えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

フェミニズムとリベラル Kymlicka 2002[2005]

新版 現代政治理論

新版 現代政治理論

  • Will Kymlicka. (2002). Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Second Edition. Oxford. Oxford University Press.(2005, 千葉眞・岡崎晴輝訳, 『新版 現代政治理論』, 日本経済評論社)

 フェミニズム政治理論は多様である。そこで本章ではとくに、主流派の政治理論に対するフェミニズムからの3つの批判をとりあげることにする。第一の批判は「ジェンダー中立的」な差別理解にかかわり、第二の批判は公私の区別にかかわる。これらの批判は、正義の構想の重要な側面が男性に偏っているとするものだ。これらに対して第三の批判は、正義の構想自体が男性に偏っているというものだ。

第一節 性的平等と性役割

 近年の自由民主主義諸国は、様々な反差別的法令を採用してきた。しかしこれらの法令は性的平等をもたらしていない。[544]なぜなのか。ここで、そうした法令の中をふくめ、西欧諸国で通例、性差別とはどのようなものだと考えられているかに着目しよう。通例、性差別とは、利益や地位を供与するにあたって、ジェンダーを恣意的ないし非合理に用いることを意味する。このとき女性差別の典型例は、ジェンダーといかなる合理的関係もない職業で女性の雇用を拒否する、といったものになる。こうした理解は性差別への「差異アプローチ」と呼ばれる。

 さて、西欧諸国での反差別的法令の道徳的主眼は、「男性に与えられている役割を女性にも与える」ということだった。[545]つまり、既存の社会的利益や地位の獲得にあたって、ジェンダー中立的な競争や機会を提供することが目指されてきたのだ。〔こうした法令は、利益や地位の獲得がジェンダーによって恣意的に排除されないようにする点で、差異アプローチ的な理解に基づくものだと言える〕。しかし差異アプローチは、社会的利益や地位の規定それ自体に組み込まれたジェンダー不平等を見逃してしまう。2つ具体例を挙げる。まず、消防士や警察官、軍人などへの就労条件として一定の身長・体重が定められている場合を考えよう。こうした基準は表向きはジェンダー中立的だが、男性の平均身長・体重を加味すると女性の就労の可能性が奪われてしまう。[546]もう一つ。多くの職業は、育児をしないことを前提にしないと就業できない。しかし女性は依然として育児を期待されているので、仕事を巡る競争で不利になりがちである。[547]このことから生じる不平等な帰結は、しかし差異アプローチでは差別に該当しない。というのも、育児からの解放は既存の多くの職業において実際に必要とされているのだから、このことを理由に雇用主が人を雇わないのは、〔女性であることを理由にしているわけではない以上、〕恣意的ではないからだ。
 
 このように、ジェンダー中立性によって性的平等がもたらされるか否かは、「それ以前に」ジェンダーが(どのように)考慮されているかに依存している。[548]というのもこうした事例では、ジェンダー中立的に追求される社会的地位や利益自体が、男性の利益や価値に基づいているからだ。さらに、社会的地位や利益がジェンダーに基づいて規定されればされるほど、差異アプローチでは不平等を見出しにくくなる。[549]そうした社会では、女性は就業のための技能を向上させることがそもそもできないので、既存の男性の特権を維持するために、女性を〔女性だからという理由で〕恣意的に扱う必要が無いのだ。女性に対する恣意的差別の無さが性的平等の証拠だと差異アプローチは考えるが、むしろそれは広範な性的不平等の証かもしれないのだ。

 [550]このような不正に対しては、性的不平等を支配の問題として捉えなおす必要がある(「支配アプローチ」)(MacKinnon 1987)。平等を実現するために必要なのは、女性によって規定された役割、あるいはジェンダーが関係しないような役割を生み出すことであり、そのための〔男性と〕平等な権力である。[551]この支配アプローチは正義論とどう関係するだろうか。多くのフェミニストは、平等の観点から正義を解釈すること自体を放棄する必要があるとする。たとえば、所与の枠組のなかでの測定を意味する「平等」ではなく、自分の選好する枠組みで自己理解する権利である「自律」の観点から正義を理解すべきだとされるのだ(Gross 1986)。[552]しかし、女性の自律の主張とは、女性の利益や経験が男性のそれと等しく重要であるべきだというものなのだから、支配アプローチは決して平等と相容れないものではない。むしろそれは、平等という理念の最良の解釈なのだと考えられる。

 では、支配アプローチは主流派の平等解釈と両立するだろうか。コミュニタリアニズムやリバタリアニズムとは両立しない。支配アプローチは人が自身の社会的役割を問いなおすことを認めるが、それはコミュニタリアンが拒否するものだろう。またリバタリアンにとっては、女性を雇用しないことは私的所有権の正当な行使であり、支配アプローチとは整合しない。[353]リベラリズムとはどうか。多くのリベラルの理論家は、たしかに歴史的には差異アプローチを採用してきた。しかし実際のところ、差異アプローチとリベラリズムの原理は明らかに相容れない。原初状態における契約者であれば、〔自分の性別がわからないのだから、〕現在の社会的役割にあるジェンダーバイアスを取り除こうとするはずである。この点でリベラルは支配アプローチと整合的だ。しかし、支配アプローチは別の点でリベラルに挑戦する。リベラルは公私の区別や、正義とケアの関係に関する想定を修正するべきだと言うのだ。

第二節 公的なものと私的なもの

 伝統的にリベラルは、平等は家族関係には適用されないと想定してきた。[555]しかし、家族を無視した性的平等へのアプローチには限界がある。二重労働の結果女性は経済的に自立できず、また経済的脆弱さが改善されたとしても、家庭と仕事の二者択一を迫られることになる。また、家事労働が公的承認を得られないという問題もある。[556]ではこうした私的領域における不正を扱うためには、リベラルを離れるしかないのだろうか。リベラルは公私の区別にコミットしており、家族を私的領域の中心においていると考えれば、そうなる(Jagger 1983)。しかし、リベラルが私的領域の中心に家族を置いているかどうかは自明なことではない。[557]ここで、公私区別の二つの構想を検討してみよう。

A 国家と市民社会

 古代ギリシアでは、自由と善き生とは、政治権力行使への参加の問題であった。これに対し古典的リベラルは、一方で自由と善き生を政治ではなく社会生活のなかにおいてこれを称賛し、他方で政治の機能を市民社会での個人の自由の保護に限定した。こうした文脈においてリベラルが採用する公私の区別とは、「国家と社会」の区別に相当する。[558]この区別において家族はどこに位置づけられるだろうか。家族は人々が自由に形成する結社の一つなのだから、〔論理的に言えば、これは〕当然「社会」側に位置づけられるだろう。しかし歴史的にはそうではなかった。ほとんどのリベラルは、「社会」を成人男性から構成されるもののように記述している。つまり「国家と社会」は男性社会内部での区別であり、家族はこの区別からは抜け落ちているのだ(Patman 1987)。[559]しかし注意すべきなのは、この伝統的な「公と家族」の二分法ははるか昔から受け継がれてきた見解であり、リベラルの「国家と社会」の区別と論理的関係にあるわけではないということだ。[560]実際、リベラルもリベラル以外も、歴史上非常に異なる政治的立場の哲学者が、「公と家族」の区別を採用してきた(Kennedy and Mandus 1987)。

[561]そこで、伝統的な「公と家族」の区別と、リベラルの「国家と社会」の区別を分けよう。すると、フェミニストがリベラルの区別を拒否する理由は無いと思われる。というのも、〔リベラルの敵である〕アリストテレス的共和主義による政治賛美は、自然と文化を二分し後者を賛美する態度に基づいており、これこそ多くのフェミニストが、女性蔑視の源泉だと論じてきた態度だからだ。[562]また共和主義者は、社会に対する政治の優位を、政治の普遍性・共通性の主張に基礎づけることが多い。この主張は当然、政治を家庭領域から分離させるものであるが、これもフェミニズムとは相容れない(Young 1989)。
 
 〔このように、国家と社会の関係については、リベラルとフェミニズムは、反アリストテレス的共和主義という点で一致している。どちらの立場でも、〕公権力は市民社会における私益促進という観点から正当化されなければならない。ただし、両者には潜在的な対立点もある。リベラルは、市民社会の結社の安定性や、言論と出版の自由について楽観的な見通しを持ちがちである。これに対しフェミニズムは、社会集団を補助したり(コミュニタリアンと共通の主張)、有害な表現を取り除くために、国家の介入が必要だと主張するかもしれない。[564]つまり、女性蔑視の長い歴史とそれに応じた適応的選好に挑戦するためには、国家の積極的介入が必要かもしれないのだ。

B 個人的なものと社会的なもの——プライバシーの権利

 古典的なリベラルが個人の自由の基盤を社会生活においたのに対し[565]ロマン主義者は、政治に加えて社会的圧力もまた個人を脅威にさらすと考えた。そこでロマン主義者は、社会的生活をも公的領域に含め、友情や愛といった親密な関係のみを私的領域とした(Rosenblum 1987)。この「親密なものと公的なもの」という区別を現在のリベラルは受容し、[566]社会生活という私的な領域の内部に、個々人がプライバシーを保持しうる空間を創りだそうとしている。

 [566]だがこの第二の区別も、フェミニストの攻撃の的となってきた。アメリカにおいてプライバシーの権利に憲法的地位を与えた判決、グリスウォルド対コネティカット判決は、既婚女性の避妊を禁止する法律をプライバシーの権利の侵害にあたるとした。これは一見女性の勝利に見えたが、そうではなかった。最高裁解釈では、家族に対する外からの干渉がプライバシーの侵害にあたる。しかしこの理解は、同時に、女性の利益を保護するために家庭生活を是正することを不可能にしてしまう。このような経緯から、プライバシー論によって国家が女性への責任を放棄することになったという批判がなされることになった(MacKinnon 1991)。

 しかし、最高裁のプライバシー解釈にはおかしなところがある。[567]個人が持つはずのプライバシーが、家族の観点から定義されているのだ。[568]なぜこのようなプライバシー概念が採用されてきたのだろうか。それは、リベラル以前の、家族は自然なものだという伝統的観念の影響だと考えられる。司法は長いあいだ家父長制理論に支配されており、家族とは家長の人格を拡大したものだと考えてきた(Benn and Gaus 1983)。1920年代には家父長制理論のあとを「家族の自律性」理論が継いだ。この理論においては、伝統的な家族は社会的安定の前提条件と見なされ、したがって司法による改革を免れた。そして近年のプライバシーの強調は、保守主義者が家族を手つかずにしておくための新たな正当化となったのだ。実際最高裁は、プライバシー概念が家族の自律論と連続していることを明確に認めている。[569]確かに現実には、プライバシーの権利によって家庭の領域が放置されている。だがそれは、リベラルなプライバシーが家庭生活を手つかずのままにするからではない。そうではなく、家庭生活を手つかずのままにしておきたい人々がリベラルなプライバシーの語彙を採用しているからなのだ。

 [570]家父長的理念から切り離された〔つまり個人ベースの〕プライバシー概念について考えれば、プライバシーを尊重するというリベラルの基本動機にフェミニストも賛同するだろう。リベラルの基本動機とは、他者の干渉や要求からの解放、新規なアイデアの試行、親密な関係の深化のための空間をもつことを求めるものであり、これは、全ての女性が「自分自身の部屋」を持つべきだとしたウルフの主張と通じている。いずれにせよ、リベラルのプライバシー概念は家族と公を切り離すものではない。というのもリベラルのプライバシーは、家族の外部からも、家族の内部からも、人が保護されることを求めている。そこで、プライバシーを守るために家族の内部に対する国家の介入が必要になるかもしれない。〔これこそフェミニズムが求めていたものであり、〕そしてそれを妨げるものは、リベラルによる「国家と社会」の区別にも、プライバシー論の中にも、何も無いのだ。

シティズンシップの理論 Kymlicka 2002[2005]

新版 現代政治理論

新版 現代政治理論

  • Will Kymlicka. (2002). Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Second Edition. Oxford. Oxford University Press.(2005, 千葉眞・岡崎晴輝訳, 『新版 現代政治理論』, 日本経済評論社)

 コミュニタリアンによるリベラリズム批判を受けて、リベラルな正義と共同体のメンバーシップの要求とを統合する試みがなされるようになった。その際に訴えかけられたのがシティズンシップという理念である。シティズンシップへの関心は、現実の情勢にも由来している。合衆国における有権者の無関心、東欧でのナショナリズム再燃、サッチャー政権下での福祉国家に対する反動などが明らかにしたのは、近代民主政治の健全性や安定性は、制度や手続きだけではなく、市民の資質や態度にも依拠しているということだった[415](これは、制度さえ整えば有徳な市民は必要ないという古典的リベラルの想定に反する)。[416]また、シティズンシップ理論の必要性は、パトナムの研究によって後押しされた。彼の研究は、ほぼ同じ制度を持つ戦後イタリアの地方諸政府が、市民の徳性に応じて非常に異なるパフォーマンスを示すと主張する。この研究自体には賛否があるとは言え、[417]政府の政策によって市民的徳を養成する(「陶冶のプロジェクト」(サンデル))必要性について政治理論家は考察しなくてはならないという点については、今や広い合意が得られている。それどころか、シティズンシップの理論によって正義の理論が必要なくなるとする研究者さえいるが、後述のようにキムリッカはこの点には批判的である。

 [418]本章では、まず必要とされている市民的徳とは何かを確認し(1節)、つづいて市民による政治参加に内在的価値があるとする理論と道具的価値があるとする理論を比較したのち(2・3節)、リベラルな国家はいかにして徳性の促進が可能なのかを検討する(4節)

第一節 民主的市民の徳と実践

 戦後の政治哲学において、シティズンシップは「諸権利をもつ権利」として理解されてきた(Marshall 1949)。シティズンシップが保証する権利には市民的権利、政治的権利、社会的権利があり、[419]国家がこうした権利を全ての人々に保証することで、その構成員は社会の完全な構成員だと感じることができるようになるとされる。このようなシティズンシップはしかし「受動的」なものであり、これを補う/置き換えるものとして市民的徳の発揮を求める議論が、〔初版から〕過去十年のあいだで盛んになってきている。

 [420]しかし具体的にどのような徳が必要なのか。今日の議論は、とくに現在の状況、つまり現代の多元的な自由民主主義に特有の徳を特定しようとしてきた。こうした徳の中には、政治権力に疑問を呈する能力と意欲、そして公共的討論に参加する能力と意欲が含まれる。[421]前者が必要なのは、代表制民主主義において市民には自らが選んだ代表を監視する義務があるからだ。後者が必要なのは、民主政治において政府の決定は自由で開かれた討論を通じてなされなければならないからだ。

 公共的討論に参加する徳は複雑なもので、単に自分の意見を述べるだけでなく、立場が異なる他人の意見に真剣に耳を傾けることまでもが含まれる(Galston 1991)。この徳は「公共的理性」(public reasonableness)と呼ばれることもある。というのも、リベラルな市民の政治的要求は、異なった信条や文化を持つ人々にとっても理解できる公共的な理由に基づくものでなくてはならないからだ。[422]しかし、何が公共的な理由なのかについては大きな議論がある。そして、公共的に共有しえない文化的・宗教的信念に基づく要求の対立が残ってしまう場合には、受容(accomodation)や妥協という異なる徳性が必要になる。公共的理性〔とその限界に〕ついてのこうした構想は特殊近代的なもので、それが今日取り上げられるのは、民族的・宗教的多様性の認識と同時に、現代民主主義理論における、投票中心主義から対話中心主義への「討議的転回」(Rryzek 2000)を反映したことでもある。このことについて説明しよう。

 投票中心の構想では、人々の選好は政治過程とは独立に形成され、しかもそれは利己的なものに傾きがちだと考えられていた。そして民主主義とはそうした選好を集計する手続きにすぎない。[423]しかしこうした理解では、人々の正当な要求とそうでない要求を区別することができない。このことはマイノリティの社会統合を妨げてしまう。この難点に対処すべく、投票に先立って行なわれる討論や意見形成がますます注目を集めている。[425]こうした討議的民主主義は、まず社会全体に利益をもたらす。討議なしでは表明されなかった洞察が引き出されることや、誤った前提があらかじめ破棄されることが期待される。さらに、社会の統合が高まるとも期待できる。なぜなら、全ての人が自分の意見に耳を傾けてもらう機会を得ることで、社会的意思決定はより正統なものだと見なされるだろうし、討議自体も絆を生むからだ。そして、討議的民主主義はマイノリティにとってはとくに利益をもたらす。マイノリティが多数代表的な選挙制度下で影響力を持つ方法は、公共的討論を通じて世論形成に参加することだからだ。[426]このように、討議的民主主義では市民は相互了解に向けて公共的に振る舞うと想定される。そこで、市民的徳性について論じることが急務になるのだ。

 もちろん市民に求められる徳の水準は高いレベルのものではありえない。しかしその水準をどこにおくのであれ、多くの人々は、市民の徳は近年ますます衰退しており危険だと考えている。実際、政治に関心を持つ若者が減っていることは社会調査からも明らかになっている(Glendon 1991; Heater 1990)。

第二節 市民的共和主義

 では、どのように能動的なシティズンシップを促進すればいいのか。この問題を中心的に扱ってきたのが「市民的共和主義」(civic republicanism)と呼ばれる潮流だが、[428]そこでは二つの異なる促進方法が提案されてきた。第一に、能動的シティズンシップの要求には内在的価値があるため、良い人生を送るためにその要求によろこんで応えるべきだとする立場がある(「アリストテレス主義」)。第二に、能動的シティズンシップは民主制度の機能維持や基本的自由確保のための道具的価値を持つとする立場がある。本節ではまずアリストテレス主義を扱おう。

 [429]アリストテレス主義は完成主義の一例である。だがそこで言われるような良い人生の構想は、近代人の理解とはかけ離れている。実際、なるほど「古代人の自由」が政治参加への自由であったのに対し、「近代人の自由」とは私的生活を営む自由であり、政治参加はその手段ないし妨げとしか見なされない(Benjamin Constant)。[430] これに対しては、近代における私的生活の強調を批判して、真に人間的な生活のためには社会が必要であると論じるものもいる。しかし既に見たように、リベラルも社会の必要性そのものは否定しない〔(→6. 8. B:リベラルは、その「社会」とは「国家」であるという主張に反対しており、国家よりも小さな集団に善の集合的探究の機会を見いだす)〕。[431]そこでアリストテレス主義者は、単に社会の存在だけでなく、とりわけ能動的な政治参加が個人にとって必要だと論じねばならない。

 [432]政治参加の内在的価値への関心が薄れてしまったのは、古代ギリシアと比べて現代の政治的生活が貧しくなったからだとされることがある。貧困化の原因は、大規模化、貨幣、メディア、専門家などにある。これらを取り除き、より人間的な規模の政治的フォーラムを作れば、人は自ずから政治の価値に気づくはずだ、とアリストテレス主義者は言う(この見解は、公共的対話を従事する討議民主主義とも符合する)。[433]しかし、キムリッカの考えでは、仮にこうした政治的フォーラムへの移行が生じても、人はやはり政治とは犠牲を強いるものだと感じるだろう。というのも、近代人が政治に参加しない理由は、政治生活の貧困化(だけ)ではなく、私的生活が豊かになったことだからだ。これに対し、豊かになった私的生活りも政治が重要だとする十分な根拠を、アリストテレス主義者は提出できていない。

 [434]アリストテレス的共和主義はコミュニタリアンと似ているが、その一種というより亜種である〔※原文では、「二階のコミュニタリアニズムである」〕。というのも、一方で伝統的コミュニタリアンは、共有された既存の目的を促進するために政治に参加する。しかしアリストテレス的共和主義は、そうした共有された目的の存在を前提せず、その代わり、政治参加それ自体を共有された目的とするからだ。しかしいずれにせよ、良い生活にかんする単一の構想を特権化する試みはいずれも、近代社会では失敗するだろう。

第三節 道具的な徳

 従ってリベラルは、アリストテレス的共和主義を受け入れることはできない。しかし、市民的徳は公正な制度を生み出すために道具的価値を持つと主張することで、市民的徳を擁護・促進することは可能だ(ロールズの用語では、リベラルは「公民的人文主義」とは対立するが、「共和主義」とは両立する)。[436]この見解によれば、リベラルな市民は、公正な制度を作り、維持するのに最低限の徳を発揮する義務を負うことになる。ただし、制度がどの程度健全であるかは時と場合によるので、幸運に制度が健全な場合には、個々人は自らの善の構想を自由に追求すべきである。

 [437]このようにリベラルは市民に対して、公共的理性のような「政治的」徳をあまり大きくは要求しない。しかし上で確認したように、リベラルは、個々人の善の追求のためには〔国家ではなく〕市民社会というアリーナが必要だと考えている。ここからリベラルは市民に対して、市民社会を維持するための徳、すなわち「市民性」(civility)・「品位」(decency)といった「社会的」徳を要求することになる。これらの徳は、顔を突き合わせて接触する他人への接しかたに関係するものだ。この点で、リベラルなシティズンシップは、伝統的な受動的シティズンシップでは捉えられないものになっている。というのも、受動的シティズンシップは、単に他者への不干渉を要求する消極的なものだと理解されてきたからだ。

 では「市民性」とはどんな徳なのか。差別禁止の要請との関連で説明しよう。差別の法的禁止は、かつては政府の活動だけに適用されていた。しかし、個人が真の意味で平等者として処遇されるか否かは、政府の活動だけでなく、市民社会の諸制度(企業、学校、商店……)にも依存している。そこで差別の法的禁止は私的団体にもますます適用されるようになってきた。これにより、個人のありふれた意思決定の中にも、人々を平等者として処遇する義務が入り込むようになってきた。リベラルな市民は、日常生活の中で、自分が偏見を抱いていたかもしれない人々とも対等にかかわりあうことを学ばねばならない。〔これが市民性を養うということだ〕。市民性の要求が、あらゆるインフォーマルな場において「法的に」強制されることは不可能だろう。しかしそうした法的に強制されない場面でも、リベラルなシティズンシップはやはり市民性の発揮を求める。

 [439] 市民性は、表面的な「良い作法」という美的構想と混同されやすい。この混同のために、市民性は見かけを取り繕うことしか求めずに他人のニーズに対する根本的な無関心を正当化しているといった批判や、市民性は異なる宗教的立場への蔑みを公にすることを禁じるので特定の宗教的構想を台無しにしてしまうといった批判が投げかけられている(Cuddihy 1978)。さらには、抑圧された集団による激しい抗議が、市民性の名の下で批判されたりする。しかし真の市民性とは、どんな状況でも表面上行儀良くするということではない。市民性とは、他者が自分に同等の承認を与えるという条件のもとで、他者を平等者として処遇するということだ。

第四節 市民的徳性の苗床

 しかし、どのようにして道具的な徳を市民に持たせればよいのか。一つには、徳を発揮する法的義務を課すことが考えられる。しかしこの手法は負担が重く、しかも人々が「責任ある仕方で」政治参加する事は保証しない。[441]さらに言えば、嫌いな政治活動への参加を強制されることで、人々の政治への憤りは増すかもしれない。はじめは嫌々ながらでも、政治参加を通じて徳が養われるようになるという考えもあるが(ルソー、ミル)、これは楽観的にすぎる。政治参加と「責任ある」政治参加は別であり、前者によって後者ができるようになるのはなぜなのか、説明が必要である(Mulgan 1991)。
 そこで多くの学者は、より間接的なアプローチをとる。市民的徳を育成するような社会制度や慣習(「市民的徳の苗床」)を特定し、維持しようというのだ。例えば、次のような制度が挙げられてきた。

市場

 ニューライトは福祉国家が人々を受動的にすると批判している(4章)。そして、シティズンシップの重要な要素であり、また社会の完全な構成員になるための前提条件である、自活(self-supporting)を生み出すものこそ、市場であると主張している。[443]さらに、市場は市民性を生み出すともいわれる。というのも差別的な企業は競争で不利になるからだ。

 なるほどたしかに、市場は自発性を教えるかもしれない。しかし、市場化は貪欲や経済的無責任も生み出している。市場は正義や社会的責任の感覚は教えないのだ。また、国民の大部分が特定集団への偏見を持っていれば、企業はむしろ差別的になるだろう。

市民社会の自発的結社

 教会や家庭、労組のような自発的結社こそ市民性を養うという主張がある(Waltzer 1992a)。こうした団体のメンバーは、責任を果たせなかった場合、他のメンバーから非難をうける。[444]これは、責任ある行動へのインセンティヴとして、非人格的な国家による処罰よりも強力だろう。しかし、自発的結社が徳を養うという経験的証拠はほぼない。むしろ組織は、従属や不寛容の温床となる可能性もある。ウォルツァーは、そうした不公平な結社は政治的是正を受ける必要があると論じる。ただしこうした介入を許せば、結社の自発的性格は失われるだろう。だが、それこそ結社を徳の苗床足らしめる特徴だったのだ。結局、自発的結社の存在理由は、何か特定の価値や人間関係を尊重することであって、それはシティズンシップとは特に関係ないものかもしれないのだ。そうである以上、シティズンシップの涵養を自発的結社に期待しすぎることはできない。

家庭

 9章でまたとりあげるが、家庭、特に育児が市民性を養うという見解がある(Ruddick 1987)。育児は、生命を守り弱いものを保護する責任を女性に教えるからだという。[466]しかし、母と子の間にふさわしい徳が、どのように市民性へと転換できるのか、全く明らかではない(Dietz 1992)。

教育制度

 多くの理論家は、徳を涵養する場を教育制度に求めている。[447]もちろん学校教育も、服従や排外主義の温床となってきたが、しかし市民的徳をはぐくむ場として(再)組織することは可能だと考えられている。さらに、若者に影響を与えうる様々な制度の中でも、学校は、国家による規制に対する反論が最も少ない(Weinstock 2001)。このためリベラルは、様々な社会的病理への対策を学校教育に求める傾向がある。

 [448−449]リベラルな学校教育は、生徒が自身の属する共同体や文化からある程度離れ、他の共同体や文化の人々と交流することを理想とする(「引き離された学校」の理想(Levinson 1999))。だがこれには批判もある。伝統や権威の無批判な受容に依存する集団(アーミッシュなど)は、独自の宗教学校や在宅教育の創設や、リベラルな徳を要求するカリキュラムの免除を求めてきたのだ。なるほど「引き離された学校」は、多様な環境での「統合教育」を「一定期間だけ」求めるものでもあり得、必ずしも分離教育や在宅教育を否定しない。しかし一定期間の統合教育にすら、多くの保守的宗教団体は反対するだろう。こうした団体は近代国家を邪悪なものとみなしているのだから、近代国家を機能させるためには徳が必要性だと説いても説得できない。

 [450]リベラルな国家において、〔国民全てに対する〕統合教育が本当に必要なのだろうか。ここで、通常のカリキュラムの免除を求める集団を二つに分けて考えよう。一方でアーミッシュのような集団は、政治や市民社会の主要制度へ参加する権利を放棄している(「部分的市民」:Spinner 1994)。従って、そうした権利に伴う責任(例:市民的徳を養うこと)を果たさなくてもよいと考えることもできる。[451]他方、宗教的原理主義者のような集団は、政治や制度への参加を求める以上は、市民的徳の教育を拒否できないだろう。

 ただし学校は全体社会の一部であるから、その目標が社会制度によって支持されなければうまく機能しえない。従って学校は、他の社会制度から本当に引き離されることはできない。〔こうした点から考えても、〕学校を含め市民的徳の「唯一の」苗床が存在しないことはあきらかであり、リベラルは一連の制度から一連の徳性が得られることを望んでいる。

 しかし、〔徳は発揮されないと意味がない〕。道具主義によれば徳の発揮それ自体に価値はないのだから、他の目標や選好と衝突するときなぜ市民が徳を「発揮する」ことを選ぶべきなのかをリベラルは説明しなくてはならない。[452]ここで前章でみたテイラーの挑戦が再浮上する。市民は互いに衝突する善の構想を持つにもかかわらず、なぜ同胞市民のために犠牲をはらう法的義務を引き受けねばならないのか。

 リベラルの答えは前章と同じである。正義感覚の共有が市民を連帯させるというものか、言語、歴史、制度などがさらに必要だとするものか(リベラル・ナショナリズム)、どちらかだ。[453]後者のような国民建設(nation-buildng)をリベラルは避けたがるが、しかし市民的徳性の重要性や討議民主主義を唱える理論家は事実上共通の言語の存在を前提しており、従って国民形成の適切さも前提にしているのだ。実際リベラル・ナショナリストたちは、市民的徳性や討議民主主義を強調することは、その前提条件である国民形成を支持することだと論じている(Miller 1995; Kymlicka 2001)。

第五節 世界市民的シティズンシップ

 こうしたリベラル・ナショナリズムのアプローチは、世界市民的シティズンシップの観点から批判されることがある。超国家的制度の必要性がますます増している一方で、国連など既存の超国家的制度に対する市民の直接的参与はほぼなく、「民主主義の赤字」が生じている。しかも超国家制度にかんしては、そこで必要な市民の徳性や正義にかんする理論化がほぼなされていない。[455]こうした状況のなかで、国民性を強調するリベラル・ナショナリズムは、超国家レベルの民主主義の必要性を無視し、それにかんする理論化を不可能にしてしまっているとされるのだ(Held 1995; Young 2000b)。

 だが、リベラルナショナリストは超国家的制度の必要性を否定するわけではない。EUを例に考えよう。EUの意思決定の中心は2つある。一つはヨーロッパ規模の選挙で代表が直接選出される「欧州議会」、もう一つは各国の政府によって代表が指名される「欧州委員会」および「閣僚理事会」だ。対応して、民主主義の赤字を解消する方法のひとつは、欧州議会の権原を強めること、もう一つは、欧州委員会や閣僚理事会での代表者の行動の責任を各国政府が強く負うことだ。世界市民的シティズンシップの擁護者は第一のアプローチをとりたがるが、ほとんどのヨーロッパ人は明らかに第二のものを好んでいる。[436]例えばデンマーク人は、EUのなかでヨーロッパ人が何をすべきかを全ヨーロッパ人と話し合いたいと思っているわけではない。EUのなかでデンマーク人が何をすべきかをデンマーク人同士で話し合いたいと思っているのだ。[437]実際、もし前者のアプローチをとるとすると、市民がシティズンシップを発揮してヨーロッパ横断的討議に参加することなど現実的には不可能なのだから、かえって民主主義的シティズンシップは掘り崩され、民主主義の赤字は増す一方だろう(Grimm 1995)。従って、民主主義的シティズンシップが発揮される場はやはり国家でありつづけるだろう。そうした国民国家のうえにこそ、世界市民的民主主義を発展させるべきなのだ。

第六節 市民的共和主義の政治

 戦後のほとんどの政治理論における基本的な規範概念は、(手続きを評価するための)「民主主義」と(帰結を評価するための)「正義」だった。これに対し近年、あらゆる政治的立場がシティズンシップに注目している。しかし今日の理論家は、自身のシティズンシップ理論を具体的な公共政策の問題に適用することに消極的だ。シティズンシップを養うことが重要なら、なぜ良きサマリア人法、投票の義務化、私立学校の廃止等などを主張しないのか。[459]それどころか、シティズンシップが実のところどのくらい緊急に必要なのかについてもまともな議論がない。たしかに投票率の低下は事実だが、若者はより寛容に、他者の権利を尊重するようになっているし、[460]政党中心の国政への参加とは異なる「対抗公共圏」はますます盛んになっている(Fraser 1997: Phillips 2002)。

 こうしたことは次のことを示唆する。今日のシティズンシップ論の隆盛を額面通り受けとるべきではない。シティズンシップという新しい言葉は、正義に関する旧来の理論をカモフラージュするために使用(誤用)されているにすぎないのだ。1980年頃までに正義論は袋小路に陥り、各種の立場(リバタリアン、リベラルな平等主義、功利主義、コミュニタリアニズム)の間で優劣を付けることは明らかに不可能になった。そこで、正義とは異なる概念に訴えかけることで、自らの支持する政策を擁護することが必要になった。その役割を果たしたのがシティズンシップだったのだ。

 実際、正義に訴えたリバタリアンの福祉国家批判は失敗したが、シティズンシップに訴えたニューライトの福祉国家批判は成功した。[461]同様に、リベラルな平等主義による所得格差批判も、正義に訴えているうちは失敗したが、金持ちによって貧民の選挙権が買われることになるとシティズンシップに訴えたときには成功した。また女性の権利やゲイの権利が「不自然だ」「堕落している」という文化的保守主義の主張は説得力を失ったため、[462]今日では、伝統的家庭こそが市民的徳の苗床なのだと主張されるようになっている。

 どの場合でも、シティズンシップへの訴えかけは正義からの戦略的撤退なのだ。もちろん、戦略的撤退であるからと言って議論の説得性が落ちるわけではない。しかし注意すべきなのは、シティズンシップに関する新しい理論は、どう見ても、市民的徳性の客観的な探究ではないということだ。[463]それぞれの立場は、すでに正義の観点から支持されている事柄について、それをシティズンシップの観点から擁護しようとしている。ここから何か新しい結論が得られるかどうかは、全く明らかではない。

優美さ Spencer (1868)

https://archive.org/details/essaysscientifi06spengoog

  • Herbert Spencer (1868). Gracefulness. In his Essays: Scientific, political, and Speculative, vol. 1. London: Williams and Norgate. pp. 312–318.

 美とは、事物の性質の中でも私たちが満足(gratification)と連合する習慣があるものを指す一般的な名前であり、従って美の観念は快い(pleasurable)経験が蓄積されていった結果として生じるという見解がある。私はこの見解には、一定の拡張を加えた上で、完全に賛成できると考えている。しかしこれと同じことは、私たちが優美と呼ぶような形態や運動の性質については言えないと考えている。

 私たちが優美だと言う属性をもつ事物は、明らかに、何らかの完全性を持っている。私たちは、荷馬車やカメやカバのことを優美だと言ったりはしない。こうした動物は、運動の力が不完全にしか発展していない。対して、グレイハウンドやアントロープ、競走馬等は優美だと言われる。こうした動物たちは非常に効率的な運動器官を持っている。さて、私たちが優美と呼ぶような構造や行為がもつ特有の性質とは何なのだろうか?

 ある晩、私はあるダンサーを見る機会があった。その踊りは野蛮で、もし観客たちが、流行りと見ればすぐ褒める臆病者でなかったなら、彼女はその場から追い払われていただろうなと内心思っていた。その時考えたのだが、本当に優美な動きがあらわれるのは、比較的小さな努力でそれがなされるときではないだろうか。このことを確認する事実をいろいろと確かめた結果、今では次のような一般的結論に至った。態度の変化、行為の遂行が最も優美になされるのは、それが最小の力の消費とともになされる時である、と。言い換えれば、運動にかんする優美さは、節約された筋肉の力(economy of musclar power)でなされる運動に帰される。動物の形態にかんする優美さは、そのような節約を可能にする形態に帰される。姿勢にかんする優美さは、そのような節約を維持している姿勢に帰される。無生物にかんする優美さは、上記のような態度や形態と一定の類似を示しているものに帰される。

 この一般化が、真理のすべてとは言わないまでも大部分を捉えていることを見るためには、「優美」という語が「容易」(easy)という語といかに習慣的に結びつけられるかを考えてみれば良いと思う。そしてさらに、この連合の基盤となっている事実について考えてみよ。例えば、軍曹に「気をつけ!」と言われ直立になる兵士の姿勢よりも「安め」の姿勢(stand at ease)でリラックスしているときのほうが、はるかに優美である。また、用意された椅子の端に体をこわばらせながら座っている無作法な訪問者と、彼を迎え入れる落ちついた主人とは、エレガントさの点でも力み(effort)の点でも好対照をなしている。また私たちは立っているとき、重心をどちらか一方の脚のほうに大きくかけ、そちらの脚を柱とすることによって、力を節約している。そしてリラックスするときには、逆の脚に重心をかける。また同じ目的のために、頭をどちらか一方にすこし傾けているものだ。こうした態度は、優美さの要素として彫刻の中で模倣されている。

 態度から運動のほうに目を向けてみても、優美さと力の節約について同じ関係が見いだされるだろう。不規則な歩きかたや脚を引きずるような歩きかたを誰も優美だとは言わないし、こうした歩きかたは力の浪費を示している。太った人がのしのし歩いていたり、病人が震えながら歩いているところには、誰も美しさを見いださない。そしてどちらにおいても、力みが明白である。むしろ、私たちが賞賛する歩きかたとは、速度が中庸で、完璧にリズミカルで、手を暴力的に振るうことなく、意識的にやっているという印象を決して与えず、無駄な力が全く無いようなものなのだ。冒頭の例にもどれは、ダンスについても同じことが言えるのは、腕の適切な動かしかたという良く知られた困難を考えてみればよくわかるだろう。この困難を克服していないダンサーは、腕が何か厄介な存在であるような印象を観客に与えてしまう。とくに意味の無いかたちで腕がこわばったまま上げられ、そこにははっきりと力が入っている。腕を振るうとき、自然な方向から逸れてしまう。あるいは、あまりに腕が動きすぎており、体の均衡を保つ助けになるどころか、それを危うくしてしまう。これとは対照的に、良いダンサーを見たときには、腕が邪魔だなどとは思われず、むしろそれが極めて便利なものであるように感じる。腕のどんな動きも、一つ前の体の動きの自然な帰結のように見えるにもかかわらず、何らかの利点を持っているのだ。腕は行為全体を妨げるのではなく促進する。あるいは、こう言ってよければ、努力(effort)の節約が達成されるのだ。この事実をはっきりと心得たいと思うならば、歩いている際の腕の動きについて調べてみればよい。ある程度の早さで歩きながら、腕を体の側面にぴったりつけてそのままを保ってみよう。そうすると、肩を前にも後ろにも動かせなくなるに違いなく、うねうねした優美ではない動きになるだろう。こうした歩きかたが優美ではないだけでなく、また疲れるものでもあることを確認できたら、今度は腕を普通に振って歩いてみよう。肩のうねりは消え、体も一定のペースで前に進むようになる。そして、こちらの歩きかたのほうが容易であると感じられるだろう。この事実を分析してみると、歩行中に一方の手が後ろに行く時、その手と同じ側にある脚は前に出ていることに気づくかもしれない。そこで筋肉感覚に注意してみれば、手を後ろに振ることと脚を前に出すことは相殺しあってバランスをとっていることがわかるはずだ。このバランスをとるには、最初の歩きかたの時のように体全体をくねらせるよりも、腕を振ったほうが容易である。

 このように歩行中の腕の動きが理解されれば、ダンス中に腕を優美に動かすためには同じことをより複雑な形で行なえばいいとわかってくるだろう。そして、良いダンサーとは筋肉感覚が非常に鋭く、体全体や脚とバランスをとるために腕をどちらの方向に動かせば良いのかを瞬時に感じ取れる人物なのだともわかってくるはずだ。

 優美さと力の節約のあいだのこのような関係は、スケートをする方であれば良くご存知だろう。スケートを習いたての頃、とくに、フィギュアスケートにおずおずと触れ始めた頃は、動きはぎこちなくとても疲れるものだったはずだ。そして、スキルを身につけるということは容易さを身につけるということでもあった。自信がつき、必要な脚の動かしかたが分かってくると、以前はバランスをとるために体をひねったり腕を回したりしていたのが、不要になってくる。身体は、制御されずとも、与えられた衝動に従うようになる。腕はまさにそれが振れるだろうところに振れる。そして、優美な回転の仕方とは、最小の力みで回ることなのだと、はっきり感じるようになる。観客であっても、もしその気になれば、同じ事実を見逃さないはずだ。しかしもしかすると観客では、最小の力の消費で目的を達成する動きこそが優美と言われる動きだと極めてはっきり見てとることはできないかもしれない。

 ところで、スケートを参照することで見えてくることだが、優美な運動とは曲線を描く運動だと定義できるかもしれない。たしかに、まっすぐな運動屋ジグザグな運動は優美という概念からは外れる。角を描く運動は途中で突然静止することになるが、これは優美さのアンチテーゼと言える。なぜなら、優美さに特徴的な性質は連続性、滑らかさだからだ。しかしこのことは、これまで述べてきた真理の別の側面にすぎない。なぜなら、曲線を描く運動は節約的な運動だからだ。腕や脚といった肢が、特定の位置を次々に通っていくとしよう。さらに肢は、最初の位置から次の位置へ直線的に移動し、そこで突然静止し、さらに次の位置の方へ直線的に移動し……という風に進むものとする。このとき、肢によって与えられていた勢い(momentum)は各静止の度に一定量の力を犠牲にして失われ、しかも肢に新たな勢いを与えるためにはさらなる力が必要になることは明らかだ。これと対称的に、第一の位置で肢を静止させるのではなく、運動を連続的にしてやり、第一の点から第二の点に向かうのに横向きの力を加えてやれば、運動は必然的に曲線的になる。そしてこの場合には、元々の勢いが利用されているので、力は節約されることになるのだ。

 優美な運動にかんして以上のような結論が正しいとすれば、優美な形態とは自己を支えたり運動したりするのに比較的小さな努力しか必要としない形態であることは疑いえないと思う。もしそうでなくては、優美な形態は優美な運動と何の関係もないという不調和が出てくることになるし、あるいは優美な運動と優美な形態の一方はあるが他方は無いと事例がよくあるということにもなるだろう。しかしこれはどちらも経験と合致しない。そこで、今述べているような関係が存在していると結論せねばならない。このことを認めようとしない人でも、私たちが優美だと考えるような動物、自身の体重を負っていないかのように軽やかな姿をした動物や、素早さや軽快さで知られる動物を思い起せば、やはり見解を変えてくれるだろうと私は思う。これに対して、私たちが優美でないとする動物は、どっしりしており運動能力はあるもののほとんど発展していない動物なのだ。とくにグレイハウンドを考えてみよ。この犬種はまさに、体重の節約が最も顕著で、筋肉運動能力の最高度の完成に特化した犬種であって、これこそまさに私たちが最も優美だと言うものなのだ。

 樹木や無機的対象がいったいなぜ優美という形容を受けるのかは、一見したところあまり明らかではない。しかし、そうした対象を私たちは、一定のかたちで擬人化して見がち、あるいは必ずそう見てしまう、という事実を思いだしてみよう。オークの樹の堅い枝が、その幹から直角に生えている。そうすると私たちには何となく、枝をその位置に保つのに非常に大きな力がかかっているように感じる。このとき私たちは、人間の腕を体に対して直角に維持している姿勢が優美ではないと感じ角と同じ感情になり、オークの樹も優美ではないと言うのだ。逆に、シダレヤナギの柔らかに垂れ下がる枝は、あまり力まなくていい体勢にある肢となんとなく連合しているために、優美という言葉はメタファーによってシダレヤナギの枝にも適用されるのだ。

 さて、ここでもう一つ簡単ではあるが次のような仮説を立ててみたい。他者が示す優美という観念の主観的基盤は、共感なのではないだろうか。私たちは危険な状態にある他人を見ると自分自身身震いしてしまうし、他人がもがいたり落下しているのを見ていると自分自身の四肢も動いてしまったりする。これを可能にしているのと同じ能力によって私たちは、自分を取りまく人々が経験しているあらゆる筋肉感覚に、おぼろげながら関与することになる。他人の運動が暴力的だったりぎこちなかったりすると、もし自分がその人だったなら感じていただろう不愉快な感覚と同じ感覚が、わずかではあるが感じられる。他方で、他人がくつろいでいる(easy)時、そこからは快い感覚が表出されており、その快い感情に私たちも共感するのだ。

コーエン『カントの経験の理論』のカント解釈 Poma (1997)

The Critical Philosophy of Hermann Cohen: LA Filosofia Critica Di Hermann Cohen (Suny Series in Jewish Philosophy)

The Critical Philosophy of Hermann Cohen: LA Filosofia Critica Di Hermann Cohen (Suny Series in Jewish Philosophy)

  • Andrea Poma. (1997). The Critical Philosophy of Hermann Cohen. Translated by John Denton. Albany, NY: State University of New York Press.
    • 1. The Interpretation of Kant

 コーエンの思想の背景としてまず新カント主義が取り上げられる。思弁的観念論の没落と唯物論の台頭の中、この両者に反対するものが、ヘルムホルツに代表されるような初期の生理学的な新カント主義だった。しかし生理学的新カント主義は、アプリオリを客観的現実の問題にしてしまっている点で唯物論と変わらないとコーエンは断じ、新たな道を探ることになる。そのキッカケとなったのがトレンデレンブルク-フィッシャー論争だった。コーエンは「トレンデレンブルクとクーノ・フィッシャーの論争への寄与」(1871)のなかで、カントの「根本思想」とはその批判的アプローチであり、哲学は形而上学とも心理学とも異なる批判的な学でなければならないと主張していた。ただしこの点の展開は後の著作に委ねるとされた。

 その著作が、『カントの経験の理論』(1871)だ。この本では、カントにおけるアプリオリの意味が3段階に整理されている。まず、事実として、全ての外的現象は空間の中で現れている。この意味で空間がアプリオリと言われるとき、それは「第一の源泉」という意味で使われている。しかしこの事実はいかにして可能になっているのか。カントの有名な回答は、空間性は外的感覚器官の形式であるというものだ。この文脈では、直観の「形式」という意味でアプリオリという語が使われている。カントの言う「形式」とは常に「現象の形式」のことなので、直観の形式とは、内容を捨象した直観作用それ自体、純粋直観のことを指す。しかし純粋直観というのは未だ〔心的作用からの〕抽象で、主観主義的に解釈される危険がある。そこで、アプリオリの第三の意味を明確にすべきだとコーエンは主張する。それが、「経験の可能性の形式的条件」だ。この意味において、アプリオリは主観性や生得性から完全に離れることができた。「以上の分類を踏まえれば、空間はアプリオリな直観だというのは次のことを意味している。空間とは経験の構成条件である」。
 この意味でのアプリオリは、超越論的感性論だけからでは理解できない。なぜなら、経験を構成する「総合」の作用や、総合による統一性付与のアプリオリな条件となるカテゴリーが見逃されるからだ。そこでコーエンは超越論的感性論を補完するものとして超越論的論理学に向かう。そこでカントはカテゴリーを判断表から導いており、カテゴリーのアプリオリ性はこの段階では心理過程に解消されてしまう。しかしこの段階は超越論的演繹によって乗り越えられ、アプリオリの形式的性格が強調されるようになるとコーエンは言う。カテゴリーのアプリオリ性とは、カテゴリーが経験の形式的条件だということなのだ。そして、経験とは多様が総合されることではじめて可能になるのだから、カテゴリーのアプリオリ性とは統覚の総合的統一に他ならない、と結論される。「空間が外的直観の形式であり、時間が内的直観の形式であるのと同じように、超越論的統覚はカテゴリーの形式である。自己意識とは、私たちが知性の純粋概念を生み出すための超越論的条件である」。こうしてカントの「超越論的自己」も、形而上学的な意味や人間学的意味がはぎ取られ、純粋な「超越論的条件」、あらゆる可能的経験の構成条件になる。
 このように、超越論的探究はまず現象の総合としての経験という事実から出発し、総合を可能にするアプリオリな条件を、感性と知性に遡及的に見いだす。従って、知性と感性の分離は分析による抽象化の産物で、本来両者は、内的感覚を媒介にして協同して経験を構成している。そこでこうした協同を扱っている『原則の分析論』と図式論こそが、超越論的なアプリオリに真の意味を与える場所だということになる。
 以上のようなアプリオリ理解により、コーエンは多くの問題に答えを与えられるようになった。まずトレンデレンブルクによるカント批判に対して。トレンデレンブルクの指摘は、客観的知識が成立するためには、空間と時間はカントが言うように主観の形式であるだけでなく、さらに対象の形式でもあり、かつ両形式のあいだに調和が成立していなければならない、というものだった。しかし〔空間と時間が主観の形式だというのはそれらがアプリオリだということであり、〕アプリオリだというのは、あらゆる可能な経験の構成条件だということなのだった。従って主観の形式である空間や時間は、同時に知識の対象をも構成しているのであって、〔トレンデレンブルクが指摘するような、客観的知識のためのさらなる要件は必要ない〕。
 次に、アプリオリなものの発見と正当化について。コーエンは、アプリオリなものを発見する超越論的探究が経験からはじまると認める。経験的演繹が前提となり、形而上学的演繹が続く。しかしアプリオリなものを正当化するのはあくまで超越論的演繹である。そこではカテゴリーが元々持っていた心理的意味、そして形而上学的意味が破棄され、可能な経験の形式的条件という完全な意味を得るのだ。
 物自体や理念については、『カントの経験の理論』初版時点のコーエンは、純粋に否定的な特徴づけを行い、最小限の還元主義的立場を採用している。この見解は後にさらなる展開を見せることになる。

 さて、コーエンはカントの根本思想を批判哲学に見ていたのだった。しかしコーエンの批判哲学理解を探るのに、『カントの経験の理論』初版は最適な本ではない。この本は第一批判の一部しか扱っていないし、またコーエン自身、本書の主たる目標はあくまでカントに対する反論への応答であって、批判哲学のさらなる展開のためには哲学史と自然科学の観点からカントを超えて行く必要を認めていた。とはいえしかし、本書から批判哲学の特徴を析出することは可能である。
 これはコーエンが生涯確信し続けた点だが、批判哲学の第一の根本的特徴はその「超越論的方法」にある。この方法は、三つの基本的ポイントに整理することができる。

  • (1)哲学は経験という「事実」からはじまる。これは経験主義から学ばれた点で、思弁的・演繹的形而上学から批判哲学を区別するものでもある。『カントの経験の理論』初版の時点では、経験とは自然科学と同一視されているが、後には文化の領域に拡張されていくことになる。
  • (2)哲学は経験の可能性の「非経験的な」原理を突き止めなければならない。これにより批判哲学は経験論と懐疑主義を超えていくことができる。
  • (3)そして、アプリオリなものは形而上学的実体としても生理学的器官としても実体化されてはならない。アプリオリとは、純粋に機能的ないし「形式的」な意味をもつ。

 さらに、批判哲学の第二のポイントは、総合としての知識という考え方にある。カントは、知識において感性が果たす役割を極めて重視し、アプリオリなものを知性だけでなく感性にも認めた。「知性が総合するというまさにそのことが、直観のアプリオリ性を要請する」。この点で超越論的観念論は経験的観念論から区別される。〔そして、アプリオリなものとは形式的なものなのだから、〕超越論的観念論とは形式的観念論なのであり、だからこそ経験的には実在論でありうるのだ。
 従って『カントの経験の理論』によれば、超越論的方法論と形式的観念論が批判哲学の2大特徴である。コーエンの後の著作では、超越論的方法論は中心的なものでありつづけるが、知識における感性の役割は後退していくことになる。また上述したが、『カントの経験の理論』での批判哲学理解は、体系性、物自体、理念などの扱いが不十分であり、これらの点も後の著作で展開されることになる。

シジウィックとショーペンハウアーの道徳哲学は似ている Macmillan (1898)

https://www.jstor.org/stable/2375591

  • Macmillan, Michael. (1898). Sidgwick and Schopenhauer on the Foundation of Morality. International Journal of Ethics, 8(4): 490–96.

 シジウィックの三大道徳原理に、正義・仁愛、賢慮がある。前2者をショーペンハウアーはカントの超越論的感性論から演繹している。現象のレベルでは、空間・時間の制約を受け個々の人間は個別の存在だが、実在のレベルでは世界は一なので、個々の人間を分けて考えるべきではない。ショーペンハウアーは賢慮の原理は擁護していない。だが、時間が現象にすぎないなら異なる時点の間に等しい考慮を払うのは当然だろう。ところでショーペンハウアーは道徳哲学の目的は利己主義を排することだと言うが、実在のレベルでは自己も他者も一だという認識に基づいて他者を助けるのは、ある種の利己主義ではないのか。ここで利己主義を、現象レベルでの利己主義と実在レベルでの利己主義に分けて考えよう。そして、利己主義は利己主義であるから悪だというわけではない。現象レベルの利己主義は正義と仁愛を犯すから悪なのであり、実在レベルの利己主義は悪ではない。

  ◇  ◇  ◇

 しかしここで2つ気になることがあります。まず、現象的レベルで個別化された自己と、実在レベルで単一の自己があるとき、道徳的に考慮にしなくてはならないのが後者だというのはどうしてなのでしょうか。そしてもう一つは、私たちの行為は全て現象なのですが、それによって実在レベルでの自己を考慮することは本当にできるのでしょうか。これはヘルバルトが、英知的自己は因果関係を超越しているのでそれに影響を及ぼすことができず、従って教育することができないと指摘したのと同じ問題です(Herbart 1804)。

自然主義的誤謬では退けられない主張 Kahane (2016)

Moral Brains: The Neuroscience of Morality (English Edition)

Moral Brains: The Neuroscience of Morality (English Edition)

  • Guy Kahane. (2016). Is, Ought, and the Brain. In S. M. Liao (ed.), Moral Brains: The Neuroscience of Morality, Oxford: Oxford University Press.
    • 2. Hume's law and naturalistic fallacy

 「我々は自然なことをなすべきだ」という主張を考えよう。このような主張は、ヒュームの法則ないし「自然主義的誤謬」によって、決定的に退けられるものだと考えられがちである。だがそれは誤解である。というのも、「自然なことをなすべき」というのは、正しいこと/不正なことに関する実質的な主張であり、ヒュームやムーアのメタ倫理的主張に必ずしも抵触しないからだ。たとえば、この主張は自明の真理でいかなる推論にも基づかないとされるなら、ヒュームの法則には抵触しない。また、この主張は正しさの意味にかんする主張ではなく、一定の行為に道徳的な正しさを帰属させているだけだと言われれば、自然主義的誤謬も犯していない。
 「我々は自然なことをなすべきだ」という真の見解の問題点は、ヒュームにもムーアにも関係ない。真の問題は、それが全くもっともらしくないーーつまり、反省を経ては維持できず、また文字通りとれば不条理が帰結するような倫理的見解だというところにある。戦争、疫病、暴力は全て自然である。もちろん、こうした帰結を避けるように「自然」の意味を洗練させていくことも可能である。しかし重要なのは、もっともらしさの問題は実質的問題であり、ヒュームやムーアのメタ倫理的論点とは必ずしも関係しないと言うことだ。

使用/言及区別、コミットメント、翻訳の不可能性 Derrida (1987)

ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス)

ユリシーズ グラモフォン―ジョイスに寄せるふたこと (叢書・ウニベルシタス)

  • Jaques Derrida (1987). Ulysse, Gramophone. Paris. Galilée. (合田正人・中真生訳『ユリシーズ グラモフォン:ジョイスに寄せるふたこと』, 法政大学出版局)
    • Ulysse, Gramophone, 1

 言語を使用する場合と言語に言及する場合で、関連するコミットメント(engagement)のありかたが異なる。使用の場合、まず使用という行為自体への(実践的な)コミットメントがあり、同時に内容に対するコミットメントがある。言及の場合には、言及という行為自体へのコミットメントはあるが、内容に対するコミットメントは保留されている。つまり、使用には行為のレベルと内容のレベルで二重のコミットメントがあるが、言及には行為のレベルのコミットメントしかない。

 そして、何かにコミットメントするということは、何かに署名すること、何かを肯定することだと考えられる。

 以上の点は、翻訳の不可能性の問題にかかわってくる。フランス語によって、フランス語の使用を肯定する内容をもつ主張をおこなうことを考えてみよう(『方法序説』末尾が例として挙げられる)。この主張を行なう者は、まず行為のレベルでフランス語の使用にコミットメントがある。同時に、主張内容であるフランス語の肯定にもコミットメントがある。従ってこの言明では、行為のレベルと内容のレベルの両方で、フランス語の使用が肯定されている。他方で、同じ言明を日本語に翻訳して主張したとしよう。すると、行為のレベルでコミットメントしているのは日本語の使用になってしまうため、フランス語の肯定は内容レベルにしか残らなくなってしまう。こうして、元の主張が持っていた二重の肯定というポイントが失われてしまった。従って、「ある言語の自己言及的な肯定は翻訳不可能」である。