えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為を可能にすることの責任 Uniacke 2013

https://www.jstor.org/stable/j.ctt5hgz15.15?seq=1#metadata_info_tab_contents

  • Suzanne Uniacke (2013). The Doctrine of Double Effect and the Ethics of Dual Use. In Brian Rappert and Michael J. Selgelid (eds.) On the Dual Use of Science and Ethics: Principles, Practices, and Prospects.

 行為には、その意図された結果と、意図されてはいないが予見される結果がある。意図された結果は悪くないが予見された悪い結果をもつ行為について、いくつかの条件の下でそれを許容可能とするのが、二重結果の原理である。デュアルユースジレンマは、まさしくこの原理の適用例であるようにみえる(Briggle 2005)。このジレンマは、ある活動に、意図された良い使用法と、悪用の可能性の、両方がある場合に生じるものだからだ。

 しかし、典型的な二重結果状況とデュアルユーズジレンマ状況には重要な違いがある。典型的な二重結果状況では、悪い結果はほぼ不可避的に生じる。他方で典型的なデュアルユースの場合、悪用がどのくらいの生じそうかが明確にはわからない(認識論的な困難)。悪い結果が不可避でないというのは、二重結果原理の適用にとって重要である。というのも二重結果原理は、もし悪い結果を生じさせずに同じ行為ができるなら、そうすべきだと指示するからだ。

 デュアルユース状況で認識論的困難が生じるのは、悪用を行うのが他人だからだ。しかし他人の行為の可能性を真剣に考慮し、その悪を防がなければならない責任が、私たちにあるのだろうか。ここでは、次の2条件が満たされる場合にはその責任があると提案したい。

  • 1: 自分の行為の時点で、別の人がその結果をもたらすことを合理的に予見できる
  • 2: 私の行為は、悪い結果をもたらす手段ないし機会を、誰かに対して与えている

これまでのデュアルユースジレンマをめぐる議論は、(1) の予見可能性に注目してきた。しかしデュアルユースジレンマ状況では、(2) の遂行可能性 (enabling) も大きな問題となる。たとえ悪い結果が他の人の手を介して生じたとしても、その行為を可能にしたのが自分の行為であるならば、その点で特に私だけにかかわる(行為者相対的な)責任が発生する。これは、単に「悪い結果を予見できたのに防がなかった」という一般的責任より大きなものである。

 このように、デュアルユースを倫理的に適切に評価するには、予見可能性に加え遂行可能性をも考慮しなければならない。ただし、この評価にあたって、本当に二重結果原理に訴える必要があるのかと懐疑的になることもできるだろう。