えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

優美さ Spencer (1868)

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  • Herbert Spencer (1868). Gracefulness. In his Essays: Scientific, political, and Speculative, vol. 1. London: Williams and Norgate. pp. 312–318.

 美とは、事物の性質の中でも私たちが満足(gratification)と連合する習慣があるものを指す一般的な名前であり、従って美の観念は快い(pleasurable)経験が蓄積されていった結果として生じるという見解がある。私はこの見解には、一定の拡張を加えた上で、完全に賛成できると考えている。しかしこれと同じことは、私たちが優美と呼ぶような形態や運動の性質については言えないと考えている。

 私たちが優美だと言う属性をもつ事物は、明らかに、何らかの完全性を持っている。私たちは、荷馬車やカメやカバのことを優美だと言ったりはしない。こうした動物は、運動の力が不完全にしか発展していない。対して、グレイハウンドやアントロープ、競走馬等は優美だと言われる。こうした動物たちは非常に効率的な運動器官を持っている。さて、私たちが優美と呼ぶような構造や行為がもつ特有の性質とは何なのだろうか?

 ある晩、私はあるダンサーを見る機会があった。その踊りは野蛮で、もし観客たちが、流行りと見ればすぐ褒める臆病者でなかったなら、彼女はその場から追い払われていただろうなと内心思っていた。その時考えたのだが、本当に優美な動きがあらわれるのは、比較的小さな努力でそれがなされるときではないだろうか。このことを確認する事実をいろいろと確かめた結果、今では次のような一般的結論に至った。態度の変化、行為の遂行が最も優美になされるのは、それが最小の力の消費とともになされる時である、と。言い換えれば、運動にかんする優美さは、節約された筋肉の力(economy of musclar power)でなされる運動に帰される。動物の形態にかんする優美さは、そのような節約を可能にする形態に帰される。姿勢にかんする優美さは、そのような節約を維持している姿勢に帰される。無生物にかんする優美さは、上記のような態度や形態と一定の類似を示しているものに帰される。

 この一般化が、真理のすべてとは言わないまでも大部分を捉えていることを見るためには、「優美」という語が「容易」(easy)という語といかに習慣的に結びつけられるかを考えてみれば良いと思う。そしてさらに、この連合の基盤となっている事実について考えてみよ。例えば、軍曹に「気をつけ!」と言われ直立になる兵士の姿勢よりも「安め」の姿勢(stand at ease)でリラックスしているときのほうが、はるかに優美である。また、用意された椅子の端に体をこわばらせながら座っている無作法な訪問者と、彼を迎え入れる落ちついた主人とは、エレガントさの点でも力み(effort)の点でも好対照をなしている。また私たちは立っているとき、重心をどちらか一方の脚のほうに大きくかけ、そちらの脚を柱とすることによって、力を節約している。そしてリラックスするときには、逆の脚に重心をかける。また同じ目的のために、頭をどちらか一方にすこし傾けているものだ。こうした態度は、優美さの要素として彫刻の中で模倣されている。

 態度から運動のほうに目を向けてみても、優美さと力の節約について同じ関係が見いだされるだろう。不規則な歩きかたや脚を引きずるような歩きかたを誰も優美だとは言わないし、こうした歩きかたは力の浪費を示している。太った人がのしのし歩いていたり、病人が震えながら歩いているところには、誰も美しさを見いださない。そしてどちらにおいても、力みが明白である。むしろ、私たちが賞賛する歩きかたとは、速度が中庸で、完璧にリズミカルで、手を暴力的に振るうことなく、意識的にやっているという印象を決して与えず、無駄な力が全く無いようなものなのだ。冒頭の例にもどれは、ダンスについても同じことが言えるのは、腕の適切な動かしかたという良く知られた困難を考えてみればよくわかるだろう。この困難を克服していないダンサーは、腕が何か厄介な存在であるような印象を観客に与えてしまう。とくに意味の無いかたちで腕がこわばったまま上げられ、そこにははっきりと力が入っている。腕を振るうとき、自然な方向から逸れてしまう。あるいは、あまりに腕が動きすぎており、体の均衡を保つ助けになるどころか、それを危うくしてしまう。これとは対照的に、良いダンサーを見たときには、腕が邪魔だなどとは思われず、むしろそれが極めて便利なものであるように感じる。腕のどんな動きも、一つ前の体の動きの自然な帰結のように見えるにもかかわらず、何らかの利点を持っているのだ。腕は行為全体を妨げるのではなく促進する。あるいは、こう言ってよければ、努力(effort)の節約が達成されるのだ。この事実をはっきりと心得たいと思うならば、歩いている際の腕の動きについて調べてみればよい。ある程度の早さで歩きながら、腕を体の側面にぴったりつけてそのままを保ってみよう。そうすると、肩を前にも後ろにも動かせなくなるに違いなく、うねうねした優美ではない動きになるだろう。こうした歩きかたが優美ではないだけでなく、また疲れるものでもあることを確認できたら、今度は腕を普通に振って歩いてみよう。肩のうねりは消え、体も一定のペースで前に進むようになる。そして、こちらの歩きかたのほうが容易であると感じられるだろう。この事実を分析してみると、歩行中に一方の手が後ろに行く時、その手と同じ側にある脚は前に出ていることに気づくかもしれない。そこで筋肉感覚に注意してみれば、手を後ろに振ることと脚を前に出すことは相殺しあってバランスをとっていることがわかるはずだ。このバランスをとるには、最初の歩きかたの時のように体全体をくねらせるよりも、腕を振ったほうが容易である。

 このように歩行中の腕の動きが理解されれば、ダンス中に腕を優美に動かすためには同じことをより複雑な形で行なえばいいとわかってくるだろう。そして、良いダンサーとは筋肉感覚が非常に鋭く、体全体や脚とバランスをとるために腕をどちらの方向に動かせば良いのかを瞬時に感じ取れる人物なのだともわかってくるはずだ。

 優美さと力の節約のあいだのこのような関係は、スケートをする方であれば良くご存知だろう。スケートを習いたての頃、とくに、フィギュアスケートにおずおずと触れ始めた頃は、動きはぎこちなくとても疲れるものだったはずだ。そして、スキルを身につけるということは容易さを身につけるということでもあった。自信がつき、必要な脚の動かしかたが分かってくると、以前はバランスをとるために体をひねったり腕を回したりしていたのが、不要になってくる。身体は、制御されずとも、与えられた衝動に従うようになる。腕はまさにそれが振れるだろうところに振れる。そして、優美な回転の仕方とは、最小の力みで回ることなのだと、はっきり感じるようになる。観客であっても、もしその気になれば、同じ事実を見逃さないはずだ。しかしもしかすると観客では、最小の力の消費で目的を達成する動きこそが優美と言われる動きだと極めてはっきり見てとることはできないかもしれない。

 ところで、スケートを参照することで見えてくることだが、優美な運動とは曲線を描く運動だと定義できるかもしれない。たしかに、まっすぐな運動屋ジグザグな運動は優美という概念からは外れる。角を描く運動は途中で突然静止することになるが、これは優美さのアンチテーゼと言える。なぜなら、優美さに特徴的な性質は連続性、滑らかさだからだ。しかしこのことは、これまで述べてきた真理の別の側面にすぎない。なぜなら、曲線を描く運動は節約的な運動だからだ。腕や脚といった肢が、特定の位置を次々に通っていくとしよう。さらに肢は、最初の位置から次の位置へ直線的に移動し、そこで突然静止し、さらに次の位置の方へ直線的に移動し……という風に進むものとする。このとき、肢によって与えられていた勢い(momentum)は各静止の度に一定量の力を犠牲にして失われ、しかも肢に新たな勢いを与えるためにはさらなる力が必要になることは明らかだ。これと対称的に、第一の位置で肢を静止させるのではなく、運動を連続的にしてやり、第一の点から第二の点に向かうのに横向きの力を加えてやれば、運動は必然的に曲線的になる。そしてこの場合には、元々の勢いが利用されているので、力は節約されることになるのだ。

 優美な運動にかんして以上のような結論が正しいとすれば、優美な形態とは自己を支えたり運動したりするのに比較的小さな努力しか必要としない形態であることは疑いえないと思う。もしそうでなくては、優美な形態は優美な運動と何の関係もないという不調和が出てくることになるし、あるいは優美な運動と優美な形態の一方はあるが他方は無いと事例がよくあるということにもなるだろう。しかしこれはどちらも経験と合致しない。そこで、今述べているような関係が存在していると結論せねばならない。このことを認めようとしない人でも、私たちが優美だと考えるような動物、自身の体重を負っていないかのように軽やかな姿をした動物や、素早さや軽快さで知られる動物を思い起せば、やはり見解を変えてくれるだろうと私は思う。これに対して、私たちが優美でないとする動物は、どっしりしており運動能力はあるもののほとんど発展していない動物なのだ。とくにグレイハウンドを考えてみよ。この犬種はまさに、体重の節約が最も顕著で、筋肉運動能力の最高度の完成に特化した犬種であって、これこそまさに私たちが最も優美だと言うものなのだ。

 樹木や無機的対象がいったいなぜ優美という形容を受けるのかは、一見したところあまり明らかではない。しかし、そうした対象を私たちは、一定のかたちで擬人化して見がち、あるいは必ずそう見てしまう、という事実を思いだしてみよう。オークの樹の堅い枝が、その幹から直角に生えている。そうすると私たちには何となく、枝をその位置に保つのに非常に大きな力がかかっているように感じる。このとき私たちは、人間の腕を体に対して直角に維持している姿勢が優美ではないと感じ角と同じ感情になり、オークの樹も優美ではないと言うのだ。逆に、シダレヤナギの柔らかに垂れ下がる枝は、あまり力まなくていい体勢にある肢となんとなく連合しているために、優美という言葉はメタファーによってシダレヤナギの枝にも適用されるのだ。

 さて、ここでもう一つ簡単ではあるが次のような仮説を立ててみたい。他者が示す優美という観念の主観的基盤は、共感なのではないだろうか。私たちは危険な状態にある他人を見ると自分自身身震いしてしまうし、他人がもがいたり落下しているのを見ていると自分自身の四肢も動いてしまったりする。これを可能にしているのと同じ能力によって私たちは、自分を取りまく人々が経験しているあらゆる筋肉感覚に、おぼろげながら関与することになる。他人の運動が暴力的だったりぎこちなかったりすると、もし自分がその人だったなら感じていただろう不愉快な感覚と同じ感覚が、わずかではあるが感じられる。他方で、他人がくつろいでいる(easy)時、そこからは快い感覚が表出されており、その快い感情に私たちも共感するのだ。