- Fred Feldman (2010). What is This Thing called Happiness? Oxford University Press.
- 5 Whole Life Satisfaction concepts of Happiness
※要約者により大幅に再構成しています
様々な人生満足
幸福(Happiness)を人生に対する全体的な満足(Whole Life Satisfaction: WLS)として捉える見方〔※以下「WLS説」〕は、様々な哲学者によって提案されてきた(Brandt, Kekes, Nozick, Sumner, Tatarkiewicz, Telfer, von Wright)。この説は現在、哲学者にも心理学者にも人気がある。
WLS説は非常に多様な仕方で定式化されている。少なくとも6つの次元での区別が考えられる。
- (a) 評価の本性
WLSの評価は、様々な情報を考慮して下される判断でなければならないと考える人がいる。他方、人生全体に良い感情を抱いて(feel good)いればそれで十分だと言う人もいる(Telfer)。両方の要素を含むと言う人もいる(Brandt, Sumner)。
- (b) 評価の局面
幸福であるためには、人生の全ての局面(aspects)について満足している必要があると考える人がいる(Tatarkiewicz)。他方で、人生の重要な局面に満足していれば十分(Brandt, Sumner, Telfer)、さらには人生の何らかの局面への満足でも十分だと考える人もいる(Sumner)。
- (c) 評価は実際のものか、仮想的か
幸福であるためには、人生に満足しているという判断を実際に下す必要があるという立場がありうる(現実主義)。これに対し、人生に満足しているという判断を下すだろうという仮想的状態にあればそれで十分だという考え方(仮想主義)もありうる(Tatarkiewicz)。
- (d) 時間
幸福であるためには、過去、現在、未来のすべてを含む人生の時間的全体について満足している必要があるとする人がいる(Tatarkiewicz)。これに対し、現在の時点の人生について満足していれば良いという考え方や、過去および現在の人生について満足していれば良いという考え方もありうる。
- (e) 主観的か客観的か
人生に現実に起ったことと、当人が起こったと思っていることを区別することができる(Tatarkiewicz)。幸福であるためには前者について満足している必要があるという立場(客観主義)と、後者に満足していればいいという立場がありうる(主観主義)。
- (f) 認識的要求の強さ
私たちは人生に生じた様々なことについて、詳細な理解を持っている場合と、ごく表層的な理解しかしていない場合がありうる。幸福であるためには前者のような詳細な理解のうえでの満足が必要だという立場と、後者のような表層的な理解の上での満足でも十分だという立場がありうる。
これが6次元は互いに独立であり、組み合わせることで無数のWLS説を生むことができる。しかし、いずれの形式でもWLS説は誤りであることを以下で示す。
2つの予備的問題
WLS説にはまずもって2つの問題がある。
【不安定性の問題】
ある人が自分の人生は理想的だとある時点では判断するが、別の時点ではそう判断しない、ということがありうる。だが、ある人が幸福な人生を送っていたと同時に送っていなかった、というのは矛盾である。
※注12: Dienerらは、人生満足尺度が通時的安定性をもつことをこの尺度の望ましい性質だと言っている(Diener et al. 1985)。だが、幸福度が人生を通して安定していると考えられる独立の理由がないかぎり、この性質が望ましいとは考えがたい。
【はかなさ(lability)の問題】
経験的研究によれば、WLSに関する人の判断は、判断時の一見どうでもいい(trivial)事柄や文脈に影響される。例えば、天気、部屋の内装、質問者の魅力、小銭を拾ったことなどである。だがこれらの影響を受けた判断は間違っているように見える。直前に小銭を拾っただけで人が本当に人生全体により満足するようになるとは考えがたい。
しかしこれらの問題は真の問題ではない。理論を十分明確化してやれば防げるからだ。ここでは、「時点人生満足」(WLS at a moment)と「期間人生満足」(WLS during an interval)を区別しよう。ある時点でのWLSである「時点人生満足」を、一定期間で(何らかの形で)集計したものが、その期間の「期間人生満足」だと考えることができる。
このとき、時点によって異なるWLS判断が下されるという【不安定性の問題】は問題ではなくなる。異なる時点において「時点人生満足」が異なることは矛盾ではないからだ。また【はかなさの問題】についても、どうでもいい事柄に影響を受けたWLS判断を「間違っている」とする必要はない。人はその瞬間には確かに多少幸福になったのだと考えてもとくに問題はないからだ。
現実主義か仮想主義か
より重要な問題は、「時点人生満足」をどうやって決定するかだ。この点について、異なるバージョンのWLS説は異なる回答を持っているが、ここでは次のように議論する。
- いかなるバージョンのLWS説も、「現実主義」か「仮想主義」かのいずれかである(前提)
- そして、どちらの場合でも、幸福をWLSとして捉えるのはもっともらしくない。
- したがって、WLS説は全体としてもっともらしくない。
現実主義の問題
まず、WLSの評価は実際の(a)判断だという見解を考えよう。もしこの判断が人生の(d)すべての時間にかんして、(b)あらゆる局面について、(f)非常に詳細な理解のうえで、下されるべきものであるならば(Tatarkiewiczはこの見解をとっている)、そうした判断が現実的に不可能なことは明らかである。この場合、いかなる人も幸福ではないことになってしまう。
もちろん、判断への要求は緩めることが出来る。例えば、WLSの判断は人生の(d)全ての時間にかんして、(b)重要な局面について、(f)曖昧な理解のうえで、下されるべきものだとしよう。しかしこのように制約を緩めても、幸福であるために実際の判断が求められていることには変わりない。人間関係も仕事もうまく行っており、財産も十分ある人がパーティで楽しく歌っているとする(このような「浅薄な」例が気に入らない場合は適当な例に変えてよい)。この人は自分の人生について判断などしていない。しかしまさにこのために、現実主義的なWLS説によれば、この人は幸福ではないということになってしまう。だがこれは明らかに直観に反している。人は、自分の人生全体について何も判断していなくても、幸せな人生を送れるはずである。
WLSに必要な実際の評価は判断ではなく、より(a)情動的なものだとする見解ではどうか。たとえば、人は(ある時点で)これまでの人生に喜びを感じている程度だけ(その時点で)幸福であるという見解(Telfer)を考えよう。しかしこの見解でもまだ要求過多である。何かに喜びを感じるには、少なくともそれについて考えていなければならない。だが、たとえば何かに没頭している人は人生について考えていない。人は人生全体について考えたり喜んだりしていなくても、幸福な人生を送れるはずである。
仮想主義の問題
では仮想主義ならばどうか。これはつまり、ある人のある時点での幸福度は、その時点で人生全体について下されるであろう判断に応じて決まる、という見解になる。ここでは、人生満足をどのように尋ねるかという問題は脇におき、ある人の時点人生満足の真値が得られると仮定しておこう。だがこの値は幸福とどのような関係にあるのだろうか。
自分の人生や理想について反省することは、人の情動状態にネガティヴ・ポジティヴ両面で影響を与えうる。上述のパーティ参加者は、もし人生満足について反省すれば、おそらく落ちこんだ状態になるだろう。したがって、この人の仮想的判断が与える時点人生満足度は、第三者の観察者が与える人生満足度よりも低く出るだろう。逆に、常に陰鬱な状態にある人が、人生や理想について聞かれた場合、自分の人生はそう悪いものではないと判断することもありうる。このように、仮想的な人生満足判断から得られる値というのは、私たちが通常「幸福」と呼ぶものにあまりうまく対応していない。
哲学者の中には、人が最善の認識的理想状態において判断する人生満足度が幸福を定義すると考える人がいる。ここで、自分の人生が置かれた状況について無知であるがゆえに(言葉の普通の意味において)非常に幸福であるような人がいるとしよう(「無知は幸福である」("Ignorance is biliss"))。認識的理想状況からの判断では、この人は「不幸」だということになるだろう。しかしこの結論は、私たちが問題としたいこと〔(言葉の通常の意味における)幸福とは何か〕とは関係がない。この人が幸福なのは事実であり、そしてそれは無知に部分的に依存している。従って、仮想主義的なLMSが生み出す幸福度は的はずれなのである。