えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

免疫学と哲学 Anderson (2014)

http://www.jstor.org/stable/10.1086/678176

  • Anderson,W. (2014) Getting Ahead of One’s Self?: The Common Culture of Immunology and Philosophy, Isis, 105, pp. 606-616

 現代の哲学や社会思想はますます免疫学の概念を用いるようになってきている。しかし一方で、免疫学は〔哲学や〕社会思想によって権威づけられたものでもあった。免疫学をめぐっては「自然主義的誤謬」と「社会学的誤謬」が存在したのだ。

 まず〔後者、〕現代の免疫学の哲学的起源に着目しよう。免疫学はそもそものはじめから軍事メタファーにおおきく負っている。また50年代のフランク・マクファーレン・バーネットによる「自己免疫」の考案以来、免疫学は「自己」の科学となったのだが、この免疫的「自己」という思想にはホワイトヘッドが大きく影響していた。ホワイトヘッドは、当時バーネットが属するメルボルン大学の生物学コミュニティを席巻していた。彼のプロセス哲学では、自己とは〔実体ではなく〕流動的で生成するものである。『過程と実在』は、「自己経験」「自己生成」「自己変様」といった言葉にあふれている。現代の免疫学が哲学とその市場に依拠して作られていたなら、現代哲学が免疫学を参照する際いかなる自然的誤謬が犯されていると言えるのだろうか?

 80年代以降の哲学は身体化された自己を求めるようになっていた。AIDSの登場が機運となり、この動きのなかには免疫学が持ち込まれる。スローターダイクやハラウェイらは、固定した自他の境界を持たない流動的で柔軟で傷つきやすい身体を、免疫学の概念によって思考しようとしている。また90年代にはデリダが自己免疫を発見した。自己は自らと関係し自らと同一でありつづけるためには他者を受け入れなくてはならない(自己変様の可能性)。この点で「生きている自我は自己免疫的なのである」(デリダにとって自己免疫はポジティブな意味合いを持ちうる)。デリダは幽霊論や民主主義論においても「自己免疫の論理」に執心し、免疫概念による批評の領域を拡張した。またエスポジトも現代哲学における免疫の重要性を指摘し、自己やコミュニケーションについて免疫学の言葉で語っている。かくして、21世紀にはさまざまなものが免疫によって「自然化」されていくように思われる。

 しかし免疫学はどのくらい「自然」なのか。この学問は戦間期および冷戦期の知的文化を〔哲学や社会思想と〕共有しており、実際それによって免疫学は「自己の科学」となったのだった。厳格な免疫学者や科学哲学者は、免疫学内部の不適切な言語ーーより広い文脈での比喩的直観から出発するものーーを取り除こうとしてきた。逆に、哲学や社会思想の言語から比喩的な科学表現を追放する動きもあった。一方、デリダたちは自分の言語が拡大解釈的に見えるとわかりつつ言語を純化しない。それは、「自然主義的誤謬」の糾弾自体が自然と社会を二極化させる近代の誤謬であり、自分たちは共通の知的文化のうちにいるとわかっていたからだ。