https://www.jstor.org/stable/40231134
- Mark Carl Overvold (1980). Self-Interest and the Concept of Self-Sacrifice. Canadian Journal of Philosophy. 10(1): 105-118.
I & II
自己利益(効用、福利)を、全てを考慮したうえで当人が欲するものと同一視するアプローチが近年流行している。たとえばブラントは、「合理的行為」を完全情報下での行為と同一視し、そうした行為を行為者の自己利益にかなう(in the agent’s self-interest)な行為と同一視している(Brandt 1972)。この場合「自己利益」はかなり広く解釈されている。例えば、他人の幸福を求める欲求が充足された場合も、それは当人の自己利益を増す。従って、「多くの一見自己犠牲的な行為も、行為者の自己利益にかなうことになる」。しかしこの帰結は反直観的であり、ブラントは自己利益を適切に説明していない。
III
ブラントの説明の欠点を明確にするために、自己犠牲の概念を分析しよう。自己犠牲には3つの条件がある。まず2つ。
- (1) 自己利益の損失が予期されている
- (2) 意志的である
第三の条件として必要なのは、自己犠牲を、損切りから区別する条件だ。損切りは、たしかに損失が予期される行為を意志的に行うものだが、それはより大きな損失を回避するためであり、これが自己犠牲だとは言い難い。そこで、次はどうか。
- (3) 行為は行為者の〔総体としての〕自己利益に反している
しかし(3)には問題がある。(3)は、自己利益をより増す選択肢の存在を要請するが、その選択肢に行為者が気づいていることを要求していない。ここで行為者のどのような気づきを要請するかに注意が必要だ。人は自己犠牲するさい、他の選択肢がより自己利益を増すと意識的に考えたりはしていない。したがって、意識的な思考を要件として課すことはできない。そこで、次の条件はどうか。
- (3*)行為の時点で、次のような他の選択肢が少なくとも一つ行為者にはある
- (a)その選択肢には(自己利益と関係する限りで)実際にどのような特徴や帰結があるかについて、行為者は正確に査定してる
- (b)その選択肢は、実際に行為者が行なった行為よりも、行為者の自己利益を増す
これは、行為者が(実際に)自己利益を増す選択肢に気づいていることだけを要請しており、その選択肢について意識的に自己利益的の観点から考えることは要請していない。しかし別の問題がある。(a)の「正確な査定」というのが、知識はおろか、真なる信念だとしても強すぎるという点だ。例えば、友人のために命を投げ出した人物がいるとする。この人は、命までいかず軽傷で済む選択肢もあると信じていたとしよう。しかしこの信念は誤りで、実際のところは軽傷すら負わなくて済む選択肢があったとする。しかしそうだとしても、この事例は自己犠牲的だと言えるだろう。では、行為者の査定はどのくらい正確ならいいのか、この問いは簡単ではない。そこで、アプローチを変えよう。
- (3**)行為の時点で、次のような他の選択肢が少なくとも一つ行為者にはある
- (a)その選択肢の帰結が、行為者が予想した通りに生じたなら、それは行為者が実際に行なった行為よりも、行為者の自己利益にかなう
- (b)もし行為者がその選択肢を選んだなら、それは客観的に言っても、行為者が実際に行なった行為より、行為者の自己利益にかなう
(3**)は、(3)より強い。(3**b)が満たされていれば自動的に(3)は満たされるからだ。また、選択肢に行為者が気づいていることを要請してはいるが、(3*)とは異なって、どのくらい正確に選択肢の帰結を査定していればいいのかという問いを回避できている。
IV
以上の分析を踏まえると、ブラントの説明では自己犠牲が論理的に不可能であることがわかる。というのも、(1)と(2)を満たす行為は、ブラントの意味で自己利益にかなう行為であるため、(3**b)を満たさなくなるからだ。いま、仮に(3**b)だけに注目するならば、ブラントの説明のもとでの真の自己犠牲は、行為者が自身の行為の帰結について無知であるときのみ可能になる。しかしこうした無知は(3**a)により除外されている〔。(3a)がなければ、自己犠牲的な行為者は別の選択肢に気づいていなくてもいいということになってしまうのだった〕。
道徳的生活の中で賞賛されるべき多くのものが自己犠牲を含むことを考えると、自己犠牲にかんする言説を整合的にするような自己利益の説明を選ぶほうが良い。