く存在にもあるかどうかを考える。
 しかし、内観は心の意識的側面しか捉えられない。そこで、もし非意識的な特徴が道徳的重要性を持つとしても、私達はそのことを知ることができないかもしれない。ここで「心の無意識的な側面には道徳的重要性がない」という反論が想定されるが、これは疑わしい。

3. 積極的善による議論

 福利の客観的リスト説は、欲求充足、達成、知識などが福利に寄与すると認める。人間の場合、これらには様々な仕方で意識が伴う。だが、その意識こそが福利に寄与するものだ、というのはまた別の主張である。
 ここで、現象的意識をもたないが、欲求充足や知識の獲得が可能な、比較的洗練された心をもつ存在を考えてみる。「意識ベースのアプローチ」によれば、これらの生物は石や木と等しい存在であり、人間の便宜のために駆除しても構わないことになる。
 だが、これらの存在の目標や計画の達成は、そこに付随する意識とは無関係に、その存在の生を価値あるものとするように思われる。そしてその場合、目標・計画の追求は妨げられるべきでない。これはつまり、その存在は何らかの道徳的地位を持つということだ。
 以上の「積極的善による議論」は、心の価値ある特徴のうちには、意識に依存しないものがあることを示す。

信頼性と妥協

 「意識ベースのアプローチ」はたしかに非常にもっともらしい。だが、もし以上の指摘によって必要性判断の信頼性が低下したならば、次のような選択肢がありうる。すなわち、道徳的地位について暫定的には意識ベースの見解を取りつつも、政策的問題については、より自由度の高いアプローチを取る、というものである。
 哲学的立場を現実問題に適用するさいには、妥協が必要となることが多い。「多くの人に受け入れられる」見解を選ぶことが望ましいが、それは単なる多数決の話ではない。一般に、ある見解に確信を持てない場合、また間違っていた場合の損失(つまり掛け金)が大きい場合には、より妥協すべきであろう。
 ただし、どの程度信頼性が低ければ妥協するべきかを決めるのは難しい。この論文の目的はただ、生命倫理学者や政策立案者に、意識以外の特徴が価値を生む可能性について再考を促すだけである。
 またさらに難しいのは、意識以外の具体的に何が、道徳的地位にとっての十分条件なのかを決定することだ。よく使われる「洗練された認知」といった概念はあまりにも曖昧である。それ自体として道徳的価値のある特徴は何なのかを考えたり、欲求充足や知識の獲得に必要な能力は何なのかについて考えたほうが良い。

実践的帰結

 必要性判断の信頼が低下するとどのような実践的含意があるか。ここでは二つの具体例を示す。
 まず、近年、動物の意識にかんする不確実性を前にして、動物の道徳的地位について予防原則を用いることが提案されている(Birch 2017)。だが必然性判断の信頼性が低くなった場合、意識以外の特徴についても予防的に考える必要がある。
 また脳オルガノイドを巡る政策的議論では、重要なのはそれが意識を持つことだと考えられている。しかし、脳オルガノイドと人工物との統合が可能になった場合、それが道徳に関連する非意識的特徴を示すかもしれない。必然性判断の信頼性が低くなった場合、こうした特徴にも注目する必要がある。

ハットンとドリュックの地球の理論 Rudwick (2014)

【目次】

第3章 大きな絵を描く

循環する世界-機械?

[68] 数年後、まったく異なるタイプの地球の理論が現れた。提唱者はジェームズ・ハットン(Jamas Hutton, 1726–1797)。ヒュームやスミスらと共にエディンバラの啓蒙主義サークルに属した人物で、その『地球の理論』(Theory of the Earth, 1788/1795)もより大きな知的プロジェクトの一環だった。

 地球の形成について考察するさい、ハットンはビュフォンと同じ2つの原理を採用している。第一に、膨大な時間を想定すること。第二に、現在でも身近で見られるゆっくりとした自然のプロセスの観点から説明を行うべきだということ。これらの原理は18世紀後半にはよく知られており、ハットンが初めて独創的な適用を行わったわけではない。[69-1] したがって、ハットンを地質学の唯一重要な「父」と考える昨今の風潮は誤っている。

[69-2] ハットンはライデン大学で血液循環を研究して医学博士号を取り、スコットランドに戻って現代で言う水循環について論じた。これを踏まえると、地球それ自体を定常的な循環システムだと考えたのも驚きではない。[69-3] 人間は動植物に依存し、動植物は土壌に依存する。土壌は岩盤から生じ、川から海へと流されていく。すると、長い目で見れば陸地はなくなるはずだ。しかし、新しく陸地を形成するプロセスがあるかもしれない。海に流れた土壌は海底に堆積し、固まって岩石となり、それがゆっくりと押し上げられて新たな陸地を形成する。こうした「修繕」(renovating)の過程は、地球深部の熱の膨張力によるとハットンは考えた。[69-4] このダイナミックではあるが定常的な「居住可能な地球システム」(system of the habitable Earth)の究極目的は、地球を人間が居住可能な場所として永遠に保つことである。[70-1]このように、この理論は自然神学に基づいている。

[70-2] ハットンはこの定常説を発表(1785)した後に、自説の当否を確かめるべくスコットランドの大規模なフィールドワークを始めた。その結果、通常地層の最下部に見られる花崗岩は、実際のところ最も古いものではないと発見した。というのも花崗岩は、最初は熱い流体だったのが、岩盤の裂け目に入って冷却されて結晶性の固体になったようだからだ。このことは、地殻の下に超高温の流体が存在し、それが地殻の隆起を引き起こして新しい陸地を形成することの証拠だとハットンは考えた。ハットンは地球を「機械」と呼んだが、これは熱の膨張力を無限に反復するサイクルの一局面としている蒸気機関になぞらえたものだ。

[70-3] さらにハットンは、一つのサイクルで形成された岩石群と別のサイクルで形成された岩石群との接触面に注目した。海底で水平に堆積したある地層が隆起して陸地になり、それが雨や川に侵食されて海面下に下がっていくとする。そしてその上に第二の地層が堆積し、[71-1] また隆起して新たな陸地になるとする。このことは、2つの「居住可能な世界」が継起したことの証拠だとみなせる、とハットンは考えたのだ。ハットンの好んだ類比で言えば、地球のシステムは、太陽系の惑星と同様に反復的である。〔人間が居住可能な世界が複数継起するという点について〕、化石が否定的な証拠になるとハットンは考えなかった。有史以前に人間がいた化石記録は確かに存在しないが、動植物の化石がその記録の代用となると考えたからだ。[72-2]上述の究極目的を考えると、動植物だけが存在する「世界」は意味をなさなかったのだろう。


図3-5:2つの地層の湾曲接合(現在の用語では「不整合」)の図(スコットランド、ジェドバラ(Jedburgh)の渓谷)。下の地層はもともと水平に堆積したが、隆起して垂直になった。それが侵食を受け、その上に第二の若い地層が堆積し、また隆起して現在の陸地になった。その上には動物、植物、人間が住んでいる。2つの岩石群は、居住可能な「世界」が2つ継起したことを示す。

[72-1] したがって、地球の過去および未来の姿が、現在のそれと大きく異なると考える理由はない。つねにどこかに、人間の居住のための乾いた陸地が存在している。人間を支えるために賢くもデザインされた「システム」としての定常的地球は、ビュフォンの発展的地球より非歴史的である。

図3-6*1:『地球の理論』(1795)の最終パラグラフ。有名な最後の一文では、地球というシステムには始まりを示すサインも終わりを示すサインもないとされる。諸世界の継起(succession)は、惑星の継続的(succesive)な軌道と類比される。「知恵」、「意図」、「システム」などの表現は、ハットンの理神論的な神学の表れである。

[72-2] ハットンの理論はヨーロッパ中の学者に注目された。エラズマス・ダーウィンは、ハットンによれば「地球はこれまでも、これからも永遠である」と肯定的に述べている。[73-1] 他方で、地球の永遠性は嘲笑されもし、また柔らかい堆積物は硬い岩石に変化するはずだといった科学的主張にも批判があった。

[73-2] ハットンのシステムは決して無視されたわけではなかった。ただ、18世紀の終わりごろまでに、ハットンの理論はビュフォンの理論同様あまりにも思弁的にすぎると思われるようになり、「地球の理論」というジャンル一般がもはや役に立たないとみなされるようになっていった。ハットンの死後、新しい世紀の科学的趣味に合うようラッピングし直されなかったら、ハットンの理論も忘れ去られていたかもしれない。

古代世界と現代世界?

「地球の理論」というジャンルの変容と終焉を予感させるような著作を物した人物が、ハットンの最も鋭い批判者の中にいた。それが、ジャン-アンドレ・ドリュック(Jean-Andé Deluc/de Luc, 1727–1817)だ。ジュネーヴの市民で、30代でイギリスに渡ると、王立協会に入会、またジョージ3世の妻シャーロット王妃の助言者にも任命され、その後は西ヨーロッパを広く旅した。自らを啓蒙的哲学者だとみなしていたが、理神論者でも無神論者でもなく、「クリスチャンの哲学者」を自称していた。[74-1] ドリュックは聖書を歴史であると真剣に考えており、創造物語や大洪水が歴史として真実であることを示そうと心を砕いた(このために、今日では不当に否定的に評価されている)。

[74-2] ドリュックの最初の著作『地球と人間の歴史に関する書簡』(Lettres sur l’Histoire de la Terre et de l’Homme, 1778–79)全6巻は、ビュフォンともハットンとも異なる地球解釈を示している。その序文は、宇宙(universe)に関する理論を「宇宙論」(cosmology)と呼ぶように、地球(Earth)に関する理論を「地球論」(geology)と呼ぶことを暫定的に提案しており、この語は意味の変化を蒙りつつ結局〔「地質学」として〕定着した。後年、ドリュックは本書のアイデアをさらに練り上げてヨーロッパ中の科学雑誌で発表して知名度を高めた。また、ハットンよりはるかに大規模なフィールドワークを西ヨーロッパで行い、最近の地球史上で実際に起った重大な出来事の自然的証拠だと考えるものを記述して、それをノアの洪水と同定した。

[74-3] ドリュックはビュフォンやハットンと同じく、侵食や堆積といった現在でも働いているプロセスを研究し、それを「現在因」(present causes/causes actuelles)と呼んだ。だがビュフォンとは異なり、ドリュックはそれをフィールド上で研究しており、またハットンとは異なり、現在因は現在観察できるところで常に働いていたわけではないと主張した。フィールドでの調査によれば、現在因が現在の大陸に働き始めたのは比較的最近の一定の(finite)時点からだとドリュックは言う。

たとえば、大きな川の河口部には、上流で侵食されたものが堆積してデルタが形成される。そしてデルタの形成速度は、歴史的記録から推定できる。これは砂時計のようなもので、[75-1] ある時点で砂時計にたまっている砂の量は、ひっくり返されてから経過した時間の一定の長さを示しているのだ。デルタの大きさは一定なのだから、その形成も過去の一定の時点から始まったはずだ。こうした特徴のことをドリュックは「自然のクロノメーター」と呼んだ。このクロノメーターは、ジョン・ハリソンのクロノメーターと違ってまったく精確ではないが、とにかくこの類比によってドリュックは、現在の世界の開始時点は数千年以上前には遡れないと論じることができた。

[75-2] この概算値だけでも、ハットンの永遠性の主張を論駁するには十分だとドリュックは考えていた。またこの数千という桁は、洪水の日付にかんする年代学的計算とも合致していた。したがって、現在の世界は聖書記録と同定しうるような重大な自然的出来事によって始まったという主張が支持されるのである。ただし、ドリュックは聖書直解主義者ではなく、実際に起った出来事は陸と海の突如の反転だったと推測した。これは聖書の描くイメージとはかけ離れているが、現在の陸地に人間の化石が見られないことを説明できる。逆に、現在見られる海洋生物の化石は「以前の世界」の痕跡だと説明できる。[75-3] このようにドリュックは、唯一の大規模な自然的「革命」により、2つの対照的な「世界」が分けられる、という形で地球全史を再構成した。

ドリュックの目的はあくまで歴史であり、洪水物語にかすかに記録されている自然の出来事の歴史的実在性を確立することだった。そのため、この出来事の原因が何なのかは別問題とされており、わずかに地殻崩壊の可能性を示唆しているにすぎない。[76-1] また「以前の世界」のほうのタイムスケールは曖昧なままにしており、それが人間の基準からは途方もなく長いと強調している。つまりドリュックは「若い地球」論者ではなかった。同様に洪水物語の分析も文字通りではなく、同時代の聖書学の知見を取り入れている。このことは、洪水の宗教的意味を明確化するのに役立つとドリュックは考えていた。

[76-2] 後の著作でドリュックは、様々な岩石からなる大規模な地層(次章で扱う)に関する学者の意見を吸収し、それまで曖昧だった「以前の世界」とは、洪水以前の地球史に生じた一連の諸段階のことだと考えるようになった。洪水以前史は創造の(極めて長いものと解釈された)「日」という観点から解釈されたが、ビュフォンの「諸時期」とは異なり、各々の段階は創世記の描写と合致していない。洪水物語の場合と同様、重要なのは聖書の物語が単に保存されることではなくて、自然世界からの新たな情報によって、その意味が深められることだった。またビュフォンとは異なり、ドリュックの考える出来事の系列にはプログラムされた必然性はない。またハットンとも異なり、自然界の知的なデザインや永遠性もない。ドリュックの地球史は、その頂点である「現在世界」の人類史同様、偶然的なのだ。

[76-3] このように、ドリュックの理論は先行する地球の理論とは決定的に異なっている。地球の未来は原理的には予測可能であるという非歴史的な仮定を退けているのだ。その理論はラディカルに偶然的かつ歴史的であるが、同時に、[77-1]自然的原因の強調も緩めてはいない。この視点は紛れもなく現代的なものだが、その出処はあきらかにキリスト教的神学であった。

[77-2] 晩年のドリュックは19世紀を生きたが、理論の方は古びてしまった。この頃までには、「大きな絵」を描くというジャンルそのものが無用とみなされるようになったのだ。しかし、ビュフォン、ハットン、ドリュックの大理論のなかの個別の要素は、生き残るか復活して、新世紀の地質学を特徴づけるはるかに大規模な地球史の説明において、存分に用いられることになった。

しかし次章ではまだ19世紀に行かず18世紀後半にとどまり、本章の水面下にあった2つのテーマを取り扱う。第一に、地球史上の様々な出来事が配置されるタイムスケールが大幅に拡張したこと。第二に、ドリュックのような地球の歴史的解釈が発展し、地球の理論ほど野心的ではない仕事の中で活用されたことである。

*1:「こうして、我々の推論は最後まできた。実際にあるものから直接的な結論をさらに引き出すためのデータはもうない。だがこれで十分である。自然の中には知恵、体系、整合性があるとわかったことで我々は満足している。というのも、この地球の自然史のなかで諸世界が継起してきたということからは、自然の中にはシステムがあると結論することができるだろう。このことは、惑星の回転の観察から、そうした回転を継続させるよう意図されたシステムが存在すると結論するのと同じである。そして、諸世界の継起が自然のシステムによって打ち立てられているのであれば、地球の起源についてさらに高次のことを見出そうとしても無駄である。したがって我々のこの探求の結論はこうだ。始まりの痕跡は見つからずーー終わりの見込みもない。」(要約者訳)

生命倫理学における反省性(reflexivity)の必要 Ives and Dunn (2010)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1467-8519.2010.01809.x

2つの生命倫理学
  • プライベートな生命倫理学
    • 学術的議論に貢献することを意図した知的営み(an intellectual exercise intended to inform academic debate)
  • パブリックな生命倫理学
    • 公的政策や、科学者、医療者、患者、大衆の行動を形成・変容させることを狙った実践的営み(a practical exercise intended to shape and re-shape public policy and/or the behaviour of scientists, medical practitioners, patients or members of the public.)
生命倫理学と客観性のレトリック
  • いずれの形態の生命倫理学も、客観性というレトリックによって提示されている
    • だが、近年の客観性批判は生命倫理学へ拡張されるべきだ


  • 道徳哲学は不可避的に社会に埋め込まれている
    • 道徳的議論の中核には直観がある
    • 道徳的議論は、その直観に表現を与える
    • 道徳直観は、私たちの生活経験を通して形づくられる
生命倫理学の役割と義務
  • 生命倫理学者は、政策、大衆、研究計画、臨床規制等に影響を与える権力を持っている
    • このため、パブリックな生命倫理学の実践者には説明責任(accountability)があり、それを果たすことは義務(duty)である


  • こうした義務は、科学的知識が公的な場面に取り入れられるその他の文脈ではよく認識されている
    • 例:臨床試験を行う際には、研究の性格について反省的になり、利益相反の可能性を開示することで、透明性の向上が図られる


  • 同様の要請は生命倫理学にも当てはまる
    • 生命倫理学者は、自分の直観が道徳的議論や研究関心一般にどのような影響を与えているかを、オープンかつ明示的に考慮するべきである(反省性)
オートエスノグラフィーと告白物語
  • より責任ある哲学的生命倫理学を実現するために役立つ方法として、オートエスノグラフィー、とくに告白物語が役立つ
    • 先例として:Eva Kittay; Thomas Lacqueur


  • オートエスノグラフィー
    • 研究者自身の自伝的情報を、研究の社会・文化的前提の分析と解釈に用いる


  • 告白物語(the confessional tale)
    • 問題の分析過程における混乱、不確実性、ジレンマなどを吐露する個人的な表明。オートエスノグラフィーの一種(van Maanen 1988)。


  • オートエスノグラフィー的な反省性は、真なる結論を導いたり説得性を高めるという意味で、議論をより良くするわけではない。
    • そうではなく、説明責任と公開性の必要を認め、またそれに応えるためのもの
      • 透明性を高め、理想化を減らすことで、議論はよりよく理解され、また評価されるようになる
反省的生命倫理学のポイント
  • 反省性を実現するためには様々な方法がある。
    • オートエスノグラフィーがあらゆる場合に適しているわけではない。


  • しかし、反省的な生命倫理学実践はいくつかの共通要素をもつだろう
    • 1. 議論がどのように理解されるべきかについて、明確な方向づけがされている
      • 学術的議論を刺激するための思考実験なのか? それとも政策決定者・実践者に向けられたより実践的な提案なのか? 等々
    • 2. 議論の源泉が説明され、著者が目下の倫理的問題に対して立つ様々な立場が考慮される
      • 議題は著者の(どのような)個人的な関心に基づくのか? 自身、友人、家族などの経験に負っているか? 議論が真剣に受け止められること(taken seriously)に(どのような)関心を持つか? 等々
    • 3. 議論の中で、1. と2. が考慮されるような批判的・自己反省的な書きかたをする
      • 補論(appendix)や注をつける、本文の中に個人的語りを入れ込む、等々
反論と応答
  • 反論:反省性を求めることは哲学的生命倫理学の目的および方法と両立しない
    • 著者個人の経験に焦点を当てることは他人との関連性を失わせ、一般化された規範的主張をすることが難しくなるのではないか
  • 応答:議論の透明性を高めることで、公的な場でその議論の結論に依拠することはむしろ容易になる


  • 反論:論理的議論などの既存の方法によって、すでに個人的直観の主観性の問題は克服されている
  • 応答:個人的直観は道徳的議論によっては決して対処できない。だからこそ、哲学者の個人的な語りを通してそれを議論の中に位置づけ、透明化する必要がある


  • 反論:反省性を求めることは煩わしく、混乱しており、また自己満足的(self-insulgent)である
  • 応答:反省性は社会科学において様々に批判されてきている。たしかに、オートエスノグラフィー、特に自己物語には、独善的で甘えだという批判が最も当てはまる。だがそうした批判は、反省性がどう実現されるべきかにかんする批判であって、反省的になる必要性それ自体に向けられたものではない。反省的分析をいかにうまく行うか、という問いが重要である。

17世紀の年代学と自然の歴史性 Rudwick (2014)

【目次】

第1章 歴史を学問にする

年代学という学問

 トーマス・ブラウン(Thomas Browne, 1605 - 1682)は、「時間は我々より5日だけ古い」と述べた。ガリレオやニュートンといった科学の巨人が登場する17世紀でも、人類と地球、さらに宇宙は、ほとんど同じ年齢だと考える人が多かった。たしかに『創世記』は、神は5日の準備のあと6日目に人間を作ったと教えている。しかし、この考えが人々に押し付けられていたというわけではない。[10]むしろ逆に、「世界は(僅かな準備期間を除いて)常に人間のいる世界だった」というのは明白な常識であり、だからこそ人々は、『創世記』の説明を受け入れることができたのだ。

 人類と地球の歴史がほぼ同じといっても、その歴史は非常に長いと思われていた。歴史はイエスの誕生から数える「紀元」を尺度に測られ、そこから現在までは16世紀以上の長さがある。さらに「紀元前」は、古代ギリシアや、聖書が伝える曖昧な時代へとさかのぼる。17世紀の歴史家は、創造〜現在の時間は受肉〜現在の時間の3倍近いと考えており、そうすると世界の歴史は合計で50〜60世紀という想像を超えた長さになる。

 [11]17世紀になると、アイルランドの歴史家ジェームズ・アッシャー(James Ussher)が、創造の日付を紀元前4004年の特定の日に同定した。アッシャーが示した具体的な日付には異論があったが、このように正確な日付が特定できるという考え自体はあまり批判されなかった。アッシャーのように「年代学」(Chronology)に取り組む学者はヨーロッパ中にいたのだ。年代学者たちは、様々なテキストを元にして、世界史の詳細で正確なタイムラインを構築しようとしていた。

 [12]アッシャーの『旧約年代記』(Annales Veteris Testamenti, 1650–54)は、創造(紀元前4004年)からエルサレム第二神殿の崩壊(紀元70年)に至る世界史上の出来事を年ごとにまとめたもので、当時の学問的営為の最高水準を体現した著作である。年代学は、まさしく歴史の「学問」(a historical science)だった。アッシャーは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語で書かれた古代のあらゆるテキストを厳格に分析していたし、また半世紀前の年代学者ヨセフ・スカリゲル(Joseph Scaliger)は、シリア語やアラビア語などのテキストをも考慮していた。こうした多様な文献から、大きな政変、支配者の治世期間、天文現象などの情報を抜き出して突き合わせることで、[13]出来事が年代順に配置されていく。[14] アッシャーが用いた証拠の多くは古代の世俗的記録であり、聖書は重要ではあるがソースの一つに過ぎなかった。ここから、アッシャーの第一目的があくまで詳細な世界史の編纂であったことがわかる。

世界史の年代を決定する

 アッシャーは、スカリゲルが考案した年代決定システム、「ユリウス通日」を採用していた*1。このシステムによって、様々な年代を比較対照する中立的な時間次元が得られる。さらにここでは、「時間」(time)と「歴史」(history)の区別が強調される。「時間」とは年単位で計測される抽象的な次元にすぎず、そのなかで生じるあらゆる実際の出来事が「歴史」である。すべての出来事はユリウス通日を基準に、AM(Anni Mundi; 創造から数えた年)、BCないしADで位置づけられる。年代学は量的精確さを求める時代の知的欲求に後押しされたもので、量的精確さの追求はティコやケプラーなどの天文学にも見られた。

 史料の不完全さや曖昧さゆえに、年代学は非常に論争の多い研究分野であった。[15]特に創造の日付については異論が多く、調べられた限りでは紀元前4103年〜3928年まで諸説ある。たとえばスカリゲルは紀元前3949年説、[16]ニュートンは紀元前3988年説を唱えている。

 このなかでアッシャーの紀元前4004年説が英語圏で有名になったのは歴史的偶然による。[17]紀元前4004年説は、『欽定訳聖書』(KJV)の1701年版(William Lloyd版)に編注として書き込まれたのだ。この説は教会や国家が公認したわけではなかったが、編注は結局1885年に『改訂版聖書』(RV)が出るまで残り続けたのだった。なお他言語の聖書には欄外の日付は通常見られない。

世界史の諸時代

 アッシャーたち年代学者が量的精確さを追求したのには重要な目的があった。それは、人類史を有意味な諸時期に精確に分割することだった。伝統的な紀元前/後の区別は受肉を境に人類史を抜本的に分割するが、これは有意味な分割の一つに過ぎない。紀元前はさらに、決定的な出来事に由来する諸「時代」に分割される。アッシャーの場合、創造と受肉の間に5つの重要な転換点を見出し(ノアの洪水、アブラム、出エジプト、神殿建設、バビロン捕囚)、世界史は7つの時代に区分される。7つ時代は創造の7日と象徴的に対応し、世界史の全体がキリスト教な意味に満ちる。

 [19] さらに重要なことがある。諸時代の系列として把握された歴史の全体は、神の自己開示つまり「啓示」が累積していく単一の過程であり、そしてそれはおおむね人類の歴史であった。これに対し自然界は、人間のわざと神の導きが展開する舞台、ほぼ不変の背景でしかない。宗教的にも世俗的にも、人類史のなかで自然の出来事がおおきく取り上げられることは稀だった(モーセの海割り、ヨシュアを助けた「太陽の静止」、イエスの誕生と死を示す新星と地震)。ただし、聖なる物語の中で自然界が非常に重要になる部分が2つある。創造それ自体とノアの洪水だ。17世紀にこれらの箇所につけられた歴史的注釈のなかには、自然からとった素材によってテキスト研究を拡張するものも現れた。

 「ヘキサメロン」(hexahemeral, hexameral:「6日」の意)と呼ばれるタイプの注釈は、自然界における主要な特徴の出現を、創造の6「日」ないし段階を枠組みとして、実際に時間の中で生じた歴史的な出来事として捉える。ここでは自然界に、異なる時期(「日」)をもつ固有の歴史が与えられており、近代的な意味で自然「史」(history)と言える説明がなされている。[20]こうした世界史の捉えかたは、タイムスケールこそ大幅に異なるが、地球の太古の歴史に関する近代的な見方と極めて類似している。『創世記』の物語によってヨーロッパ文化は、地球や生命を歴史的に捉える思考の準備ができていた(前適応していた/pre-adapted)と言える。

歴史としてのノアの洪水

 ノアの洪水はさらにはっきりと歴史的出来事として扱われた。年代学者の計算では、これは人間のドラマが始まってから1500年以上経過したあとに生じた。創造とは異なり、ノアの洪水は人間の記録や記憶によってモーセまで*2伝わった可能性があるため、学者はこれを詳細に分析しその実態を明らかにしようとした。洪水の唯一真正な歴史的記録を含むのは『創世記』だと考えられたため、分析は聖書をベースに行われた(その他の古代の洪水記録は、聖書を元にした二次的なものか、後代の局所的な洪水の記録だと考えられていた)。

 洪水物語を分析した17世紀の歴史家の好例が[21]、アタナシウス・キルヒャーだ。キルヒャーの『地下世界』(Mundus Subterraneus, 1668[5?])は、当時の幅広い自然学的知識をもとに、地球を複雑なシステムとして描き出した著作である。そのシステムは、動的ではあるものの歴史をもっておらず、[22]創造以来なにか大きな変化があったとはされていない。ところが、その大きな例外が洪水である。[23]『ノアの箱舟』(Arca Noë, 1675)でキルヒャーは、聖書のあらゆる古代の版を利用しながら、洪水を歴史的に分析している。すなわち、ノアが方舟をどう建造したか、方舟はどう流されたか、洪水後の人間世界はどう復興したかを推測し、また『創世記』の記述を元に方舟を復元、図解し、すべての動物の番を収容できたことを示そうとした。さらに、世界規模の海面上昇に必要な水量を計算し、その水がどこから来てどこへ行ったのかも推測している。

 目下の文脈で一番重要なのは、洪水の前後で大陸と海のかたちが違ったかもしれないという推測である。ここでキルヒャーは、人類の歴史と並行して地球にも真の歴史があると事実上主張していることになる。ただしキルヒャーの分析の主眼はあくまでノアと方舟であり、洪水の物理的影響は二次的なものだった。アッシャーのような年代学者の考えと同じく、歴史は主として人類の歴史であり、その長さは近代の基準から見れば短いものだった。

有限の宇宙(コスモス)

 ユリウス通日がカバーする期間は十分に長いため、もっともらしい創造および終末の日付のどれであっても、この期間の中に位置づけることができる。[24]これは年代学にとって便利な点だったが、しかし今日の目から見ると、当時の年代学の最も不可解な特徴を浮かび上がらせるものでもある。すなわち、世界史は過去にも未来にも有限だとされているのだ。これは、宇宙が空間的な意味で「閉じた世界」だとみなされていたことと酷似している。

 アッシャーおよび同時代人の多くは、自分たちは世界の七番目の、そして最後の時代に生きていると考えていた。終末は間近か、少なくともそう遠くない未来に迫っている。一般的には、終末は創造からちょうど6000年後だとされていた。この見解は、受肉が創造のちょうど4000年後に来る紀元前4004年創造説とうまく調和し*3、この説の魅力を高めていた。実際、この説はアッシャー以前にも以後に提案されていた。

 アッシャーは自説に自信を持っていたが、反論がありうることも十分認識していた。実際、別の日付が提案されていただけでなく、日付の確定は不可能だと考える年代学者もいた。『創世記』によれば太陽は4日目まで創造されていないため、7日の「日」とは24時間のことではないという指摘は昔からあった。「日」とは、預言者の言う「主の日」(the Day of the Lord)のように、重要な「とき」のことなのかもしれない。この場合、創造の「週」の長さは[25]確定できない。聖書のテキストには解釈が必要なのである。

 こうした認識に導かれ、年代学者や歴史家は本文批判(textual criticism)の方法を発展させた。そしてそれは今日でも歴史研究(聖書研究も含む)の根底にありつづけている。17世紀の学者の解釈は今日から見るとあまりに字義的(literal)だが、その理由の一つは、聖書を真剣に歴史記録として扱ったからだ。また、聖書読解におけるこうした「直解主義」(literalism)は新たな発明だった。これ以前の時代には、聖書のその他の意味の層(象徴的意味、教訓的意味など)のほうが、字義通りの意味よりも価値あるものとされていたのだ。『創世記』の場合、最終的に重要なのは日付でも「日」の長さでもなく、万物が唯一の神によって創造され、良しとされたこと等々だとされていた。

 [26] また世界史の年代決定には、創造の日付以外にも未解決の問題があった。古代ギリシアの記録によると、エジプトの初期の王朝は創造よりも前に存在していたことになっているのだ。ここではエジプト側の記録がフィクションだとして退けられたが、同じ問題はイエズス会士が伝えた中国の記録や、古代ギリシア人が伝えるバビロニアの記録などでも生じていた。

 さらに最も動揺を生じさせたのは、アッシャーの『年代記』の直後に匿名で出版された『アダム以前の人類』(Prae-Adamitae, 1655)かもしれない。この本は新約聖書を巧妙に解釈することで、アダムの物語がもともと語っていたのは最初のユダヤ人のことであって、最初の人間のことではないと主張していた。これは人類史の出発点をアダムに置くすべての見解を疑問視するものだ。

 なお『アダム以前の人類』の説には利点があり、この時代のヨーロッパ人がようやく十分に認識した人種の多様性と広がりをうまく説明することができた。[27]ただしこれは同時に、一部の人々をキリスト教的な救済のドラマの埒外においてしまうという欠点にもなった。匿名著者の正体がフランスの学者イザーク・ラ・ペイレール(Issac La Peyrére)だと判明するとカトリック当局とひと悶着あったが、ラ・ペイレールは少なくとも名目上は自説を撤回し、余生を平和に過ごした。

永遠主義の恐怖

 それはともかく、今の文脈で「アダム以前」という観念が重要なのは、それが古代エジプト、中国、バビロニアの記録とされるものの影響力を高めたからだ。これらの記録に従えば、人類の歴史は西洋の従来の年代学の許容範囲よりもはるかに長く、想定より何万年も遡る可能性がある。この可能性は従来の思考にとっては恐るべきものだった。なぜならそれは、創造の日付や聖書の権威を疑問に付すことはもちろん、それ以上に、はるかにラディカルな思考への扉を開くものだったからだ。つまり、宇宙、地球そして人類には始まりも終わりもなく文字通り永遠に存在しているという、古代ギリシャの哲学者たちの考えが正しかったのかもしれないのである。この考えは、人間が何らかの意味で創造されており、従って創造主に対して道義的責任を負うという考えを否定し、道徳と社会を根本から脅かすものだと思われた。

 この「永遠主義」は一見、地球の歴史についての近代的な見方を先取りしているように見えるかもしれない。しかしそれは大きな誤解である。実際のところ、17世紀にあった2つの選択肢、「若い地球」と「永遠の地球」は、どちらも等しく近代的ではない。[28]なぜならどちらも、人間が宇宙にとって本質的であったしこれからもあり続けると想定しているからだ。永遠の地球には、人類も常に存在していたのだ。

 とはいえ17世紀に戻れば、永遠主義は、支配的だった宇宙像に対してラディカルな対案を与えるものだった。永遠主義は社会、政治、宗教を転覆させるものだと広く考えられていたから、一部の人々が「若い地球」を頑なに守ろうとしたことも頷ける。しかし逆に永遠主義者のほうも、自身の懐疑的さらに無神論的な方針を喧伝しようとしていた。つまりこれは決して啓蒙的理性と宗教的ドグマの戦いなどではなく、どちらの側にも強烈に「イデオロギー的」論点があったのだ。

 しかし西洋を離れて全世界規模で見れば、人類が無限に続くという考えはむしろ標準的であった。多くの前近代社会では、時間、あるいはむしろ時間の中で展開する「歴史」は、反復的ないし循環的であると考えられていた。[29]この仮定の根本には、人は世代から世代へ生まれては死ぬという普遍的な経験があり、四季のめぐりがそれをより強固にした。ここから、文化、地球、そして宇宙全体も同じように循環的あるいは「定常的」だという見方が育まれた。これを背景にしてみれば、唯一の出発点をもち直線的で一方的な「歴史」という観念、ユダヤ教に発しキリスト教とイスラム教が受け継いだこの観念のほうが、むしろ異質なものとして浮かび上がってくる。 

 この強烈な歴史感覚はユダヤ-キリスト教的伝統の基底構造であり、そしてそれは、地球の太古の歴史にかんする近代的な見方と酷似している。つまり後者も、地球の歴史を有限かつ方向性を持つものとして見る。より具体的に言えば、人類の歴史を量的精確さをもって位置づけ、それを質的に有意味な諸時代に分ける年代学と同じことを、近代科学である「地質年代学」は地球の太古の歴史を対象に行っている。これが偶然の一致にすぎないのか否か、この問いは本書の残りの部分で検討されるだろう。

 西洋の伝統的理解では、近代の理解と比べて、宇宙、地球、人間の歴史は非常に短いものだった。だがこの違いは比較的些細なものである。より重要なことは、アッシャーのような年代学者に代表される歴史学が、もっぱらテキストによる証拠に基づいていたという点だ。[30]しかし同じ17世紀、地球の歴史にかんする議論に自然の証拠をとりいれはじめる学者がいた。この動きを次章ではとりあげる。

*1:要約者注:ユリウス暦を紀元前4713年1月1日まで遡って適用することで日数を数える方法

*2:要約者注:モーセ五書の著者は伝統的にモーセだとされていた。

*3:要約者注:イエスの誕生が紀元前4年だというのは当時も広く認められていたため、創造が紀元前4004年だとすると受肉はちょうど4000年後にあたる。

機械の中の幽霊(ライル『心の概念』書評) Mace (1949)

  • Cecil Alec Mace (1949), "Review: Ryle, G., The Concept of Mind", Listener, 42, p. 1015.

以下は上記書評の翻訳です。

   ◇   ◇   ◇

機械の中の幽霊

ギルバート・ライル『心の概念』、ハチンソン、12シリング6ペンス

オックスフォード大学の形而上学的哲学ウェインフリート教授によって書かれた本書は、「機械の中の幽霊」という名の奇妙な物語の最終回として読まれるべき一冊だ。この回で、「物」(Thing)は祓い清められることになる。この結末を理解するためには、まずストーリーがどう始まったのかを思い出さなければならない。

いま中高年の人々は、人間は二つの部分からなると教え育てられてきた。この二部分は、日曜には「肉」(The Flesh)と「霊」(The Spirit)と呼ばれ、他の日には「体」(Body)と「心」(Mind)と呼ばれる。この理論のポイントは、二つの部分は極めて、極めて異なる種類のもの(stuff)からなるという点にある。体は物質からなり、物質については物理学者と化学者が言うことがすべてだ。他方で心は、これもまた一種のものではあるが、まったく別種の物で、物質では考えられない性質や能力を持っている。

こうした考えには非常に長い歴史があるが、それを素晴らしく巧みな形而上学体系に仕立てあげたのが、17世紀フランスの哲学者デカルトだった。ライルは不遜にも「デカルトの神話」と言っているが、これは形而上学体系としては驚くほど成功した。通常、一般の人は哲学的プロパガンダにはほぼ完璧な耐性をもっているようで、形而上学的イデオロギーには寛容な微笑みを返すだけだ。しかし「デカルトの神話」は一気に丸呑みされてしまった。デカルト以降3世紀にわたり、子どもたちはこの神話をこれ以上ない常識だと信じきって育ってきた。プロパガンダが驚異的に成功したのには理由がある。このアイデアが真っ先に売り込まれたのは、スコラ的理論にうんざりしていた時期の自然科学者だったのだ。自然科学者がこれを受け入れたのも不思議ではなかった。話の半分は、デカルトがガリレオから仕入れたもので、科学者はまさにそれを欲していたのだ。もう半分についても、あまり興味がなかったので、快く引き受けた。

二元論者のキャンペーンはあまりにも成功しすぎて、あとから問題が生じてきた。たしかに物質世界にかんするガリレオ-デカルト式の説明は、科学者が説明したかった多くのことを説明してくれ、さらに様々なかたちで有用でもあった。科学者は、機械を理解し作れるようになったのだ。そしてついには、心のはたらきだと言われていたことのほとんどすべてを行える機械が発明できるようになった。つまり、正確な識別、計算と推論、経験による学習、長所と短所を比較して決定を下すこと、などだ。電子工学の専門家は、もし需要があれば、基本的なエチケットや道徳を守る機械を作ることもできるだろう。そうした機械は例えば、女性が使うときには自動的に蓋が開いたり、あるいは貧乏な子供にだけ板チョコレートを配ったりするかもしれない。ともあれ、そうすると、人間の脳も実はこうした機械なのだという考えには説得力がある。人間の脳がその他の機械と違うのは、工学によって作られたのではなくて、自然淘汰によって作られたという点だけだ。

しかし「デカルトの神話」によると、もう一つ違いがあるのだった。つまり、人間機械は幽霊に取り憑かれている。もうすこし哲学的な言いかたをすると、人間機械は精神の「座」なのだ。だがここで疑問が出てくる。定義から言って、機械は自動的に動くものだ。そうだとすれば、幽霊には何ができるのだろうか? 幽霊は機械の計算に干渉することもできないし、機械の進行を寸分たりとも変えられない。ここで幽霊は、極めて奇妙な苦境に立たされている。これが、ストーリーの始まりだった。では、『心の概念』を手にとって、続きを読んでみよう。

幽霊が何もできないのはなぜか、ライル教授によれば簡単に説明できる。幽霊なんて本当は存在しなかったのだ。あの入念な理論構成全体が大失敗だったのである。だが、一つの謎が解かれたときに生まれる別の謎を突きとめることが哲学者の責務だ。幽霊が存在しないのだとすると、どうして私たちはそれが存在すると信じていたのだろうか。良い哲学的議論というのは、間違いを明らかにするだけでなく、なぜその間違いが生じたのかを説明し、誤ちが繰り返されないように話を整理する。これこそ、『心の概念』が取り組んでいる課題である。手短に言うと、ライル教授の考えはこうだ。幽霊を信じることは、「カテゴリー-ミステイク」である。これはつまり、大学を構成するすべてのカレッジを見たあとで、大学そのものを見たいと言うような間違い、あるいは、「平均的な人」というのを一人の市民だと思ってその人の住所を尋ねるような間違いである。

ライル教授は本書のある箇所で、この誤りの起源についてこう言っている。デカルトは一方でガリレオの証拠を尊重したが、他方で教会を尊重した、この衝突から誤りが生じたのだ、と。しかしこれは心理的な説明であって、私たちが欲しい説明とは少し違っている。「非物質的世界」の存在を信じたくなる誘惑は、教会の教説について考えるときに生じるのではない。そうではなく、私たちの夢や感情や感覚にかんする事実について、単純かつ十分なしかたで述べようとする時に生じてくるのだ。この誤りは、記述の仕方という点で生じる手続き上の誤りであるように思われる。この点にはライル教授も同意してくれるだろう。というのも、本書の中で最も重厚かつ説得力のある部分は、まさにこうした問題を扱っているからだ。そしてそこにこそ、著者のもっとも大きな貢献がある。ライル教授の他にも幽霊の実在を疑った人はいた。しかし無邪気な哲学者や心理学者がひっかかってしまう純粋に言語的な罠を避けようと、ここまで踏みこんだ人はなかなかいない。

本書は主に哲学者向けに書かれた本だが、専門用語とか、技術的に難しい部分はまったくない。「カテゴリー-ミステイク」(category-mistakes)、「カテゴリー-習慣」(category-habits)、「雑種-カテゴリー」(mongrel-categories)*1、「心的-行動形容詞」(mental-conduct epithets)などの表現があるが、これは専門用語ではなく、言葉遊びの類である。文体上多少のハイフンがあっても、「身-心」(Body-Mind)から形而上学的ハイフンを抜きとれるなら安いものだ。
 
たしかに、哲学者のための本だ。しかし、ロックの『人間知性論』やヒュームの『人間知性研究』と同様、一般読者でも読め、あまりにも-よく-ある(all-too-common)幻想をほとんど苦もなく払いのけることができるだろう。

*1:訳注:正確にはmongrel-categoricals