えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

動物の自己犠牲は利己主義的に解釈できない Gavanescul (1895) 

https://www.jstor.org/stable/2375150.

  • T. Gavanescul (1895). “The Altruistic Impulse in Man and Animals”. International Journal of Ethics, 5(2): 197-205.

 ラロシュフーコーらは、人間の行為は全て利己主義によって導かれていると考えている。だがこの考えは幻想である。人間本性は進化の産物だから、人間の能力は動物の対応する能力がより発展したもの(量的に変化したもの)だとしか考えられない。〔従って、動物に利他的動機があるなら、人間にもあるはずである。〕そして実際、共感、すなわち種の利益のための自己犠牲へと突き動かす衝動は、動物にも見られ、アリ、鳥、ゾウ、サル、犬、ペリカンなど実例は枚挙にいとまがない(John Lubbock; Romanes)。人間の共感はあまりに複雑なために、それが存在しないかのような解釈すら可能になっているが、動物の共感はより単純であり否定しようがない。なるほど人間の死をもいとわない自己犠牲は、例えば死後の永遠の幸福ヘの希望によって説明できるかもしれない。だが同じことをサルに言うつもりなのだろうか。サルも霊魂の死後存続を信じているのか?

 こうした例から、個体の保存へ向かう力とは異なった力が存在することは明らかである。自然の鉄則は「一人の死は大人数の死より良い」だ。人間がこの鉄則を意識的に制度化する以前から、自然は同じ鉄則を無意識のうちに有機世界に適用していた。人間にしても、この鉄則を理性によって発明したのではなく、進化の産物である自らの道徳的本性の中にそれを発見したのだ。

多くの人にとって、この手の真理に納得し、良心のささやきに不安になったときの逃げ場とすることは、難しくもないし不快でもないだろう。もちろん、その手の自然の必然性なるものに、真に無私の善人がわざわざ自分の本性を合わせようとすることはないだろうが、邪悪な人々を慰 めるという厄介な偉業を果たす点だけでも、そうした理論は十分非難に値するだろう。 p. 199