えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

カント批判者としてのエルンスト・プラトナー Beiser (1987)

The Fate of Reason: German Philosophy from Kant to Fichte

The Fate of Reason: German Philosophy from Kant to Fichte

  • Beiser, Frederick (1987). The Fate of Reason: German Philosophy from Kant to Fichte. Cambridge: MA, Harvard University Press.
    • 7.6 Platner’s Meta-Critical Skepticism

 エルンスト・プラトナー(1744−1818)は、ドイツにおける「通俗哲学」運動の先導者であった。その哲学はライプニッツに大きく影響されており、著作『箴言集』はどの版でもライプニッツの認識論と心理学に対するカントの反論に再批判を加えている。しかし1790年代にカントの影響力が高まってくると、プラトナーもしだいに形而上学に懐疑的になり、それは『箴言集』3版(1793)に見て取れる。だがここでも彼はあくまで反カントのライプニッツ主義者であり、メタ批判的な懐疑論を展開してカントに対抗しようとした(なお『箴言集』は1790年代にはイェナで教科書としてよく採用され、フィヒテ・シュミット・ラインホルトの知的背景となっている)。

 プラトナーの懐疑論は決してヒュームへの回帰(=独断的懐疑論)ではない。彼はあくまでカントの批判をもとにした懐疑論を構想する(=批判的懐疑論)。真の懐疑論は批判に基づくものであり、それは批判それ自体の力と限界を批判するメタ批判なのだ。この立場から、プラトナーはカントを次のような点で批判している。

  • (1)物自体は時間や空間の中にない等の物自体に関するネガティヴな発言は、形而上学者のポジティヴな発言と同じくらい独断的である。私たちは物自体について知りえないのだとしたら、物自体が時間や空間の中に存在していることもありうるはずだ。
  • (2)全ての知識は経験の領域に限られるということを証明しようとするカントの議論は、それ自身経験に基づいていない。
  • (3)アプリオリな概念が悟性に由来するという主張は確実ではない。物自体が私たちに働きかけている可能性もある。実際、現象界に見られる厳密な因果性は、英知界にも対応物を持っているのではないか。
  • (4)カントはヒュームを論駁しておらず、論点先取をしているにすぎない。超越論的演繹は、私たちが規則的で秩序だった経験を持っていることを前提にして、カテゴリーの存在を導きだしているが、ヒュームはその前提を認めないかもしれない。

 だがこのようなプラトナーの批判そのものを、さらにメタ的に正当化する必要はないのか。プラトナーはないと答える。なぜなら、そもそも懐疑論というのは何かを肯定したり否定したりする学説ではなく心構えなので、正当化を云々するようなものではないからだ。態度を正当化できるとすれば、それは主観的なもの以外ありえない。懐疑論者は、あらゆる信念を遠くにあるものとして眺めることで、心の冷静さと独立性を得ることが出来る。このことは、本人にとっては、(態度としての)懐疑論に対する十分な正当化となる。

 こうしてプラトナーは、カントによって提起された批判は懐疑論に至り、結局は完全な主観主義に至ると示したのだった。