えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

遷延性植物状態と最小意識状態で治療停止の是非は異なるか? Wilkinson & Savulescu (2013)

jme.bmj.com

  • Dominic Wilkinson & Julian Savulescu, (2013), "Is It Better to be Minimally Conscious than Vegetative?", Journal of Medical Ethics, 39(9), pp. 557–558.

 ある患者に対する人工栄養補給停止の是非が争われた裁判のなかで、患者が遷延性植物状態(PVS)ではなく最小意識状態(MCS)であったことを根拠に、栄養補給を続けるべきだったという判断が下された。しかしこのようにPVSとMCSを区別する根拠は、以下のようにどれも十分なものではない。

  • (1) 予後の良さ

 いくつかの研究によれば、PVSはMCSと比べて確かに予後がよい。しかし、状態改善が見られるMCS患者の割合や回復の度合いには限界があるのも事実だ。したがってこの論点から言えることは、MCSにおいてはPVSよりも治療停止の決断を下すまでの時間を長くとるべきだ、程度のことでしかないだろう。

  • (2) 意識の有無

 PVS患者と異なりMCS患者には意識があるため、そこから何らかの利益を得ているかもしれない〔。したがって、治療停止によってそれを奪うべきではない〕。だがここでは逆に、MCS患者には痛みのような否定的経験がある可能性をも考慮しなければならない。実際ニューロイメージング研究によると、MCS患者の痛みに対する脳活動のパターンは、完全に意識ある被験者と同様であり、PVS患者よりかなり大きい。すると問題は、ネガティヴな経験の強さや長さが、ポジティヴな経験のそれを上回っているか否かという点になるだろう。深刻な苦痛や有意味な快があるとわかっている場合は、確かに治療の停止/継続の根拠になるかもしれない。しかし患者の経験の性質について不確実な場合、意識があるということだけでは治療続行に賛成する理由にも反対する理由にもならないだろう。

  • (3) 現在の希望の伝達可能性

 PVS患者とは異なりMCS患者は、高度な技術が発展した場合、自身の希望を伝達することができるかもしれない。この場合、自律性を重視し、治療のありかたは患者本人が決めるべきだろう。しかし現在のところそうした技術はないし、さらにいわゆる「隠れた認知」(covert cognition)はMCS患者の一部にしか見られないようだ。

  • (4) 過去の希望

 仮にある人が、あらかじめ、「PVSになったら治療をやめてほしいがMCSであれば治療を継続してほしい」と言っていたとしよう。これは両状態での治療方針を区別する一つの根拠になるだろう。しかしもちろん、MCSよりPVSの方が悪いと考える人もいるかもしれないし、両者を区別せずどちらも等しく悪いと考える人もいるかもしれない。

  • (5) 配分的正義

 ここまでの検討から、MCSがPVSよりも患者にとって良い状態とは考え難い。その上で、もし両者の治療コストに差があるならば、配分的正義の観点から言って、両者の治療方針を区別することには根拠があるだろう。しかしながら、MCS患者の長期のケアのコストがPVS患者のそれより低いと考える理由はない。また、仮にMCS患者の延命に何らかの利益があると仮定しても、その大きさは、同じ医療資源を別の仕方で使う場合に得られる利益よりも小さいだろう。


 確かにMCS患者の一部は、(1)〜(4)の観点から言って、PVSと異なり治療を継続すべきだと言えるかもしれない。しかし、MCSがPVSより必ず良い状態だとは言うことはできない。さらに(5)配分的正義を考慮すると、治療を中止すべき場合もあるだろう。

「予防的人格」原則:遷延性植物状態と最小意識状態の場合 Braddock (2017)

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  • Matthew Braddock, 2017, "Should We Treat Vegetative and Minimally Conscious Patients as Persons?", Neuroethics, 10 (2), pp. 267–280.

 遷延性ないし持続的植物状態(PVS)の患者は人格(Person)なのだろうか。PVS患者は意識を不可逆的に欠いているために、人格であるために必要な能力を欠いており、従って人格ではないという議論がしばしばなされてきた(McMahan 2009, Brody 1989, Harris 1995, McMahan 2009)。

 このタイプの議論に対しては「診断の不確実性からの反論」を提起することができる。これまでの多くの研究によると、PVSと診断された患者が実際に意識を失っている確率は約6割ほどしかない。つまり、約4割の患者はPVSだと誤診されており、実際には意識がある。誤診されたPVS患者のうち、41%は最小意識状態(MCS)であり、35%が閉じ込め症候群(LIS)ないし「暗黙の気づき」(covert awareness)*1状態にあるという研究もある(Schnakers et al., 2009; Stender et al., 2014)。この状況を踏まえると、「PVS患者は意識を不可逆的に欠く」という前提は成り立たない。

 しかし近年、診断の不確実性を考慮した上でも、やはりPVS患者は人格ではないとする新しい議論が提起された(Levy & Savulescu 2009)。この議論は、PVS患者がMCSである可能性を認めた上で、しかしMCS患者も人格ではないので、いずれにせよPVS患者も人格ではない、と進む。MCS患者は確かに意識的ではあるが、人格性に必要なほど洗練された認知能力や自己意識、心理的連続性を持たない公算が非常に高く、従って人格ではない非常に公算が高い、とされる。

 この議論に対して、「人格の不確実性からの反論」を提起したい。つまり、MCS患者が人格でない公算は非常に高いとまでは言えない。むしろMCS患者が人格かどうかは、少なくとも不確実だと言うべきである。この主張はまず、人格性の根拠に関する広範な不一致によって動機づけられている。人格性の根拠になるものは何なのか、一定の認知能力や心的特徴だとして具体的には何なのか、具体的にわかったとしてそれがどの程度必要なのか、哲学者のあいだで合意はまったくなく、MCS患者が人格だと言えるかどうかは不確実である。

 さらに、人格に必要な程度の能力や特徴が定まっているとしても、MCS患者がそれを持っていないという主張を疑うべき理由が3つある。

  • 1. MCS内部の多様性

 同じくMCSと診断される患者の中でも、その正確な状態には非常に大きなばらつきがある。実際、MCSを離散的なカテゴリーではなく、能力と反応性におけるスペクトラムだと考える神経科学者もいる。また状態のばらつきに対応して、予後やアウトカムにも大きなばらつきがあり、中には高度な認知能力を発揮できるようになるまで回復する患者もいる。

  • 2. 傾向性の問題

 能力というのは傾向性なので、MCS患者が今現在ある能力を発揮していないからといって、その能力を持っていないとは限らない。実際、少なからぬ数のMCS患者が高レベルの認知能力を発揮するまで回復するということは、この点を裏付けるものだ。

  • 3. 具体例から

 MCS患者は、例えば、特定の曲がかかると必ず涙したり、一定の音楽やテレビ番組、親しい男性介護者に反応して笑顔を見せたりする。これは人格性に必要な心理的連続性の表れではないのか? また、気分の良さを伝えているように見えたり、自分の結婚式のビデオを見て苦痛を感じているというのは、自己意識の能力を持っているからではないのか。患者がこうした能力を持っているか否かについては、こうした具体的証拠を踏まえると、むしろ判断を保留すべきだと思われる。

 このように、現状、MCSやPVSと診断された患者が人格であるか否かはかなり不確実な事柄だと言える。ではこの不確実性に直面して、医療上の意思決定はどのようになされるべきだろうか。この場合、以下のような予防原則に従うことが推奨される。

  • 予防的人格

 Sが人格であるか否かが十分に不確実な場合、Sを人格として(人格の持つ重要な権利を持つものとして)扱え。ただしこうした扱いが、その他の明らかに人格である個人の同等に重要な権利を侵害するとわかっている場合は、この限りではない。

 「予防的人格」原理を動機づける議論はいくつかある。そのうちの一つは、次のような非対称性に訴えるものだ。すなわち一方で、「予防的人格」を採用してSが人格でなかった場合、それで誰かの権利を侵害することはない。他方で「予防的人格」を採用せずにSが人格であった場合、その権利を侵害するという非常に大きな問題が生じる。従って、最悪の道徳的結果を避けるためには、「予防的人格」に従うべきなのだ。

 この原理をPVSやMCSに適用するとどうなるか。PVS患者やMCS患者を人格として扱うことは、その他の人格の同等に重要な権利を侵害するだろうか? この問題は、こうした患者のケアにどのくらいのコストがあるかにかかってくる。確かに、相対的に貧しい社会では、PVS/MCS患者の救命措置と明らかな人格を対象とする救命措置が衝突するかもしれない。しかし米国のような豊かな社会では、極端に珍しい状況(トリアージや自然災害、希少な臓器の分配など)でない限り、こうした衝突が生じることは明らかではない。

 もちろん、PVS/MCS患者のための資源を明確な人格へ向ければ、その分だけ後者に医療上の利益が与えられる。しかし、両グループの同等の権利をどちらも尊重することは可能だと思われる。次の2点に注意せよ。まず、PVS/MCSは決してよくある状態ではない。正確な推定は難しいが、米国では15〜30万人ほど〔全人口の0.0005〜9%〕だと考えられている。第二に、PVS/MCS患者を効果的にケアするためのコスト(経管栄養、抗生物質、看護ケアなど)は、他の治療(ICUでの治療など)と比べて比較的小さい。ただし、稀少な臓器の分配という局面では事情が異なる。資金不足ではなく臓器不足の場合、確かに競合は生じるため、「予防的人格」原則は明確な人格の方に臓器を与えることを指示するだろうし、これは直観的にも正しいだろう。しかし何れにせよ重要なのは、PVS/MCS患者に対する標準的なケアの点では、権利の明確な対立は存在しないということだ。

*1:PVSの基準を満たすが、ニューロイメージング技術によって意識的気づきや様々なレベルでの認知機能が確認できる状態

遷延性植物状態と無動無言状態の類似性 Davies and Levy (2016)

  • Walter Sinnott-Armstrong (ed.), Finding Consciousness: The Neuroscience, Ethics, and Law of Severe Brain Damage. Oxford University Press
    • 8. Will Davies & Neil Levy, Persistent Vegetative State, Akinetic Mutism and Consciousness. (pp. 122–136)
意識の科学の方法論的前提

 近年、遷延性植物状態(PVS)と診断された患者に意識があることを示すとされる研究が盛んに行われてる。重要な研究であるOwen et al. (2006) は、PVS患者にテニスをするところや自分の家を歩き回ることをイメージするように指示し、引き続く脳活動が健常な対照例の脳活動と類似していることを見出した。この研究をもとにMonti et al. (2010)は、PVS患者はイメージするものを変えることでyes/no式の質問に答えられることを示した。

 こうした研究からPVS患者に意識があるという結論に至る推論は、次の2つの前提を用いている。

  • 【命令遵守】:命令遵守は意図的な行為者性のマーカーである
  • 【行為者性】:意図的な行為者性は意識のマーカーである

 すなわちここでは、命令遵守(command following)を意識のマーカーとする基準が採用されている。この基準は確かに通常の被験者に対しては便利なものだが、重度の脳損傷患者への適用には問題があると以下で論じる。

命令遵守と無動無言(Akinetic Mutism)

 上記の研究に登場するような反応性のPVS患者たちは、無動無言(AM)患者と多くの類似点を持つという指摘がある(Klein 2015)。AM状態とは、覚醒はしているが、長期的に著しく反応性を欠く状態のことだ。具体的には、自発的な運動・言語活動がなく、痛み、乾き、上に対して無関心で、感情は平板であり、抑鬱的ではないが無気力状態にある。

 AM患者は内因的に意図を形成することができず、従って内因的な行為者性を欠くが、しかし教示に従い質問に答えることができる。さらに、適切な促しがあれば、問題を読み回答するといった複雑な活動を行うこともできる。こうした反応を、「刺激喚起型認知(stimulus-evoked cognition)」と呼び、内因的な意図や行為から区別しよう。AM患者は確かに命令に基づいた行為をするが、それは刺激喚起型認知によるものであり、内因的な意図に媒介されていない。従って、AM患者では【命令遵守】は成立していないと言える。

 また、PVS患者とAM患者における脳の損傷部位はかなり重複している。特に両事例ともに前補足運動野(SMA)を損傷しているが、この部位は意志的で内因的な行為と関連すると考えられている。

 こうした行動上および神経上の類似を踏まえると、実験者の要求に対して反応性のPVS患者が示す反応は、AM患者とそれと類似(さらには同一)なのではないかと考えることが理にかなっている。この場合、反応性のPVS患者は刺激喚起型認知を示しているに過ぎず、内因性の意図を示しているわけではないことになる。そうであるならば、ここでも【命令遵守】は成立していない。

 次のような反論が考えられる。刺激に喚起される形とはいえ、PVS患者は意図的反応(内的な動機状態によって開始・誘導される反応)ができるのだから、行為者性があると言えるのではないか、と。しかし、単に意図的反応ができることは行為者性を持つには十分ではない。行為者性とは単に反応できる能力ではなく、刺激から比較的独立に行為できる能力であって、反応の柔軟性を必要とする。つまり、単に意図を形成することでは十分でなく、内発的に意図を形成することが必要なのだ。PVS患者もMA患者もこの意味での行為者性を示さない。

 もちろん、「行為者性」をより軽い意味で使うことはできる。しかしその場合、そこから意識への推論は説得的ではなくなる。実際、外因的で固定的な意図的反応を行為者性の発揮だとみなすとしても、行為者性の発揮がその程度のものでしかないのであれば、意識のほうもよくて刺激依存の一時的なものにすぎないだろう。つまり、PVS患者は刺激喚起型の意図的反応を示しているまさにその時に限って意識的だ、以上のことは言えないと思われる。これに対して、内因的で柔軟な反応を要求するより強い意味での行為者性があるならば、持続的な意識状態が存在することのより強力な証拠になるだろう。

意識帰属への別ルート?

Colin Kleinは、AM患者における【命令遵守】成立に懐疑的でありながらも、しかしAM患者にはやはりある意味で意識があると論じている。もしそうであれば、PVS患者にも意識があることになるだろう。そこで、このKleinの議論を検討しよう。

 Kleinは、AM患者は焦点意識(注意を伴う)を持たないが辺縁意識(注意を伴わない)を持つと主張する。しかしこの点は目下あまり重要ではなく、より注目すべきなのは意識帰属の根拠である。意識帰属にあたってKleinが依拠する根拠は、[1] AM患者の自己報告と、[2] AMから回復した患者の事後報告、の二種類だ。しかし、このどちらにも問題がある。

  • [1] AM患者の自己報告

 こうした自己報告はさらに2つの事例に分けられる。第一の事例は、問題の患者が軽度のAMで、ある程度は自発的活動ができる場合。この事例には2つの懸念点がある。まず、そもそも軽度AM患者には内因的な行為者性が残っているのだから、その人への意識帰属はその内因的行為者性に基づけばよく、患者の自己報告が意識帰属に果たす重要な役割は存在していない。第二にPVSとの関連でいうと、PVS患者が類似しているのは極度のAM患者であるため、軽度AM患者の自己報告がPVS患者に関する議論にどう関連するか不明である。

 第二の事例は、問題の患者が極度のAMである場合。この場合、自己報告は刺激によって喚起されることになる。しかしここで思い出すべきなのは、Kleinは刺激喚起型認知が意識帰属の根拠にならないと認めている点だ(=AM患者における【命令遵守】の成立に懐疑的である)。そうである以上、刺激喚起型の意識報告もやはり意識帰属の根拠にならないと結論すべきである。

  • [2] AM回復患者の事後報告

 極度のAMから回復した患者たちは、自身の状態を「心が空白だった」、「何も考えてなくて、何も欲しくなかった」、「将来の見通しがなく、自分の考えが何もなかった」などと記述している。これらの記述はかなり興味深いが、AM時に意識があったことの明白な証拠とは言い難い。まず、極度のAMが非常に奇妙な状態であることを考えると、回復患者の証言の質や正確性には一般的な懸念が残る。次に、これらの記述が常に不在や無能力の語彙でなされていることに注目しよう。こうした記述はむしろ、意識がなかったことを言い表そうとしているものだとも考えられる。

 ここで、次の点が指摘されるかもしれない。AM患者は刺激喚起型認知が可能である以上、情報に対して一定の感受性を持っている。そこで、回復患者が回顧を行うときには、AM時に認知システムが利用した情報内容にアクセスしているのであって〔、その事後報告は信頼できる、〕と。しかし、通常の主体であれば意識するような情報内容を思い出すということは、意識〔経験それ自体〕を思い出すということではない。

道徳的地位の問題

 最後に次の点を検討したい。仮に、Kleinが正しく極度のAM患者には「辺縁意識」があり、従ってPVS患者も同様に辺縁意識を持つとしよう。このときこうした患者は、通常の主体と等しい道徳的地位を持つだろうか。持たない、と考えられる。ある主体の道徳的地位を裏付けするのは、現象的意識を持つ能力ではなく、洗練された認知能力である。ある程度洗練された認識能力を持たない存在は、自分の生に関心を持つことがそもそもできないからだ。そうした認知能力に利用可能な情報を備えている状態を「情報意識」と呼ぼう。この情報意識と、AM患者・PVS患者が持つとされる「辺縁意識」はどう関係するだろうか。

 一つの解釈によれば、辺縁意識とは主体によって注意されていない状態である。これは現象的意識の一部だと考えることができる。しかしすでに指摘したように、現象的意識だけを持つ存在は関心をもつことができない。別の解釈では、辺縁意識とは背景的な気分のようなもので、認知システムに利用可能な情報を持つ。しかしこの場合でも、認知能力に提供できる情報があまりにも薄すぎるため、辺縁意識を持つ主体が関心を持つとは言い難い。

 ただし、話はより複雑である。例えば、患者が痛みや快の辺縁意識を持つ場合には、そうした状態を考慮すべき道徳的義務が発生するかもしれない。また別の論点として、無反応な患者に指令を与えることで、その意識状態を、注意されておらず内容不確定な状態(辺縁意識)から、より注意され内容豊かな状態(焦点意識)へ移行させることができるかもしれない。これによって痛みや快の焦点意識が生じるならば、それを考慮する道徳的義務の存在はより明らかだろう。

 ただし、意識の道徳的重要性の根拠はその現象的側面ではなく、むしろ意識が心的生活全体のなかで果たす役割にあると考えることもできる(Levy 2009)。この場合、AM・PVS患者が痛み/快を感じるとしても、それは患者にとって悪い/良いものではない、ということになるだろう。

「もし胎児が人ならば中絶は公衆衛生上の危機である」 Blackshaw and Rodger (2021)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/bioe.12874

  • Bruce Blackshaw and Daniel Rodger, 2021, If Fetuses are Persons, Abortion is a Public Health Crisis, Bioethics, 35 (5): 465-472.

 中絶をめぐる生命倫理学の議論の中で、ジュディス・トムソン(Judith Thomson)の「中絶の擁護」(A Defense of Abortion, 1971)は、胎児が人であると仮定してもなお中絶を擁護できるという議論を展開した点で画期的でした。これに対して以下で要約する本論文は、公衆衛生(Public health)というトムソンが想定していなかった新たな視点を導入することで、「胎児が人であるか否か」はやはり中絶をめぐる議論の中で重要だと論じています。

   ◇  ◇  ◇

 伝統的に、生命倫理学は個人の自律や権利を重視してきた。しかし、個人ではなく人口単位での健康の保護・促進が問題となる公衆衛生倫理では、生命倫理的な原則を単純に適用することは難しいと考えられている。実際、公衆衛生倫理分野では何らかの形態の功利主義が支持されることが多く、人口レベルの健康が十分に向上するのであれば、個人の権利を拒否(override)することも正当だと論じられる。同じ結論は、他者危害原則からも導かれる。公衆衛生の文脈では、危害とは人口レベルの健康の低減、すなわち疾病率と死亡率の上昇だと考えることができる。したがって他者危害原則によって、人口レベルの健康の低減を回避するために、個人の権利を拒否することが正当化される。

 個人の権利を無効化するために公衆衛生への配慮が持ち出されるというのは、現行の新型コロナウイルスの流行を見てみればよくわかる。多くの国で厳しいロックダウンが行われ、個人の自由権が厳しく制限されたが、それは多くの命を救うということで正当化されてきた。また規模は違うが同種の実例として、公共の場での喫煙の禁止やシートベルト着用義務化などをあげることもできる。


 ところで、中絶反対派は、自身の見解の根拠を「胎児は人である」という主張におくことが多い。この主張が仮に正しかった場合、公衆衛生倫理に重要な含意をもつ。ここで仮定される胎児の人格性は、国家によって承認される必要があるとしよう。この時、公衆衛生の観点からは、子供や成人と同様に胎児の健康にも関心を持つべきだということになる。現在、中絶は世界中で年間約5000万件行われており、つまり年間約5000万人の胎児が死んでいる。新型コロナウイルス流行の想定死者数が4000万人だったことを踏まえると、中絶は新型コロナウイルスよりもさらに重大な公衆衛生上の危機だとみなさなければならない。この場合、胎児を保護するために、個人の権利を拒否して抜本的な対策をとることが正当化される。そして、中絶の数を大規模に、しかも一気に減らすため有効な唯一の対策は、中絶の禁止であるーーこのように、胎児は人であると前提すると、個人の権利を拒否して中絶を禁止することは正当化されると考えられる。

 以上の議論には反論が考えられるが、どれもうまくいっていない。

(1) まず、中絶禁止は実際の中絶件数を減らさないとよく言われるが、近年のデータによればこれは誤りである。
(2) 中絶禁止により闇中絶が横行し母体に被害が出るかもしれないが、中絶で死亡する胎児の膨大さと比較すると、やはり中絶禁止は正当化できる。
(3) 胎児は道徳的行為者性と自由意志を備えた「カント的」人格ではない一方で、母親は確かにカント的人格なので、単なる手段として扱ってはならない。すなわち、中絶を禁止することで胎児の容器扱いしてはならない、という反論もある。しかしこうした考えかたは、同時に乳幼児、子供、重度の認知障害者などを単なる手段として扱うことを正当化してしまう問題がある。
(4) 中絶禁止によって、親に望まれない子供が大量に生まれることが問題とされるかもしれない。しかし公衆衛生倫理の観点からは、第一の目標はまず人命を救うことであって、その後の結果については後から対処すべきである。実際、新型コロナウイルスの場合でも、仮に命をとりとめても長期的ケアが必要である人に対しても、まずは人命救助を優先して治療を行うことが求められる。命を救った後何が起こるかわからないという理由で人命救助を控えることはできない。

 以上の議論の矛先は、トムソンのヴァイオリニスト事例の向けられている。トムソンはこの事例によって、仮に胎児が人であったとしても、多くの場合母親の犠牲が大きすぎるので、中絶は正当化されると論じた。しかし胎児が人であるのならば、トムソンの議論の説得力は弱まる。というのはここまで論じてきたように、もし胎児が人であるなら、公衆衛生倫理の観点から言って、〔母親の権利を拒否して〕中絶を行うことが正当化されるからだ。

 公衆衛生を重視する社会で中絶が合法でありうるのは、胎児の道徳的地位が子供や大人よりも著しく低いと考える場合に限られる。

 なお、もし胎児が人であるなら、流産は中絶よりもさらに大きな公衆衛生上の危機だと考える必要がある。Toddy Ordによると妊娠の約60%は流産になり、年間では2億以上の胎児が死んでいることになるからだ(Ord 2008)。したがってこれに対しても抜本的な対策が必要だが、中絶とは異なり、流産はどうすれば防げるのかが明確ではない。また、流産の場合には胎児に対して故意に危害を加えている人は存在しないため、他者危害原則を適用するのが難しくなる。

ゾンビになりたくないという反応から現象的意識の価値を導く論法 Shepherd (2018)

  • Joshua Shepherd (2018), Consciousness and Moral Status, New York, NY: Routledge.
    • 5. What it is like and beyond ←いまここ

 人は、自分が現象的意識を失う(哲学的ゾンビ化する)かそのままでいるかを選択しなければいけない場合、他の条件が全て等しくても、後者を選好するだろう。Siewart (1998) はこの思考実験から、現象的意識にはそれ自体としての(非派生的な)価値があると主張した。ただしSiewartは、現象的意識の一体何にそうした価値があるのかという、さらなる特定化を行なっていない。これによりSiewartの議論は、少なくとも3つの反論に晒される。

  • 反論1: 機能によって説明されてしまうのでは

 機能的側面がすべて保存されていることを十分踏まえれば、本当に現象的意識にそれ自体としての価値があるのかは疑問である。例えばLevy (2014)は、各種の経験を例にとりながら、一見現象的意識に付与されているように見える重要性も、実際は機能に由来するのではないかと疑問を呈している。この疑念に応えるには、現象的意識の何に価値があるのかを積極的に説明する必要がある。

  • 反論2: ゾンビに依拠することの問題

 ゾンビは思考不可能だとする哲学者がおり、その場合この思考実験を元に現象的意識の価値を説明することはできない。しかし思考不可能性の問題は棚上げできる。なぜなら、著者が展開する現象的意識の価値の説明はゾンビに依拠しないからだ。仮に完全に機能から切り離された現象的意識が思考不可能だとしても、私たちがゾンビ化に怯えるという事実は、私たちが現象的意識の何かを高度に価値づけていることを示唆する。それが何なのかをより完全に説明すればよいのだ。

  • 反論3: 経験の価値の差を説明できない

Siewartの見解の一つの解釈は、「現象的意識の価値は「どのような性」(what-it-is-like-ness)にのみ由来する」というものだ。しかし、この主張は明らかに偽である。なぜなら、様々な経験には正の価値を持つものも負の価値を持つものもあるからだ。こうした差を説明する自然な考え方は、最も確定可能な現象的性質である「どのような性」に加え、より確定的なその他の現象的性質が、さらなる価値の源泉になっている、というものだろう。

 以上を踏まえ以下では、現象的意識に価値を与えるより確定的な性質を突き止めていく。

価値の促進/尊重区別と帰結主義 Pettit (1991)

  • Philip Pettit, 1991, Consequentialism, in Peter Singer (ed.), A Companion to Ethics, Oxford: Blackwell, 230-240.
定義

 道徳理論には少なくとも2つの要素がある

  • (1) 善の理論(価値の理論):何が良いのか、価値があるのかに関する理論
  • (2) 権利の理論:価値あるものにどのように応対すればいいかに関する理論

 権利の理論には帰結主義(or 目的論)的なものと非帰結主義(or 非目的論)。この区別は、通例のやりかたではないが、行為者と価値の関係によって説明することができる。行為者の価値に対する応対の仕方として、「促進する」(promote)ことと「尊重する」(honor)ことが区別できる。すべての価値に対してその「促進」が適切な応対だと考える見解が、帰結主義である。帰結主義者がある価値を尊重することもあるが、それはその価値を促進するための手段に過ぎない。他方で、少なくとも何らかの価値は(促進されるか否かによらず)「尊重」する必要があると考えるのが、非帰結主義である。

 促進と尊重の区別についてさらに明確にしよう。一般に、帰結主義者が擁護する主張に次の2つがある。

  • [命題1] ある選択肢の経過の価値は、その中で実現される価値によって決まる
  • [命題2] ある選択肢の価値は、その経過の価値によって決まる

 
 この2つを踏まえると次のように言える。ある行為者が自分の選択において特定の価値を促進するのは、その行為者が様々な選択肢の経過をその価値の観点からランク付けし([命題1])、選択肢をその経過の観点からランク付けする(そして、選択する)([命題2])、まさにその場合である。[命題2]について、ある選択肢がどのような経過をたどるかには不確実性があるため、選択肢はさまざまな経過のあいだのギャンブルだと見なされ、意思決定理論的手続きで価値が決定されるのが普通である(例えば、50%の確率で100人を救うが50%の確率で1人の命も救わない選択肢Aと、100%の確率で40人を救う選択肢Bだと、それぞれの選択で救える人命の期待値は50対40のため、選択肢Aの方が支持される)。この観点から言い直せば、帰結主義者にとっての価値に対する適切な応答とは、その価値の点で最良のギャンブルであるような選択肢を選ぶ、ということだ。

 他方の非帰結主義には、[命題1]と[命題2]をどのように拒否するかに応じて2つのタイプがある。これは、「一定の価値は尊重されなければならない」とはどういうことなのかに関する2つの異なる理解に対応する。

  • [命題1]を拒否する場合:

 ある経過の価値が、それがどれだけ多くの尊重を含むかによって決まるなどということはない。尊重を促進するというのはナンセンスである。

  • [命題1]は受け入れるが[命題2]を拒否する場合:

 尊重を促進するという考えはナンセンスではないが、何が最善の選択肢かはその経過の価値によっては必ずしも決まらない。

 なお非帰結主義者は、=ある価値を尊重する選択肢が何なのか行為者は常にわかっているという前提を置いている。しかしこの仮定は全ての性質には当てはまらない。例えば幸福を尊重することが、自分が直接関わる人々の幸福に(その間接的な影響によらず)配慮することだとしても、実際の場面で具体的にどの選択肢がそうした尊重に相当するのかは必ずしも明確ではない。

議論

 帰結主義は、状況によってとんでもない行為を最善としてしまうと批判されがちである。しかし、帰結主義がそのような結論に至るのは本当にとんでもない状況においてだけの話であり、そしてそうした状況では非帰結主義者でもとんでもない行為を汚せざるを得なくなるものだ。

 そこでこの批判は次のような形に弱められる。すなわち帰結主義は、あらゆることを計算に入れる熟慮の習慣を行為者に与える。しかしそれは、人の権利や、身近な人々の特別な要求、許容可能・義務・義務を超えた美徳の違いなどを認識することを不可能にしてしまう、好ましくない変化である。この批判はしかし正当ではない。なぜなら帰結主義は、行為者のなすべき熟慮の仕方にかんする主張ではなくて、選択肢の正当化にかんする主張だからだ。実際、帰結主義者が支持する価値を達成する最善の方法は、一つ一つの行動ごとに計算を行うことではない場合は多い。このことは、人が帰結主義を採用することになんの実践的意義もないということではない。そうではなく、帰結主義的計算は、個々の行動に間接的に影響を与える性格や原理を選択する際に、帰結主義的な計算が重要になるのだ。
 
 しかしこの時、結局、どの原理に従うかについてもその場その場で計算して決めるほうがベストだということになってしまわないのだろうか。これは最前線の問いであり、いくつかの応答が提案されている。第一に、行為者は誤りやすいので、いちいち方針をモニタリングして計算していると結局善より害の方が大きくなる、と論じることができる。第二に、行為者の性格のようなものはそもそもモニタリングしてコントロールできるようなものではない、と論じることができる。第三に、多くの価値について、それを促進するためにはある程度盲目的な習慣に身を委ねる必要がある、と論じることができる。

 このように、帰結主義はかえって行為者が計算しないことを動機づける場合がある。この点を認めるタイプの帰結主義は、「間接的」「戦略的」「制限的」などと形容される。この制限的帰結主義を、規則帰結主義と混同してはいけない。規則帰結主義は、行為の正当化について規則に訴えるものだが、制限的功利主義はこのようには考えず、行為の正当化についてはあくまで行為帰結主義的だからだ。

 他方、帰結主義を支持する議論のその単純性にある。帰結主義は、(a)価値に対する適切な対応として「促進」のみを持つが、非帰結主義は加えて「尊重」を持つだけでなく、(b)なぜ一定の性質が尊重に値するのかに説明を与えない。(c)さらに帰結主義は、個人の善を追求するさいの合理性の要求と連続的である。単純性への訴えでは十分ではない場合、非帰結主義側の見解を検討し、[命題1]も[命題2]も否定できないと論じることが、帰結主義をさらに動機づける。

 またさらに、人がなぜ誤って非帰結主義的な思考を持ってしまうのかまで説明できれば理想的である。この説明に役立つであろ2つの観察がある。第一に上でも見たように、価値の促進についていちいち熟慮することが逆効果になる場合があることから、そうした事例で選択肢を正当化するのは価値の尊重だと考えられてしまうのだろう。第二に多くの非帰結主義的立場は、帰結主義の正当化力を認めた上でそれを何らかの形で弱めるところから生まれている。この場合、帰結主義が見逃していると非帰結主義側が考える要素について、本当は見落としていないのだと論じることで、帰結主義を強化することができる。

脳オルガノイド倫理に意識の一般理論は必要か? Shepherd (2018)

jme.bmj.com

  • Joshua Shepherd (2018), Ethical (and Epistemological) Issues regarding Consciousness in Cerebral Organoids, Journal of Medical Ethics, 44(9): 611–612.

 脳オルガノイドにかんする倫理的な問題は、オルガノイドに(どのような)意識があるかを確定するという認識論的問題と切り離せない。この点についてLavazza & Massimini (2018) は、意識の一般理論の必要性を強調している。しかし、そうした「理論」は本当に必要なのだろうか。

 現在、哲学者のあいだでも科学者のあいだでも、様々な意識の理論が対立している。各理論の細かな違いは、将来オルガノイドの発達の操作の制度がより上昇したとき、道徳的により重要になるかもしれない。しかし現状、各理論の対立が容易には解消しなさそうであることを踏まえると、道徳的に重要な意識過程を支えていると思われる生物・心理的構造について各理論でコンセンサスが取れている部分に注目したほうがいいのではないか。

 コンセンサスを探る範囲は、単に意識の有無だけでなく、意識的活動がどのような特徴を持つかという点にも及ぶ。例えば現象的意識過程は、「確定可能-確定的」構造を持つ。つまりある主体が意識的であるとして、その最も確定可能なありかたは「どのような性」(what-it's-like-ness)を持つということだ。しかしこの主体の意識状態は、より確定的に、知覚経験を含むかもしれないし、さらに確定的に、特定様相の知覚経験(視覚・固有受容感覚)を含むかもしれない。また認知的な意識や、さらに特定の形式の意識的認知(予期、判断など)を含むかもしれない。これらはすべて現象的性質という点では同じだが、道徳的重要性の点での違いがありうる。筆者自身としては、意識活動における価値は、感情的な現象的性質および、主体の心理構造の高階の特徴によるものだと考えている。しかしいずれにせよ重要なのは、問題となるオルガノイドについてこのような心理的構造をよりよく理解し、その構造と道徳的議論を対応させることにある。

 より具体的に言うと、脳オルガノイドの意識について考える際には、外傷性脳損傷のような難しい境界事例における意識の研究の中で開発されてきた概念を転用するほうが、何らかの意識の一般理論を適用することよりも有益だと筆者は考える。また、昏睡状態、麻酔状態、微睡状態、覚醒状態を区別する神経過程についての研究を参照することもできるかもしれない。意識の道徳的価値という問題は、快の良さや苦痛の悪さといった平凡な言葉ではうまく扱えない。関連する研究者たちが事柄に対してさらに深くコミットする必要がある。