えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ジョセフ・バトラーの倫理理論 Broad (1930)

Five Types of Ethical Theory (International Library of Philosophy Book 2) (English Edition)

Five Types of Ethical Theory (International Library of Philosophy Book 2) (English Edition)

  • Charlie Dunbar Broad (1930). Five Types of Ethical Theory. London: Routledge & Kegan Paul.
    • Chapter III Butler

 バトラーの倫理理論は『人間本性にかんする説教』と『徳の本性にかんする論考』に収められている。前者の説教はロンドンのロール協会で述べられたもので、後者の論考は有名な『宗教の類推』の補論として書かれたものだ。バトラーの考えはスピノザと正反対で、著名な書き手の中でこの二人ほど似ていない人物を見つけることはできない域に達している。逆に、本書で扱う中でバトラーに最も似ているのはカントで、またヒュームも、バトラーによる心理的利己主義の論駁を受け入れ高く買っている。バトラーはもちろん、カントのような巨大な形而上学者ではないが、かわりに明晰さとバランス感覚に優れていた。カントは小綺麗な論理的分類に妄執し道徳にも狂信的だったために、その著作が損なわれてしまっている。これに対してバトラーは、18世紀の僧正らしいしっかりとした常識と清々しい分別を備えていた。彼は、私たちが誰でも熟知している事実を、誰でも理解できる言語で書き示すことができた。だからその著作は、倫理学の全方面をカバーしたものには見えないが、しかし既存の主題に対する最善の導入になっているのだ。

 さてはじめに、バトラーが生きた時代の倫理的及び宗教的な雰囲気について一言述べておこう。バトラーの議論は、こうした雰囲気に大きく影響されながら定式化されているからだ。当時のキリスト教は休眠期のひとつにあたっており、イングランドでは歴史上ほぼ最低調であった。もちろんバトラーの時代以降、キリスト教に対する深刻な攻撃は数多くあったが、(外部からの観察者として言わせていただくと、)キリスト教は当時よりも今のほうがはるかに活発である。17世紀の神学的興奮も過ぎ去り、宗教は休眠期にあって、18世紀後半に起こる再興の時を待っている、そんな状況だった。『類推』の冒頭でバトラーは言っている。

キリスト教はほとんど探求に値する対象ではない。そんなことが、多くの人々のあいだで常識になってきています。今日、キリスト教はほとんどにせものであることが明らかだ、と思われているのです。このことは、ものの分かった現代人なら誰もが同意するかのようにみなされており、残っているものといえば、キリスト教を笑いと冷やかしの種にすることだけ。長いあいだこの世の快楽を妨げてきた報いを受けている、というわけです。

ひるがえって現代、「ものの分かった」人が宗教とくにキリスト教に対して向ける態度は、バトラーが述べたようなものではまったくない。たしかにそういう手合いを見かけることもあるが、そういう人は古臭くて珍妙な18世紀の生き残り、自分は勇敢な進歩思想家だなどと芯から信じており思わず笑ってしまうような方々だ。

 バトラーの時代にはまた、無私の行為を否定することも流行していた。こうした否定はホッブズによって思弁的な原理にもなっていたが、とにかく常に一定の支持を得てきた。なるほど、表面上はそれなりに正しく見えないこともないし、自分自身の利己性に哲学的な弁解を与えたい悪徳人にも、また自分の徳にいささか恥ずかしさを感じており普通だと思われたい立派な人にも、人気がでるのは自然だ。この否定をもっともらしく見せている言葉の曖昧さを明確かつ決定的に指摘したのが、バトラーの偉大な功績の一つである。無私の行為の否定は、心理にかんする説としては、バトラーによって殺されてしまった。とはいえそれは、私の見るところでは、ブックメーカーのあいだに、また若くて賢しらなビジネスマンのあいだにも広まっている。こうした人々は、世界の暗い側面に精通することで世界を知ったなどと主張しているわけだ。この理論はバトラーの時代には、社会的により上流で知的なサークルの人々に影響していたため、哲学者も今日よりも遥かに真剣にこれに取りくまねばならなかった。当時と今の状況の変化は、おおむねバトラーの著作に由来している。彼はこの説をあまりに徹底的に殺してしまったので、現代の目から見るとまるで死人にムチを打っているように感じられることさえある。しかし様々な誤りは死後しぶとくもアメリカに渡り、当地の教授方の最新の発見として息を吹き返すようになってしまった。そこで、バトラーによる論駁を常に手元においておくことは、いつでも役に立つのだ。

 このあたりの前置きを踏まえて、バトラーの理論全体の検討に入っていこう。バトラーの主な美点は、道徳心理学者としての側面にある。優れた人々がどのように感じ、行為し、判断するか、本人ではうまく言うことができないその原理を、バトラーはこれ以上なく明晰に述べる。そして論述の中で、常識に自然と生じることはないが、学ある人にそそのかされると常識のみでは対処できないような様々なもっともらしい誤りが論駁されていく。バトラーの根本的な教説は、人間精神とは様々に異なる性向と原理が組織化されたシステムであるというものだ。ただし、様々な性向と原理を列挙するだけでは十分でなく、それらの関係まで述べることが必要である。時計を見て、それがぜんまい、歯車、針などから成ると言っただけでは、時計を適切に記述したことにはならないだろう。また英国の体制について、それが王、貴族、人民から成ると言っただけでは適切な記述ではないだろう。時計の本性を理解するためには、ゼンマイによって歯車が回り、歯車をテン輪がコントロールしており、そしてそうした配置全体の目的は時間を測ることだ、などと知らなければならない。同様に、英国の体制を理解するには、王、貴族、人民の正確な役割と相互の関係を知らなければならない。

 人間本性を時計や政体と比較したのはバトラー自身だ。人間本性はなんのためにあるのか、そして様々な原理と性向それぞれの機能と相互の関係を理解しなければ、人間本性を理解したことにはならない。バトラーによれば、こうした原理・性向のうち内在的に悪なものは一つもない。悪行はつねに、何らかの行為の原理の過剰ないし不適切なはたらきによって生じるのであり、そうした原理も適切な場所で適切な程度用いられれば正しいものとなる。悪行とは、ゼンマイの力がテン輪に対して強すぎる時計や、あるいは、一つの身分が他の身分の機能を不当に奪っている体制に似ている。そこで、道徳的存在としての人間にとって本質的なことは、それが様々な傾向が階層的に配置された複雑な全体だということだ。そうした傾向には、一定の適切な割合と、適切な支配関係がある。しかし、時計や政体にうまくはたらかない場合があるように、人間にもうまくいかない場合がある。そこで重要なのは、様々な傾向の実際の相対的な強さと、あるべき強さとを区別することだ。後者を「道徳的権威」と呼べるだろう。ときには、より高次の道徳的権威を持った原理が、より低い権威しか持たない原理に、心理的な意味での力の強さで負けてしまう。そのとき人は、不正な行為をしてしまうだろう。行為、さらには意図の正しさと不正は、それを要因として含む体系全体との関係で見たとき初めて判断できる。例えば私たちは、同じ行為や意図について、それが子供のものか、狂人のものか、正気な大人のものかで、非常に異なった判断をくだす。また私たちは、時計に生じていたら時計が台無しになってしまうような不規則性が自動車に生じたとしても、それで自動車を責めたりしない。というのは、時計と自動車とは全く異なる機能を持った別のシステムだからだ。現実の自動車にかんする判断は、その挙動を理想的自動車の挙動と比較することでくだされなければならないのであり、このことは現実の時計と理想的な時計の場合も言える。

 こうした考えかたはプラトンの『国家』にまで遡れるが、ともかくバトラーの考えが非常に健全で理解しやすいということはすぐに分かると思う。ところで理論の表現という点でいうとバトラー自身は、徳とは人の本性に従った行為に存し、悪徳は本性に反する行為に存する、という言い方を選んでいる。だが、「本性」(自然)・「本性に反する」(不自然)という言葉の使用はあまり好ましくないと思う。というのも、こうした言葉はあまりに曖昧で、個人的な好き・嫌いに道徳的権威をまとわせようとする人々によってよく用いられているからだ。もちろんバトラーも、自然という言葉に曖昧さがあることはよく理解しており、ある意味では、人は自分の本性に反して行為することはできないと認めている。さて、私の考えでは、バトラーの理論は次のように表現したほうがよい。すなわち、徳とは人の理想的本性に従った行為に存し、悪徳は理想的本性に反する行為に存する。実際の人の本性はどれも理想的本性ではないが、このことは特段の問題ではない。というのも、現実の時計はどれも完璧ではないが、完璧な時計というものを概念的に思考することは可能だからだ。実際、科学というのはそうした理想化された概念を多用している。たとえば、完全に真っ直ぐな線、完全な円、完全な気体〔理想気体〕といったもので、こうしたものはもちろん自然の中には存在しない。

 理想的人間本性という概念が妥当ないし有用であるかどうかを確かめるためには、そもそもこうした理想的概念がどうやって獲得されるかを検討しなくてはならない。こうした概念を獲得する方法は2つあると考えられる。〔まず1つ目。〕完全な時計という概念を形成するにあたって、私たちはまず時計とはなんのためにあるのかについての知識から出発する。時計とは、時間を告げるためにある。そこで完全な時計とは、完璧な正確さで時間を告げる時計であろう。この基準が人間にも適用できるかのようにバトラーは語ることが多いのだが、それが正しいとは私には思えない。人間がなんのためにあるのか、という問いは、それが神によって一定の目的で創造されたと仮定しない限り意味を成さないだろう。また、仮に神による創造は確かだとしても、事態は改善しない。というのも私たちはその目的が何なのか知らないからである。そこで理想的概念に至る第二の方法であるが、これは完全な円や直線の例によって示される。いま、ケーキ、ビスケット、硬貨といったものが目の前にあるとしよう。この光景に反省を加えてみると、ケーキ、ビスケット、硬貨というのは一つの系列をなしており、ある特定の属性がこの順でますます完全に実現されていることに気がつく。そしてこの系列の理想的極限として、完全な円という概念が形成されるのだ。このように、系列をなす不完全な事例たちに反省を加えることで、円や直線といった理想的極限の概念を得ることができる。そしてここでは、ある対象がなんのためにあるのか、などということを知る必要はない。理想的時計と理想的円の中間にあり、バトラーの議論上必要なものに〔理想的円よりも〕近いのは、理想的馬やウサギといった生物学者の概念だろう。現実の馬は、どれもが様々な点でまた様々な程度で欠けたところがあるが、様々な馬を比較対照することで、理想的馬の概念を手に入れることができる。自然は常にこうした理念を求めているが常にその理念的極限にいくらか届いていない、という言は、たしかに擬人的で文字通り受け取るべきではないのだが、しかし何らかの仕方で重要な事実に対応している。

 さて、こうした理想的極限について、3点指摘しておきたい。

  • 1. 一般に、こうした系列の下の方の極限はない。つまり、完璧な直線という概念は存在するが、完璧に曲がった線という概念は存在しない。
  • 2. 理想的極限の概念を形成するさい、それが分析可能なときとそうでないときがある。「丸さ」(circularity)というのは定義可能だが、「真っ直ぐさ」(straightness)というのは定義できない。それでも、両者の意味を私たちは等しく理解することができる。
  • 3. 理想的極限の概念を手に入れるためには、私たちは系列に対して反省を加え、その系列の要素が高次になるにつれて、常に不完全にではあるがますます適切に実現される特徴があることを認識できなくてはならない。

 以上の3点は、理想的人間本性という概念の形成にあたっても全く同じように当てはまると思われる。

  • 1. 完璧に曲がった線という概念がないように、完璧に悪い人という概念は存在しない。
  • 2. 現実の人間を一系列に並べて反省を加えると、誰も正確には実現してはいない理想にしかし徐々に近似していくことがわかるだろう。ただしそれは、その理想を完全に分析し定義できるということではない。私の考えでは、バトラーなら次のように言うだろう。私たちは理念の大まかな輪郭を示すことはできるが、正確な細部を示すことはできない。この理念には、諸々の特殊な衝動を賢慮や仁愛といったより一般的な原理に充足させることがたしかに含まれるだろう。またそうした一般的原理を、良心という最高原理に従属させることも含まれる、と。しかしながら、理想的人間の中で衝動がどのていど自由に生じるのか、賢慮と仁愛が衝突したときどうやって折り合いをつけるのか、といった点についてバトラーは何も語っていない。おそらく、誰もそれを言うことはできないのであろう。しかし、こうした細部の曖昧さは、理想的人間という概念を理解不可能で役立たずのものにしてしまうわけではない。
  • 3. 行為や性格について反省し、それを道徳的価値の観点から比較することができないならば、私たちが理想的人間という概念を形成することはないとバトラーは言うだろう。道徳的価値は、あきらかに、非常に特異な性質であり、〔倫理学〕以外の科学によって考察されるものではない。そこで、物理学における理想気体や、幾何学における理想的な円を「純粋に実証的な理念」とよび、倫理学で考察される理想的人間本性と対比することができる。道徳的価値という特異な性質を認識する能力というのは、しかし私たちがふつうにもっており、いつも使っているものだ。これはバトラーの言う良心の認知的側面にあたる。

 以上の説明を踏まえたうえで私は、理想的人間本性というバトラーの考え方は健全であるし、また、徳は人間本性にしたがって行為するところに存し、悪徳はそれに反して行為するところに存する、というのも真理であると思われる。

 それでは、人間本性の成り立ちについてバトラーがどう考えていたのか、さらに詳細に検討していこう。人間の中には、4種類の性向ないし行為への弾み(spring)があるという。

  • 1. 「特殊な情念ないし感情(passions or affections)」。これは、特定の種類の対象へ向かう衝動、ないしそれを避ける嫌悪とも呼ぶべきものだ。例として、空腹、性欲、怒り、嫉妬、同情などを挙げることができる。このなかにはあきらかに主に本人を益するものと他人を益するものの双方があるが、前者を自愛に、後者を仁愛に還元することはできない。これはバトラーの非常に重要な考え方なので、後でより詳しく扱う。
  • 2. 冷静な自愛の原理。この言葉でバトラーが意味しているのは、人生の全体にわたって、自分にとっての最大幸福を追求しようとする傾向のことだ。これは本質的には合理的な計算の原理であり、個別の衝動をチェックして、長期的に見た全体的幸福を最大化するように調節するものである。
  • 3. 仁愛という一般原理。これもまた合理的な計算の原理であり、苦境にある人を見たときに感じる衝動的な同情とははっきり区別しなければならない。個々人の顔を見ることなく、合理的な図式にのっとって一般的幸福を最大化するのがこの原理だ。ロンドン慈善組織協会はバトラーの意味で仁愛〔=慈善〕的な団体だと言っていいと思う。
  • 4. 良心の原理。権威の点でその他すべてに優越する原理である。理想的人間本性においては、良心が自愛と仁愛に優越している。つまり、後者2原理がどの程度適用されるべきかを定めているのが良心である。翻って、自愛と仁愛は個々の衝動に優越している。つまり、衝動がいつ、どの程度満たされるべきかを定めている。現実の人間の場合、自愛が良心を上回ってしまい、仁愛が犠牲になってしまう場合がある。この時私たちは冷たく利己的な人間になる。他方で、仁愛が良心を上回ってしまい、適切な賢慮を犠牲にしてしまう場合もある。このとき人は、自身の文化を否定したり、全体的な福利を得るために当然もってよいはずの健康や幸福のことを気にかけなくなってしまう。この両方が不正に当たるとバトラーは考えている。実際問題としては、私たちは原則的に後者を前者のようには責めないが、冷静に反省した上でならやはり後者も一定程度は責めている。愚かにも慈悲深い人を冷淡に利己的である人よりも責めない理由の一部は、それがあまり生じないからであり、また、十分仁愛的でない人が多い中では仁愛的過ぎる人がある程度いたほうがおそらく社会の利益になるからだろう。この点はバトラー自身が述べたものではないが、彼はおそらく同意してくれると思う。というのも、個人の誤った行動が全体の善のために管区によって抑制されることもあると彼は考えていたからだ。

 個別の衝動も、自愛、仁愛、ないし両者に対して、強くなりすぎる場合がある。たとえば復讐心は、自愛にも仁愛にも適わない行為に人を駆り立てることがあるし、歯止めのない同情も同じことをもたらすだろう。後者の場合、人は自分の情動たまたま訴えかけてきた事例に対してあるべき以上のものを過剰に与えてしまい、と同時に、あまり目立たないが本来はもっと与えられてしかるべき事例を無視することになり、その分賢慮をおろそかにしてしまう。バトラーは、世界には自愛があまりにも少なすぎるという極めて正しい見解を残している。必要なのは、自愛を減らすことではなく、仁愛を増やすことなのだ。自愛は、プライド、嫉妬心、怒りといった個別の衝動によって絶えず上回られており、これは個々人の幸せにとっても、社会全体の福利にとっても破滅的である。実のところ、自愛とは行為の適切な原理ではない。しかし、少なくとも一応は合理的で整合的である。人々の行為が一貫して自愛に従い、同情や感激の快について適切に考慮し、これをプライド、怒り、色欲に対して適切に重みづけてやれば、人々の外的な行為は仁愛が命じるだろうものとそう大きくは違ってこないだろう。この見解は私には完全に正しいと思われる。他人に対してもっとも破滅的な行為というのは、ほとんどの場合、自分の幸福を最大化しようと冷静に考える人であれば、夢にも思わないものばかりなのだ。この論点をほぼ完ぺきに例示してくれるものとして、フランスが1914年から18年の戦争〔第一次世界大戦〕以来ドイツに向けた態度を挙げることができる。ここでフランスは明らかに、両国にとって最大の不便をもたらすように動いていた。もしフランスが、悪意と盲目の恐怖ではなく、筋の通った自己利益のためだけに行為していたとしたら、両国とも、またその他すべての国も、現在もっとよい状態にあったはずだ。

 ということで理想的人間本性では、個々の衝動が自愛と仁愛にきちんと従属しており、自愛と仁愛は良心という最高原理にきちんと従属している。この考えは、ひとまずのところでは完璧に正しいと私は考える。そこでここからは、人間本性を構成する個々の要素についてより詳細に見ていくことにしよう。

1. 個別の衝動

 バトラーの最初の課題は、個別の衝動は自愛には還元できないと示すことにあった。バトラー以前も以後も、こうした還元が可能だと考えるものは多い。しかし、この点でバトラーの方が正しいことを理解するのは簡単だ。自愛の対象は、人生全体にわたる自身の最大の幸せである。これに対して復讐心の対象は、自分を傷つけたと考えられる人を痛い目に合わせることであり、また同情の対象は、他の人に快を与えるところにある。こうした個別の衝動はそれぞれ個別の対象を持っているのだが、自愛には自身の最大の幸せという一般的な対象があるのだ。繰り返しになるが、個別の衝動は自愛と衝突することがよくあり、このことは私たちが称賛しがちな人にも非難しがちな人にも起こる。またこれは単に知性の問題、すなわち、何が私たちを幸せにするのかを間違えることから生じるというものでもない。激怒や親心といった強烈な個別衝動のもとにある人は、自分でも賢明ではないと分かっている行為をしてしまうものだからだ。

 バトラーはある注のなかで、ホッブズによる「憐み」の定義を検討している。すなわち「憐み」とは、「他人の苦痛を見たとき自身に感じられる不安」だとされる。この定義に対する論駁はあまりに短すぎるが非常に破壊的なので、哲学的な推論の一つのモデルとして、実質を補うかたちで提示してみよう。バトラーは次の点を指摘している。

  • 1. ホッブズの定義によると、同情的な人とは、事実上、自身の安全に対して神経質な人であるから、人は同情的になればなるほど臆病になる。これは明らかに事実に反している。
  • 2. 苦痛に対して同情的な人を私たちは称賛するが、自分の安全に対して神経質なほど不安がりな人を称賛することは決してない。しかしホッブズが正しいなら、同情に対する称賛が臆病さに対する称賛を含むことになってしまう。
  • 3. 私たちは友人の問題についてはとりわけ同情しがちだという事実をホッブズはとりあげ、これを説明しようとしている。しかしホッブズの定義によればこの事実が意味するのは、私たちは友人の苦痛を見ると自分たちの方でもより神経質になるということだ。しかしそもそも、苦痛を感じている友人を見るときの方が同じ状況にある見知らぬ人を見る時よりも神経質になるかどうかは全く明らかなことではない。他方で、見知らぬ人の苦痛より他人の苦痛により同情するというのはきわめて確かである。したがって、同情はホッブズの言うようなものではありえない。バトラー自身の考えでは、苦しんでいる人を見るとき私たちの心の状態は3つの状態が混交したものである。第一は、本物の同情、すなわち、その人の痛みを和らげたいという直接的衝動である。第二は、自分の幸運と相手の不運の差に対するありがたさ。そして第三が、ホッブズが言ったような、自分の今後に対する不安の感じである。これら3つは場合によって様々な程度で混ざりあっており、場合によっては完全に欠けているときもある。だが、人が「同情」ないし「憐み」という語で意味しているのは、第一の要素だけなのだ。

 ホッブズの憐み理論に対して、バトラーは全く正しい意見を述べている。バトラーによれば、この種の誤りは哲学者特有のものだ。ホッブズは、全ての行為は必然的に利己的でしかありえないという一般的な哲学的理論を持っているために、例外に見える憐みを理論の方に合わせていく必要に迫られた。そしてここで、常識との明らかな衝突が発生してしまうのである。ただし、衝突それ自体は、哲学よりも常識を支持する理由にはならない、と私としては言っておかなければならない。もちろん、常識が正しく哲学者が誤っているということはある。しかし常識は、ホッブズが間違っていると感じるだけであって、なぜ間違っているのかを言うことは全くできない。せいぜい相手を中傷するのが関の山だろう。悪い哲学に対する治療法は良い哲学しかない。単に常識に戻るだけでは手当にはならないのだ。

 ホッブズの話はこのくらいにして、 個別の衝動と自愛の関係という一般的な問題の方に戻ろう。空腹、復讐心、同情といった個別の衝動を自愛に還元するのがもっともらしく見えるのはなぜなのだろうか。バトラーの指摘によれば、原因は2つの混乱である。

  • 1.衝動の対象と所有者の混乱。全ての衝動は、その対象が何であれ、私たちがもつ衝動である。衝動はすべて、自己に属している。このことは、他人に向けられた衝動である同情についても言えるし、自分の状態を変化させることに向けられた空腹についても言える。
  • 2. さらに、どの衝動の充足も私の充足である。私がもつ欲求が貪欲であろうと悪意であろうと哀れみであろうと、それが充足されたならば私は快を得る。

 全ての衝動はある自己に属しており、衝動が発散されればその自己に快をもたらす。これは全く正しい。しかし、全ての衝動が、その所有者の状態を対象としているというのは正しくない。同情も悪意も、その向かう先は、それらを持つ自己の幸せを生み出すことではない。同情は他人の幸せを生み出すことに向けられているのであり、悪意は他人の不幸せを生み出すことに向けられているのだ。したがって、衝動と自愛のあいだに本質的な反対関係は存在しない。私の衝動の充足は私に快をもたらすから、それは私の全体的幸せに関連する一要因であり、そして私の全体的幸せこそ自愛の向かうものである。そして自愛が自身の目標を達成するためにできることは、様々な特殊な衝動が行為に至るのを許可してやることしかない。しかしながら、逆に、いかなる衝動も自愛と同一視することはできない。個別の衝動と自愛との関係は、手段と目的の関係であり、あるいは素材と完成品の関係である。

 以上の論点は全て正しくまた重要である。しかし、議論をより十分なものにするためには、バトラーが指摘していないいくつかの区別をさらに設けることが必要だと私には思われる。すなわちまず、(i)事前に存在していた欲求の充足に存する快と、そうではない快だ。一定の感覚は内在的に快い(スミレの匂いや砂糖の味など)が、別の感覚は内在的に不快である(硫化水素の匂いや焼けただれた感じなど)。つまりここで、内在的な快苦と、衝動の充足・未充足に起因する快苦を区別しなければならない。あらゆる衝動の充足は、少なくともその充足の瞬間は快であり、どの衝動もその未充足が続くと不快である。この種の快苦は、衝動の対象とはまったく独立に生じる。そこで、今区別した二種の快と苦はさまざまなかたちで組み合わされうる。たとえば、おなかがすいていたところで、とてもおいしいものを食べたとしよう。ここで私は、味の持つ内在的に快い感覚と、空腹が満たされたことによる快の、両方を得る。船が難破して〔岸に打ち上げられた〕乗組員は、腐った肉を見つけたりキャビンボーイを食べたりすることで、空腹が満たされた快を得るが、味の点では内在的に不快な感覚がそこに伴ってくる。長い夕食の時間を終えようとしている美食家は、セイボリーから内在的に快い味の感覚を得るかもしれないが、もう満腹なので空腹が満たされた快は得ないだろう。

 (ii)第二に、衝動の対象、衝動を駆り立てた原因、実際に衝動を充足させるもの、充足に付随する効果、を区別するべきだ。バトラーは、空腹と同情を一緒に扱って、前者の対象は食べ物であり、後者の対象は仲間の苦痛だ、と論じている。しかし、まず「空腹」(hunger)というのは曖昧な言葉である。食べ物がないことによっておおむね引き起こされる一定の体内感覚のことを意味する場合もあれば、そうした感覚を通常ともなう、食べようという衝動のことを意味する場合もある。バトラーは明らかに後者の意味で使っている。しかしそうだとしても、空腹の対象が食べ物だという言い方は正確ではないように私には思われる。この言い方は、市場に行く肉屋の目的は食べ物だ、と言うのと同じ程度には正しいだろうが、だからといって肉屋のおなかがすいているとは限らないからだ。むしろ、空腹の目的は、食べ物を食べることだ。そして、肉屋の目的は、食べ物をできるだけ安く買いできるだけ高く売ることである。実際のところ、衝動の目的は、厳密にいえば、物や人だったりはしない。衝動は常に、ある人や物の状態を変化させたり維持したりしようとしているのである。衝動の対象ないし目的についてはこのあたりにしておこう。

 さて、私たちが食べ物を食べるとき、空腹衝動はすこしづつ満たされていき、それは快いことだ。おなかがすいているのにずっと何も食べられない場合、この衝動の継続的な未充足は不快である。そして、空腹衝動を満たす過程は、その付随効果として、味の感覚を生み出すが、この感覚は食べているものと本人の好みに応じて内在的に快だったり不快だったりする。このことを次のように言うことができる。空腹衝動を駆り立てた原因は食べ物の欠如であり、この衝動には一般に一定の特徴的な身体感覚が付随している。空腹衝動の対象ないし目的は食べ物を食べることであり、付随する効果として味覚の感覚がある。また、食べ物が手に入るか否かに応じて、充足か未充足が付随する。同じように憐みについて考察してみよう。憐みをかきたてる原因は、他人、とくに友人や家族が苦しんでいるのを見ることだ。憐みの目的ないし対象は、その苦しみを取り除くことにある。憐みが発散された場合の付随効果としては、実際にその苦痛が緩和されたり、相手の心の中に感謝の気持ちが生まれたり、などがある。そして、衝動を発散出来た場合には、私たちの精神は満足する。それができなかった場合には、未充足からくる不快な感覚が生じる。

 以上のような区別を心にとどめておくことは、個々の衝動と自愛および仁愛の一般原理との関係について考察するさいに非常に重要になってくる。バトラーによれば、個々の衝動の中には、自愛により密接に結びついているものと、仁愛により密接に結びついているものがある。この点について彼は例を挙げはするのだが、それ以上の分析を行っていない。この点について今や私たちは、より十分にまた明確に、次のように述べることができる。

  • 1. 衝動を掻き立てる原因は、行為者のうちにあったり、無生物対象にあったり、他の人にあったりする。空腹は自分自身の食物の不足と、そこに付随する身体感覚によって掻き立てられる。強欲さは、たとえば本や絵を見たときに掻き立てられ、哀れみは他人の苦痛を見たときに掻き立てられる。
  • 2. 衝動の目的は、行為者自身に一定の結果をもたらすことにあったり、他人に一定の結果をもたらすことであったり、無生物対象に一定の結果をもたらすことだったりする。たとえば、空腹は本人の食事へと向けられている。憐れみは他人の苦痛の緩和に向けられている。見境ない激怒は食器や家具に当たり散らすことに向けられたりもする。
  • 3. 衝動を満たすことの付随効果は、行為者自身に生じる場合も、他人に生じる場合も、また両者に生じる場合もある。おそらく、行為者自身にはつねに付随効果があり、他者にもほぼ常にあると言えるだろう。ただし場合によっては、行為者自身への効果が支配的だったり、他人への効果の方がはるかに重要だったりする。たとえば、空腹が満たされたことの付随効果は、通常の状況であれば、ほぼ完全に行為者自身にしか発生しない。憐れみの発散の付随効果は、たしかにつねに行為者自身にもいくらかは発生するが、苦しんでいる当人と傍観者にとってのほうが大きい。野心の付随効果は、自己と他者に等しく分かれている。そして、衝動が満たされた快ないし満たされない苦痛が発生するのは、当然だが、衝動の所有者に限られる。

 行為者自身の状態を生み出したり変えたりする個別的衝動や、付随作用が主に行為者に限定的に生じる個別的衝動が、自愛にとって特に関心となるのはあきらかだ。典型例が空腹である。他方で、他人の状態を生み出したり変えたりする個別的衝動や、付随作用が主に他人に限定的に生じる個別的衝動は、仁愛にとってより重要になる。同情や反感が典型例だ。自愛と仁愛の両方に等しくかかわる衝動もあるだろう。主に他人の状態を生み出すのに向けられているが、付随作用が主に行為者のうちに生じるものや、その逆のものだ。自分で痛めつけられない者に対する怒りは、他人に向けられてはいるが、主に自分自身に影響する。以上の点に比して、衝動をかきたてる原因がどこにあるかという点は、目下の議論ではあまり重要性を持たない。ただし、行為者自身のうちに原因を持つ衝動の大部分は、おそらく、行為者自身の状態を変化させることに向けられているだろう。満足の快と不満の苦痛は自愛のみにかかわる。これらは行為者当人にしか感じられないからだ。

 さて、ここで指摘しておきたいのは。もともと個別の衝動からなされていた行為が、自愛や仁愛によって行われるようになる可能性だ。幼児のころ私たちは、単にお腹がすいたから食べ、喉が渇いたから飲んでいた。しかし時を経て私たちは、飢えや渇きを満たすことの快さに気付き、また、一定の食物を食べたり一定のワインを飲むことに付随する感覚が内在的に快いと気付いた。このとき自愛は、私たちに激しい運動をさせてお腹ペコペコ喉カラカラの状態にしたうえでレストランへ赴かせ、空腹と渇きが満たされる快い(agreeable)経験にくわえて、内在的に快い(pleasant)感覚を与えると分かっている料理とワインだけを注文させる、などということがあるかもしれない。また、子供は単に好きだからクリケットをしているが、成長して試合それ自体にはとくに熱心さを失ってしまい、別のことをしたほうが楽しめるとしても、しかし仁愛から、半ドンの日にはボーイスカウトの子供たちとクリケットをして過ごすということもあるだろう。

 ところでバトラーは野心と空腹は憐みや悪意と同様に無私だと述べている。これはおかしな見解に聞こえる。だがバトラーは無私(disinterested)という言葉を独自の、しかし非常に重要な意味で使っており、その限りではこの見解は完全に正しい。というのもたしかに、野心も空腹も自分自身の幸せを目指しているものではないからだ。前者の対象は権力であり、後者の対象は食べ物を食べることだ。たしかにどちらの充足も私の充足ではある。しかしそれは憐みや悪意についても同じだ。「無私」を「自分の幸せを全体として最大化するという動機と無関係」という意味で使うならば、あきらかに空腹や野心も無私の行為につながるだろう。バトラーの見解のなかにある一見した矛盾は、先ほど引いた区別に基づけばきちんと説明できる。野心と空腹が、憐みと悪意よりも自己愛に近いというのは確かに正しい。というのも前者は、自身の最大幸福を目指していないとはいえ、自分自身の状態の産出と変容を目指している。他方で後者は、他人の状態の産出と変容を目指しており、その付随効果もおおむね他人に限局されているからだ。したがって、ここではバトラーも常識もどちらも正しく、意見の相違に見えたものは、見逃しがちな区別をはっきり立ててやれば消えてしまう。

2. 自愛と仁愛

 では続いて、自愛と仁愛という2つの一般的原理に移ろう。自愛に比べると、仁愛についてのバトラーの説明は明晰さで劣ると私には思われる。そこで私は次のように仮定したい。バトラーは、自愛とは自分自身の全体的幸せの最大化を導く一般原理であるとはっきり考えている。これと同じように、仁愛とは、個々の人々に関心を払うのではなく人類全体(humanity)の幸福を最大化するよう促す一般原理だとバトラーは考えていた、と。これがバトラーの見解だと思うのだが、彼は仁愛が自愛と並ぶ一般原理だということを忘れ、あたかもそれが一つの個別的衝動にすぎないかのように語る傾向がある。たとえば「第一説教」では、仁愛は明らかに存在し自愛と両立すると述べられているのだが、具体的に挙げられている事例は特定の人の利益を目指した個別の衝動、つまり親子の愛情になってしまっている。親子の愛情が存在すると認めるならば、仁愛の存在を認めなければならない、と論じられているのだ。だがこれは誤りである。これが正しいならば、空腹を認めるならば自愛も認めなければならない、と言えたはずである。実際のところは、空腹は個別の衝動に過ぎないのだから自愛とは同一視できず、同じことが親の愛情と仁愛にも言える。バトラーがこんなにもあからさまな間違いを犯してしまったのは、私の考えでは、仁愛が個別の衝動にもそして自愛にも反しないことを示そうと躍起になっていたことに由来する。バトラーは、仁愛の原理の充足は空腹や復讐心といった個別衝動の充足に劣らず行為者に快をもたらすと示している。なるほど、仁愛の行きすぎた発揮は自愛と衝突するだろう。しかし、それは渇きや怒りのような個別衝動についても言える。それどころか、仁愛と自愛の関係は、個別衝動と自愛の関係と全く同じである。ここまでは、バトラーは完全に正しい。しかしこの関係の同一視によってバトラーは、一般原理である仁愛と、愛国心や親の愛情のように特定の人(々)の幸せを生み出すことを目指した個別衝動のあいだの内在的な違いを見落としてしまったのだ。

 私は、仁愛という一般原理は明らかに存在していると思うし、バトラーも明確ではないときこそあれそう考えていたと思う。仁愛の主要な働きは、個別的衝動のなかでも他人に変化をもたらすことを狙うものや付随効果が主に他人のうちにおこるものを制御、組織化することにある。たとえば、哀れみ、反感、親の愛情などに関係する。他方で自愛の主要な働きは、個別的衝動の中でも自分にある状態を生み出すことを狙うものや、不随効果がおおむね自身のうちに起こるものの制御、組織化である。自愛の観点からいえば、仁愛とは空腹、反感などとならぶ一つの衝動に過ぎない。しかし逆に仁愛の観点からいえば、自愛の方こそ一つの衝動に過ぎない。賢明な人は、盲目な怒りにとらわれていないか、過食していないかをチェックするのと同様に、人類一般に対する仁愛が行き過ぎていないかをチェックするだろう。慈悲深い人は平静を失っていないかをチェックするのと同様、行き過ぎた賢しら心をチェックするだろう。

 しかし私には、自愛と仁愛が釣り合いを保っていない点が少なくとも2つあると思われる。良心は自愛と仁愛の両方を、適切な割合で認める。しかし、良心が自愛よりも仁愛を高く評価することは明らかだと思われる。良心は、多すぎる仁愛を持つ頃は可能だが容易ではないのに対して、多すぎる自愛を持つのは全く容易だと考えるだろう(実際には人々は自愛を持たなすぎなのだが)。さらに、純粋に心理学的な観点から言うと、自愛と仁愛はそこまで協調していない。仁愛を含む任意の傾向を行為に移すことは、それ自体として行為者にとって快であり、その分だけ自愛に役立つ。しかし、自分自身の欲求傾向を行為に移すことは、それ自体としては他人の幸福の源泉ではない。たしかに行為によって発散される衝動の本性によっては、他人も快苦どちらかのしかたで影響を被ることはあろう。しかし私は、行為の対象が何なのか、付随効果が自分にとって快い感覚なのか否かに関わらず、単に欲求が充足したという事実だけで、一定量の快を得る。したがって、付随効果があまりにも不快なので冷静な自愛ならば許さない行為でさえも、自愛に完全に背いているわけではない。そのような行為は存在しないのだ。これに対して、多くの衝動の充足は仁愛に完全に背きうる。私が平静を失いカッとなって人を殴ったとしよう。この行為が将来的にもたらす帰結はおそらく非常に不快なので、冷静な自愛であればこれを禁じるであろう。しかしそれでも、自愛にはこの行為から得るものがある。すなわち、衝動を充足したという一瞬の満足感を得ることはできるのだ。これに対し、この行為から仁愛が得るものは何もない。この行為は仁愛に完全に背いているのだ。
 すでに述べたが、バトラーは純粋な自愛と純粋な仁愛はほぼ同じ外的行為を導くと考えていた。というのは、ほとんどの行為の付随効果は実際のところ自分と他人両方の幸せに同じくらい関わっているからだ。この点について、バトラーは2つの根本的に正しく重要な観察を残している。(i)もしあなたが自分を出来る限り幸せにしたいと思うならば、幸せという対象については常に心の外に置いておくことが重要だ。最も幸せな人とは、誇りを持て有益だと感じられるような何らかの活動に専心し、一定の成功を収めている人である。もっともみじめな人生を送る人は、いつも自分の幸せとそれを手に入れる計画のことしか考えていない人だ。熟慮の末追及された幸せは概して結局は満足いかないものであり、自己意識的な利己主義者は持っていないものを欲し持っているものを否定することにばかり時間を割いている。(ii)第二のポイント。自愛と仁愛に避けがたい衝突があるというよくある見解は誤りであり、この誤りは楽しみそれ自体と楽しみの手段の混同というよくある原因に基づいている。私が一定額のお金をもっているとすれば、それを自分のために使えば使うほど他人のために使えなくなるし、逆も然りだ。そこで、一見すると自愛と仁愛は必然的にぶつかりあうように見える。しかし、バトラーが言っているように、お金やその他の財はそれ自体としては幸せではない。それを一定の仕方で使うことで幸せを生み出すことができる物質的対象に過ぎない。そして、お金を自分に使っても他人に使っても私には幸せが生じるだろう。もし私が自分自身にもう十分お金を使っているならば、あえてさらに自分に使って幸せを失うよりはむしろ他人に使ってより多くの幸せを得るだろう。このことは確かに正しいのだ。バトラーが指摘する幸せと幸せの手段の混同は、非常によくなされてしまう。守銭奴はこの間違いを典型的にまた誇張した形で示しているが、ほぼ誰もがこの混同をある程度はなしてしまう。
 自愛に導かれる行為と仁愛に導かれる行為の実質的同一性というバトラーの理論に批判すべき点があるとすれば、それは1点しかない。すなわちこの同一性を主張するときバトラーが念頭に置いている人物というのは、仁愛と自愛に従った人々からなる社会のなかにいる純粋に利己的な人だという点だ。たしかにこの場合この人は、仁愛の原理が支持するような行為を行うとたしかにペイする。他方で、まったく仁愛を欠いた人々の共同体の中でこのような行為を行うときペイするかどうかは全く明らかではない。私たちが言えるのは、そういった〔利己的な〕社会がありうるとして、その世界では誰もがおそらく悲惨であろうということだ。しかしそうした社会の中で、外面上は慈善的な行為をすることによって悲惨さが緩和されるかどうかは、簡単には答えられない。しかしながらバトラーの言いたいことが、実際の人々および人々が作ってきた制度が問題であれば、十分情報を与えられた自己関心が命じる行為は仁愛が命じる行為とあまり変わらないということであれば、バトラーは正しいであろう。もちろんこのとき、ある行為がどれだけ仁愛に由来しどれだけ自愛に由来するのかを明言することは難しい。確かなのは、両方の原理が存在しており、一方の原理のみにもっぱら負う行為は極めて稀だということだ。ときにはどちらの原理が優勢なのかかなりはっきりわかる場合もあるが、それが限界である。これと全く同じ困難は、自愛と個別衝動についても生じるとバトラーは指摘している。ある行為が自愛に由来するのか、それとも権力やお金を狙う個別の衝動に由来するのか、言い当てるのが困難な不可能な場合がよくある。確かなのは、自愛と仁愛両方の原理が存在しており、あらゆる割合で混ざり合うということだけだ。ときには、傍観者のほうが支配的な原理をより正確に言えることもある。傍観者のほうがバイアスから逃れやすいからだ。

3. 良心

 最後に、バトラーにおける最高原理である良心をみていこう。バトラーによれば、良心には2つの側面がある。すなわち、純粋に認知的な側面と、権威的な側面である。加えて、私の考えでは、良心は活動的な原理だとも言わねばならないと思う。すなわち、この原理は行為を実際に引き起こしたしチェックしたり変容させたりする。認知的な側面においては、良心は反省の原理である。反省の主題は行為、性格、意図である。ただし反省には特定の観点がある。ある意味で私達はすでになされた行為を単に思い出し、あああれは結局はうまくいったな、これはダメだったななどと反省することもある。しかしこうした反省は良心の働きとは言い難く、むしろ回顧の働きというべきだろう。良心の特異性は、それが行為を正しさと不正さという観点から反省するところにある。「正しい」「不正」「義務」などの語を私たちが使うというこの事実からして、こうした語で名指されているものを認識する知的能力が私たちのなかにあることを示している。そうでなければ、こうした語は無意味に、先天性の色盲の人に「黒」や「白」が無意味なのとおなじようなことになってしまうだろう。しかし幸運にも私たちは、正しい行為とうまく行った(fortunately)行為をしっかり区別することができるし、不正な行為とうまく行かなかった行為をはっきり分けることもできる。また、意図せず人を傷つけてしまうこととと熟慮の上でなされた加害を区別することもできる。良心は前者には無関心だが後者を糾弾するものだ。そして最後に良心は、不正な行い・正しい行いにたいし、どの程度の苦痛・幸福が適切かを認識する。つまり、真価(merit or desert)を認識する。人が痛めつけられてるを見たとき、その人は無実だと考えるか、それとも悪い行為をして罰を受けていると考えるかに応じて、私たちはその状況について全く異なる判断をするだろう。
 
 そこで認知的側面における良心とは、善悪という特定の観点から、性格、行為、意図について反省する能力だと言える。また最後につけくわておくと、良心は行為ないし意図をそれ単独で評価するのではなく、行為者の理想的本性を参照しながら判断する。子供や狂人の理想的本性は、正常な大人の理想的本性とは異なっているので、それぞれの人が同じ行為をしたとしても、良心はそれらに対して異なる見解を持つだろう。しかしバトラーは適切にも、全ての大人の理想的本性は同一だと仮定している。実際上、これを仮定しなければならないことは明らかだ。ただし、あまりに厳密に取りすぎることもできないと思われる。というのは、成熟・未成熟や正常・狂気のあいだに、完璧に明確な線を引くことはむずかしいからだ。
 
 良心は最高の権威だということでバトラーが意味しているのは、私たちは良心の宣言を単に興味深かったりどうでもよかったりする事実の表明とみなすのではなく、またその他の理由と釣り合いを取るべきひとつの理由とみなすのでもなく、むしろ、その宣言にかかわる行為をする・しない決定的な理由とみなすということだ。良心がある行為を不正だと宣言したという事実は、たしかに、その行為に反対する一つの動機である。しかしこのことは、自愛が賢くないと糾弾したという事実や、仁愛が全体の幸せを減らしそうだと糾弾したという事実についても言える。この点で見れば、良心、自愛、仁愛はすべて等しい。このどれもが、行為を行う、ないし行わない動機を与えることができる。違いがあるのは、それぞれの権威である。すなわち、それらをどのくらいの強さでもつべきであるか、理想的な人間ならどのくらいの強さでもつはずであるかという点の違いだ。自愛と仁愛がある行為の仕方をめぐって対立している場合には、どちらの原理の本性から言えば、一方が他方に対してより権威を持つということはない。ある時には自愛が譲る方が正しいだろうし、別の時には逆である。しかし、良心とはこのようなものではない。理想的人間において、良心は単に仁愛や自愛と交代で出てくるのではない。良心が仁愛や自愛と衝突した際には、道を譲らなければいけないのはかならず後者であり、決して良心ではない。さらに、仁愛と自愛が衝突している場合には、良心のみが、決定を下す権利を持つ。もちろん現実の人間の場合には、良心が自愛や仁愛に負けてしまうことはよくある。それは、自愛や仁愛が個別衝動に負けてしまいがちなのと同じだ。しかし私たちは、良心が必要な心理的力を備えていない場合ですら、その道徳的権利が最上だということは認識している。
 
 私たちの生活のあらゆる細部までもが良心の法廷で厳粛に議論されなければならないとは、バトラーは考えていなかったと思う。それはちょうど、自分自身の幸せの最大化を目指す人がその目的を達成するためには幸せの最大化についてはいちいち考えないほうがいいのと同じで、いつも良心にしたがって行為したい人は良心に従うことを明確な動機として掲げないほうがだいたい上手くいく。私たちが直接の衝動、自愛、仁愛から行為した場合でも、その行為がもし注意深く熟慮すれば良心が賛同するであろう行為であるかぎり、良心の最上性は保たれている。例えば、良心は適当な程度の親の愛情を肯定する。しかし、この愛情は、良心によって親に義務として課せられるよりも、直接的に感じ取られるいいだろう。実際のところ、良心の主要な機能は統制的なものだ。善ないし悪なる素材が、個別衝動によって与えられる。それらは自愛と仁愛によって組織立てられるが、自愛と仁愛は良心によって協調、規制させられている。こうした組織化は、氏も育ちもよい人であれば、その多くの部分が習慣化しており、99%の場合、当の行為は正しいのか、またその理由は何なのか、などと考える必要なしに、正しい行為をすることができる。良心に直接聞かなければならないほど当惑させるないし魅力的な状況というのは100のうちほとんどない。

 さて最後にバトラーの理論の中にある興味深いが難しいポイントを2つ指摘しておこう。(1)バトラーは絶えず良心の最上性を主張しているが、自愛と良心が協調すると考えているらしき部分が数か所ある。そのうち1か所では、適当な自愛かあるいは良心のどちらか一方に背いている行為は人間の本性と合致していないと言っている。また別の有名な箇所では、冷静に反省すれば幸せに背くような行為を正当化することはできないと認めているように見える。前者の箇所については私にはいかんともしがたい。純粋に不整合であるように見える。ただし後者については、良心と十分な情報を得た自己愛のあいだには真の衝突はないということを論敵に対して証明しようとする議論の中であらわれているという点に注目しよう。このことは、バトラーがここでは自分自身の見解を述べているのではなく、想定上の反論者に対して仮定上譲歩しているという文脈から明らかだと思う。バトラーの議論はこうだ。仮に、自分自身の最大の幸せに反することは決して正しくないとしよう。しかしそれでも、良心と自愛が一見衝突しているように見える場合には良心に従わなくてはならない。というのも、現世においてすら、いったい何があなたに最大の幸せをもたらしてくれるのかを言うのは非常に難しく、また来世が存在する可能性が常にありうる。これに対して、良心の命令はいつもきわめて明確である。そこで、何が自分にとって究極的な利益なのかよりも、何が正しいのかの方が、はるかに確かなことなのだ。したがって、自愛と良心に衝突があるように見えたら、良心に従うべきだ。というのも、良心に従った行為が、私たちの利益にかなわないと確かに言うことはできないのだから。
 
 したがってバトラーはおそらく、良心が自愛に優越するかそれとも両者は協調するのかという問いは単なる理論上の重要性しかない、と答えるのだろう。しかしこの回答は受け入れがたい。そもそも、私たちは道徳理論家(moralist)としては、良心と自愛の相対的な配分がどの程度であるべきかを知りたい。これに対して、それは実践的重要性を持たない、と言われても、問いに対する答えは得られていない。第二に、確かにバトラーの言う通り、何が自分自身の究極的利益になるはには極端な不確実性があるというのは認めてもよいかもしれないが、良心の声のほうもほとんどの場合バトラーが言うほど確実でも明確でも全くない。仮にそうだとしても、自分自身の利益へのよりよい指針が、問題について直接反省してたどりついた最善の選択肢よりも良心だというのはなぜなのか、全く明らかではない。

 (2)バトラーの見解で疑わしい第二の点は、幸せの価値にかかわる。ある箇所でバトラーは、人間あるいは全ての被造物にとって唯一重要なのは幸せだというkとおは明らかだと述べる。さらに、一般的な徳ないし悪徳は全て、仁愛とその欠如に由来すると述べる。最後に、同じ説教の中で、仁愛は厳密な意味ではあらゆる善いものと価値あるものを含んでいる、と述べる。さて、これらの言明を額面通り受け取ると、バトラーは功利主義者だということになってしまう。つまり、幸せが唯一の内在的善であり、徳とは幸せの促進に存する、と考えていることになる。だがここで注意すべきなのは、こうした発言は隣人愛にかんする説教の中にあらわれるもので、ここでのバトラーの主要な関心は、哀れにも仁愛を描いた人々にそれを推奨することにあるということだ。しかも、この文脈においてですら、バトラーは脚注で明確にこう述べている。すなわち、一定の行為や傾向は、それが一般的幸せにもたらすだろう効果を別としても、肯定されるものだ、と。このことは後のより体系的な著作『徳の本性にかんする論考』ではさらにはっきりと述べられている。そこで私としては、バトラーの熟慮の上での見解は功利主義に反したものだと考える。

 私たちが功利主義者だと考える理由はないにしても、神は功利主義者かもしれないという興味深い見解が、『人間本性にかんする説教』にも『徳の本性にかんする論考』にも見られる。つまり、神の唯一の究極的動機は、宇宙における幸せの総量を最大化することかもしれない、というのだ。これが神が目的として賛同できる唯一のものであったとしても、しかし神は人間を、仁愛以外の傾向にも直接的に賛同を示すように創られた。たとえば、正義や誠実(truth-telling)である。また神は、私たちに良心の能力をあたえ、この能力が私たちに告げるところによれば、一般的幸せにつながりそうに見えるか否かとは関係なく、正義や誠実といった原理にしたがって行為することこそが義務である。なぜ神は正義や誠実に対する直接の賛同を私たちに与えたのか。それは、ご自身がそれに直接的に賛同しているからではなく、むしろ、私たちが自分や他人への帰結として何が起こりそうか考えて行為するよりも、それとは無関係にとにかく正義の振る舞いをし真実を言うほうが、実際のところ全体としての最大の幸せにつながる、と知っておられたからだというのは全くありそうな話だ。もしそうだとすると、全体の幸せについて考えることは神の仕事であり私たちの仕事ではない。私たちのすべきことは、良心に従って行為し、良心が賛同する手段によってのみ全体の幸せを促進することである。時には、嘘をついたり贔屓した方が全体の幸せにつながりそうだと考えかもしれないが、それは関係ない。もし神が、私たちの良心的行為を制御し、良心に従った行為が最大の幸福をもたらすように私たちには思えないがそれでも実際にはそうなるようにしているならば、それはそれで良いことである。いずれにせよ〔そう思えるにせよ思えないにせよ〕、私たちの義務は同じ〔良心に従うこと〕である。

 さて、倫理学にかんする完全な論考であれば当然扱うべき様々な問いをバトラーが論じていないのは明らかである。たとえば、私たちが正不正の基準として使えるような、あらゆる正しい行為に共通の特徴はあるのだろうか。同じ良心が異なる時に、あるいは異なる良心が同じ時に、相対立する命令を発しているように見える場合に、どちらが真正でどちらが疑わしいかをどうやって知ればいいのだろうか。こうした問いにバトラーは答えようとしていない。功利主義者とカントはこれらの問いに対して全く異なる答えをあたえていたのだった。たしかに、バトラーの体系は不完全である。しかしそれは、道徳経験の事実に忠実だと主張できるあらゆる倫理体系のためのプロレゴメナを含んでいるようにみえる。