えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

イタリア、ポルトガル、スペイン文学における自然描写 Humboldt (1847)[1849]

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※注はすべて要約者による

【目次】

初期イタリア詩人の自然描写

ダンテ

 [418-1] 古代世界が過ぎ去った後、新しい時代の偉大な創設者であるダンテ(1265–1321)のなかに、自然の魅力に対する感受性をときおり見出すことができる。

 『煉獄篇』には、朝の雰囲気や海にきらめく光の描写*1、わきたつ雲と川の増水の描写があり*2、また地上の楽園への入り口の木立は、ラヴェンナ近郊の松林を思い起こさせるものとして描かれる*3。この箇所の描写の現実への忠実さは、『天国篇』でのフィクショナルなきらめく川の描写と対照的である*4。[419-1] だがこの『天国篇』の光景も、輝く波しぶきが水面に広がって海をきらめく星の海に変える現象を念頭に書かれているように思われる。

ペトラルカ、ボイアルド、コロンナ、フラカストロ

 [419-2] イタリアでダンテについで挙げられるのは、ヴォクリューズの渓谷の印象を描写しているペトラルカ(1304–1374)のソネット、ボイアルド(1441–1494)の小さな詩、ヴィットリア・コロンナ(1492–1457)のスタンツァである。

 注:ボイアルドには「鬱蒼とした森よ、私の悲しみを聞いてくれ」とはじまるソネットがある*5。コロンナには、「千の花と香りに/飾られた地を見る時」とはじまる美しいスタンツァがある。またジローラモ・フラカストロ(1479–1553)は、ヴェローナ近郊の別荘の景色を素晴らしく描写し、また教訓詩の中でイタリアのレモン栽培についての心地よい節も残している。なおペトラルカは、ヴァントゥー山登攀のときも欧州各地への旅のときも、目の前の景色というよりはキケロやローマ詩人の作品の追憶の中に生きており、これは非常に残念である*6

ベンボ枢機卿

 [420-1] ギリシア人との交流によって古典文学は更に普及したが、その優れた精神の最も早いあらわれを、ピエトロ・ベンボ枢機卿(1470–1547)に見出すことができる。若いときに書かれた『エトナ対話』(1495)では、シチリアの豊かな穀物畑から雪に覆われたクレーターに至るまで、エトナ山の斜面の植生が生き生きと描写されている。壮年期の作品『ヴェネツィアの歴史』(1551)には、新大陸の気候や植生の更に絵画的な描写がある。

コロンブスの自然描写

熱帯世界の発見

  [420-2] この時期、人間の想像力は、突如広がった世界の境界と、それと同時に生じた人間の力の拡大という、偉大なイメージで満たされることになった。すなわちアメリカの発見が、十字軍に続く第二の、そしてより強力な影響をヨーロッパ諸民族に与えた。熱帯世界の平野の豊かな植物相、山脈の多種多様な生物、メキシコ、ヌエバ・グラナダ、キトなどの高地の北方を思わせる気候などが、ヨーロッパ人の目にはじめて映った。

 コロンブス(1451–1506)やヴェスプッチ(1454–1512)による自然描写のなかでは、二人の偉業を助けたであろう想像力が独特の魅力を放っている。オノリコ川はエデンの園から発していると信じたコロンブスには深く真摯な宗教感覚があった。[421-1]そしてそれは年を追うごとに、コロンブスが受けた仕打ちの影響もあって、憂鬱で病的な熱狂へと変わっていった。[420-2]またヴェスプッチのブラジルの描写は、古今の詩人への通暁を証ししている。

 [421-2] ポルトガルやカステリアを遠洋航海に駆り立てたのは黄金だけでなく、より一般的な冒険精神であった。遥か彼方の土地についての物語が若者の心を捉え、また近代文明が地球上のあらゆる箇所を接近可能にしたことも、遠洋航海へのあこがれを膨らませた。北方に発する自然研究への情熱はすべての人の胸に輝き、知識の増大をもたらす一方で、この時代特有の詩的・感傷的な感覚は、これまでにない形式の文学作品を生み出した。

コロンブスの自然描写

 [421-2] こうした現代的感覚を生み出した偉大な発見を振り返ってみると、コロンブスによる自然描写が特に注目される。コロンブスが自然に対して抱いた感覚、その描写、また[422-1]当時の言語に精通していないとわからない表現の美しさや簡潔さについては、すでに別の著作でも示そうとした(Examen Critique, iii)。

 [422-2] キューバ島の海岸でコロンブスの関心を引いたのは、 植物の相貌や形態、「どの葉、花がどの枝についているのかわからない」ほど入り組んだ茂み、バラ色のフラミンゴなどだった。先に進めば進むほど土地はどんどん美しくなっていくように感じられ、その甘美な印象を適切な言葉にできないとコロンブスはしばしば悔やんでいる。コロンブスは植物学には通じていなかったが、自然への愛に導かれ、未知の様々な形態を区別していった。たとえば、キューバ島だけで7〜8種類のヤシを区別している。

 [422-3] 〔以下、第一回の航海日誌から引用。*7〕「この土地の美しさは、コルドバのカンピーニャとも比べ物にならない。辺りの木々は青々としていて、草は高く伸びて花咲き乱れ、果実が一杯になっている。空気はカスティリャの四月のように暖かく、うぐいすが、ことばにできないほど美しい旋律で歌っている。夜にはまた、小鳥がやさしくさえずり、コオロギやカエルの鳴き声が聞こえる」。「ある入り江に入っていったが、[423-1] そこは非常に深い湾で、山は見たこと無い高さにそびえ、そこからは清流がいく筋も流れ落ちていた。どの山も、松の木や美しい花を咲かせる幾多の種類の木々におおわれていた」。「湾に注ぐ川を遡上すると、すがすがしい木立、すきとおった水、数々の鳥の声に驚かされた。まことに立ち去り難い思いで、ここで見た全てを報告するには舌が千枚あっても十分ではなく、またこれをそのまま記述する腕も持ち合わせていない、全く魔法にでもかかっているようだ」。

 [423-2] この無教養な船乗りの日誌から、個別に様々な形態をとる自然の美しさが、感受性の強い心にいかに強く影響を及ぼすかを学ぶことができる。感情が言葉を高貴にするのだ。コロンブスの文体は、とくにヴェラグアの海岸で夢を語る時(4回目航海)、雄弁とは言えないまでも、同じ時期の様々な牧歌*8より興味深い。

牧歌の退屈さ

 残念ながら、スペインとイタリア文学では、哀愁を帯びた牧歌的要素があまりにも長い間支配的であった。いかに偉大な詩人に書かれようとも、牧歌的ロマンスは本質的につめたく退屈である。個別的な観察だけが、自然に忠実な表現を生み出せるのだ*9。だからたとえばタッソー(1544–1595)の『イェルサレム解放』(1581)で最も優れた描写は、詩人がかつて身をおいたソレントの美しい光景を思い出している部分にある。

カモンイスの『ルジアダス』における自然描写

 [424-2] 観察された個別のものを忠実に描写する力は、ポルトガルの偉大な国民的叙事詩、ルイス・デ・カモンイス(1524–1580)の『ウズ・ルジアダス』(1572)で最も豊かに発揮されている。ここで、フリードリヒ・シュレーゲルの大胆な言、「カモンイスの『ルジアダス』は色彩と空想の豊かさでアリオストを遥かにしのぐ」をあえて裏付けようなどとは思わない。だが自然観察者の一人として付け加えるならば、カモンイスの熱意、修辞、メランコリックな調子は、物理現象の精確な描写を妨げるどころか、むしろ活き活きした感覚や描写の真実性を高めていると言える。

 カモンイスはまさに「海の画家」というべきで、『ルジアダス』には海の様々な様子の描写が豊富にある。一方には穏やかな波間にきらめく水面が描かれ*10、他方で荒々しく恐ろしい嵐の描写もある*11

 [425-1] カモンイスは兵士として、モロッコ帝国、アトラス山脈の麓、紅海、ペルシャ湾で闘い、喜望峰を二度回って*12、自然への深い愛から、インドおよび中国の海岸で現象を観察し続けた。たとえば、「船乗りが/神聖なものとする生きた光」*13であるセントエルモの火*14や、水上竜巻(ウォータースパウト)など*15。詩人の次の言葉は、現代にも当てはまるだろう。「この世界の隠された秘密を、書物で学ぶ人に説明させてみよ。この手合は理性と科学のみを信じて、経験のみを導き手とする船乗りの口から聞いたことを、すぐに誤りだと断言するのだから」*16

 [425-2] 詩人は個別の現象の描写に優れているだけなく、大規模な事象を一目で理解させる点でも際立っている。例えば『ルジアダス』の第三巻では、わずか数連のうちに、酷寒の北方から[426-1] 「ルシタニアの地、そしてヘラクレスが最後の功業なす海峡」*17に至るヨーロッパ全体の姿を、そこに住む諸民族の習俗や文明に絶えず言及しつつ描き出している。

 第十巻ではさらに視野が広がり、女神テテュスの導きで山に登ったヴァスコ・ダ・ガマは、〔天地創造の際に用いられた「世界の雛形」を眼にし、〕世界の仕組みや(プトレマイオスに従った)惑星の運行について知る*18。さらに、ヨーロッパだけでなく地球上の全ての部分が眺められ、セントクロスの島(ブラジル)やマゼランが見つけた海岸なども言及されている*19

 カモンイスは陸上の生命にはあまり関心がなかったようで、熱帯の植物[427-1]についての言及はほとんどない。この点コロンブスとは対照的である。ただし、コロンブスの日誌がその日その日の鮮やかな印象を書き留めたものであるのに対して、『ルジアダス』はあくまでポルトガル人の偉大な功績を称えるために書かれたという点を忘れてはいけない。音の調和を重視する詩人は、原住民から奇妙な植物名を借用したり、それを風景描写に織り込むことには乗り気ではなかったのだろう。

エルシーリャの『アラウカーナ』における自然描写

 [427-2] カモンイスと並び称されるスペインの兵士にして詩人がドン・アロンソ・エルシーリャ(1533-–1594)だ。その叙事詩『ラ・アラウカーナ』では、たしかに永遠の雪に覆われる火山、灼熱の渓谷、陸地に深く切り込む湾などが描かれているのだが、それらの描写はあまり視覚的ではない。

 セルバンテスはエルシーリャをおおげさに賞賛しているが、これはスペインとイタリアの文学上の対立から生じたものにすぎず、ヴォルテールを含む現代の批評家はそれに騙されていると思われる。『アラウカーナ』はたしかに崇高な民族的感情に貫かれた作品ではあるものの、[428-1]文体はなめらかでも簡素でもなく、固有名が多すぎ、詩的情熱にかけている(注:たとえば27歌には、8行からなる1スタンツァのなかに27もの固有名が出現している箇所がある*20)。

カルデロン

スペイン文学における詩的情熱

 だが、エルシーリャに欠けている詩的情熱を、〔スペイン文学では〕たとえばアウグスティン・デュランの編纂による『18世紀以前の騎士道ロマンスと歴史ロマンス』や、ルイス・デ・レオン(1527–1591)の著作にみることができる。(注:前者には、「あざやかな鳥も/黙り、大地が/川の音聞くとき」と始まる素晴らしい節がある)。[429–1] 後者は、美しい一夜に星空の永遠の光をたたえている。

カルデロン

 またそうした情熱はカルデロン(1600–1681)の著作にも見いだせる。ティークも述べるように、「スペイン喜劇の最盛期、カルデロンと同時代人の叙情的でロマネスクな詩のなかには、海、山、庭、森、渓谷などの目もくらむような美しい描写がしばしばある」。

 たとえば『人生は夢』(1635)では、囚われの身となったセヒスムンド王子が、その不幸を有機的自然の自由さと対比させている。すなわち「広い空を素早く羽ばたきゆく」鳥たちや、「砂泥から生じるや大洋を求め、その大胆な航路には海の無辺すら足りないかのごとき」魚たち。小川でさえも、草原を自由に進むことができる。そして王子は嘆く。「これらより大きな生気と自由な精神をもつ私が、しかしより小さな自由に甘んじなければならないとは!」。文体では劣るが、『不屈の王子』(1636)にも同様の表現がある。

シェイクスピア、ミルトン、トムソン

 カルデロンの例が示すように、[430-1]主に出来事、感情、性格を扱う劇詩においては、自然描写は人物の特性や感情を反映するものに過ぎない。実際、シェイクスピアもこの例にもれない。『真夏の夜の夢』には森での生活が、『ヴェニスの商人』の最後には夏の夜を照らす月光があるが、それらは直接的に描写されているわけではないのだ。

 ただし、ティークは次のように言っている*21。「しかし『リア王』には真の自然描写がある。気が触れていると思われるエドガーが盲目の父に対して、平原にいながらも、「自分たちはドーバーの崖っぷちに登っている」と告げる場面だ*22。眼下にみえる谷の深さの描写は、実際めまいをおぼえさせる」。[430-2]シェイクスピアでは、感情の内なる動きと言葉の偉大な簡潔さにより、自然表現に活き活きした真実と個性があたえられたのかもしれない。

 またミルトンの『失楽園』では、自然描写は絵画的というよりも壮大だが、楽園の豊かな描写に多くの想像力が注ぎ込まれている。しかし一般的に言えば、たとえばジェームズ・トムソン(1700–1748)の教訓詩『四季』(1739)のように、植物はより一般的であいまい形でしか描かれていなかった。なお同じく四季を主題に1500年以上前に古代インドで書かれたカーリダーサの『リトゥサンハーラ』(『四季のめぐり』)では、熱帯地域の豊富な植生を個別的に、また鮮やかに描いている。ただしトムソンの作品に見れるような、北部地域特有の季節のはっきりした変化からくる魅力は欠けている。

*1:「先へと逃げる未明に/夜明けは打ち勝っていき、とうとう遠くに/海のきらめきが見えた」(i,115, 原訳)

*2:「君もよく知るように、/あの湿った水蒸気が待機中に集まって/寒気がそれを取り込む高みの昇るや、すぐ水に戻ります。」(v. 109–111, 原訳)

*3:天国篇 xxvi, 1–24

*4:「すると私には、川の姿をした光が/赤みがかった黄金に輝き、驚くべき春の情景に/彩られた両岸に挟まれているのが見えた。/この川から生命の火花が飛び散り、/そして両岸で花々の中に飛び込むと、/さながら黄金に囲まれた紅玉のようだった/その後で、まるで香りに酔わされてしまったかかのように、/驚嘆すべき渦の流れの中に再び沈み込んでいく。/しかも、あるものが中に入っていっては別のものが外へと飛び出していく。」(xxx, 61–69, 原訳)

*5:Amorum Libri Tres〔『愛について、三篇』〕, 1499, ii, 47.

*6:ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの思想』はこのペトラルカ評価を批判している

*7:引用は日誌の12/13、11/25、11/27の記述をかなり自由に組み合わせたものになっており、描写されている場所は実際には3箇所である。ここではそれぞれの日に対応するように引用を3つに分割し、基本的には林屋訳に従いつつ、フンボルトの記述が大きく異なる部分のみ新たに訳した

*8:ボッカチオ、ヤコポ・サンナツァロ(Sannazaro)の『アーケイディア』 、フィリップ・シドニーの『アーケイディア』、ガルシラソ・ラ・ベガ(Garcilasso)の『サリーチオとネモローソ』(Salicio y Nemoroso)、ホルヘ・デ・モンタマヨールの『ディアナ物語』が挙げられている。

*9:牧歌はたしかに田園の様子を描くが、その姿は高度に理想化されている場合が多く、この点にフンボルトは不満を感じているのだと考えられる。

*10:「すでにかれらは大洋を渡っていった。/たちさわぐ波濤を左右に分けながら、/風は穏やかに呼吸していた。/へこんだ船の帆を膨らませながら、/海は白い泡で覆われていた。/そこを神聖な海水をきりつつ/へさきが突きすすんでいく、水面を/プロテウスの海獣がきっている。」(i. 19、小林、池上、岡村訳)

*11:vi, 71–82

*12:1550年と1553年に出国を希望する公文書が残っていることからの記述だと思われる。しかし実際は1550年には出国しておらず、カモンイスが喜望峰を回ったのは一度のみである。

*13:v, 18、小林、池上、岡村訳。

*14:悪天候時にマストの先が発光する現象。コロナ放電によるもの。

*15:iii, 7–21

*16:この引用はv. 22とv. 17を合成したものであるため、フンボルト自身の言葉に従って翻訳した。

*17:「そして〜」以下は独訳者Donnerがiii, 18につけた注からの引用。なおこの海峡はジブラルタル海峡のこと。

*18:「なか空に、一個の球体が見られ、/明るい光がそれを貫いていた〔......〕一様で完全に自立していて、/創造なされた原型と同じだ。〔......〕女神はかれにいった:ーー「わたしはここで/世界の雛形をおんみの目の前に/示します。おんみが今と将来/行くところ、望むものを知るために。/これが世界の大きなからくりなのだ。/これはエーテルと四大でできており、/始めもなければ終わりもない高くて/深い「知恵」によって作られたものだ。」」(x, 77–80、小林、池上、岡村訳)

*19:「だがいちばん広いところにおんみらも/朱木で知られる国をもつだろう。/それにサンタ・クルスの名をつけるだろう。/おんみらの最初の船が見付けるのだ。/おんみらのものとなるこの海べぞいに/さらに遠国を探しにゆくだろう、/マゼランが、まことにポルトガル人だ、/事業では、忠義ではその名にそむくが。」(x, 140、小林、池上、岡村訳)。なおこの箇所はポルトガル人が達成する偉業についての女神の予言になっており、ポルトガル人のブラジルへの到達はこの詩で描かれるガマの第一回航海よりも後である。

*20:固有名詞数は26だが、おそらく次の箇所だと思われる。「見よボニア、プロシア、リトゥアニア、/サマゴシア、ポドリアそしてロシアを。/ポロニア、シレシアとエルマニア。/モラビア、ボヘミア、アウストリア、ハンガリー、/コルバシア、モルダビア、トランシルバニア、/バラキア、ブルガリア、エスクラボニア、/マケドニア、ギリシア、モレア、/カンディア、キプロス、ロダスとイウデア」(吉田秀太郎訳、p. 216)

*21:未公刊の書簡から引用

*22:4幕6場