えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

触覚には複数の感覚が含まれているのか?:歴史的概観 Hamilton (1860)

  • Hamilton, W. (1860). Lectures of Metaphysics and Logic, Vol. 2. Edinburgh and London: Willam Blackwood and Sons.
    • pp. 155-157

 以下に訳出したのはウィリアム・ハミルトンの『形而上学・論理学講義』から、触覚の複数性にかんする学説史を概観した部分です。この部分は、痛みの学説史にかんする古典的な論文のひとつ、カール・ダレンバッハの「Pain: History and present status」(1939)の冒頭部分で大きく引用されています。

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  第二の問題は、一つの特殊な感覚としての触覚[Touch]ないし感じ[feeling]にかんする。触覚は、その名の下で、実際は様々な知覚や感覚を含んでいるのではないか? そうした知覚や感覚はそれぞれ非常に異なったものなので、それぞれが特殊な感覚を構成すると考えるべきではないか? 
 この問いに私は肯定的に答えるべきだと思う。なるほど、もし触覚というのが単に、器官と知覚対象の出会いのことを意味するにすぎないのであれば、触覚のなかに他の感覚を区別するべきだなどということはなかろう。だが、触覚というのを、五感の一、その独自の特徴によって他の4つの感覚から区別されるひとつの特殊な感覚のことだと理解する場合事情は異なる。この場合、視覚・聴覚・嗅覚・味覚を、それぞれ互いに、また(本来の)触覚から区別すべきだとするならば、おなじ理屈によって、触覚といわれているもののなかにも、複数の特殊な感覚を区別すべきだ、ということは容易に示せると思う。
 この問題は、第一の問題と同じく、古代から続く問題である。その由来はアリストテレスの『デ・アニマ』2巻7章にあり、ここでアリストテレスは自身の回答を曖昧なままに残した。そのためアリストテレスの追随者たちは、この点で見解を二分することになる。ギリシャのアリストテレス注釈者の中でも、テミスティオスは触覚には複数の感覚が含まれているという見解を採用した。アレクサンドロスはこれとは逆の見解を好んだが、はっきりと支持してはいない。他に逆の見解を支持したものにシンプリキオスやフィロポノスがいる。その一方で、テミスティオスの見解の方は様々な修正をこうむりつつ、アラビア人とくにアヴェロエスとアヴィセンナ、さらにアポリナリウス、アルベルトゥス・マグヌス、アエギディウス、Jandunus[John of Jandun]、マルセリウスら、多くのラテン世界の人々やスコラ学者に受け入れられた。だが、こうした哲学者やそれ以降の哲学者たちが、触覚において区別できると考えた感覚の数は、まったくバラバラである。テミスティオスとアヴィセンナは接触的な感じ[tactile feeling]の質の数と同数の感覚が存在するとしたが、具体的にそれが何種類なのかを特定していない。ただしアヴィセンナは、外傷から生じる痛みの感じやくすぐったさの感じを一つの感覚として区別しているように見える。アエギディウスなどは、熱冷の感覚と乾湿の感覚を想定している。アヴェロエスはくすぐったさの感覚と飢渇の感覚を見いだしている。ガレノスが熱冷の感覚を認めている点も見逃せない。
 近代の哲学者の中では、カルダーノが触覚・感じに四種類のものを区別している。まず、アリストテレスの四つの一次的な質(熱冷乾湿)の感覚、第二に、軽重の感覚、第三に、快苦の感覚、そして第四に、くすぐったさの感覚である。カルダーノの敵対者であったユリウス・カエサル・スカリゲルは、六番目の特殊な感覚として性欲を挙げ、これはベーコン、ビュフォン、ヴォルテールらが追随した。このように歴史的なコメントをつけてくると容易に分かることだが、ロックこそ飢えと渇きを接触的感覚とは異なるひとつの感官からくる感覚だとすることで触覚の複数性の問題を提起した最初の哲学者であるという見解は、まったく誤りである。またハチソンは情念に関する著作の中でこう述べている。「外的感覚をおなじみの五種類に分割することは愚かしいほど不完全である。飢えや渇きの感覚、疲労感や気分の悪さといった感覚は、五種類のいずれにも分類できない。あるいは、もしこれらの感覚を感じに還元できるとしても、それはその他の触覚の観念、たとえば冷たさ、熱さ、硬さ、柔らかさの感覚からは区別される知覚であって、このことは、そうした感覚が触覚や嗅覚の諸観念から区別される同じことなのである。さらに、こうした感覚とはまったく異なる外的感覚を示唆している者もいる」それがどういう感覚なのかハチソンは述べておらず、われらスコットランド哲学者のなかには、このハチソンのこの仄めかしの意味に思い悩んでいる者もいる。だが明らかに、ここでハチソンが言及しているのはスカリゲルの第六の感覚のことである。さらにアダム・スミスは死後出版の『外的感覚試論』のなかで、飢えと渇きは感じの対象であり触覚の対象ではないと述べている。熱さと冷たさは感じとられるものだが、それは器官を圧迫することによって感じ取られるのではなく、器官において感じ取られるものなのだと言う。カントは全ての身体感官を二分し、不定感官(Sensus Vagus)と固定感官(Sensus Fix)に分ける。前者には、熱、冷、ゾっとする感じ、おののきなどが入り、後者はさらに五感に分割される。つまり(固有の)触覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚である。

 カントの分類は目下ドイツでは一般的になってきており、不定感官は人によってさまざまな蔑称を与えられている。いわく、coenaesthesis[cenesthesis)、common feeling、vital feeling、sense of feeling、sense latioriなど。そしてこうした感官に帰される感覚には、熱、冷、おののき、元気の良さ、飢え、渇き、内蔵感覚などがある。カントの分類はまた、ジョン・ブラウン博士によっても採用されている。彼は人間の感覚を、比較的確定しているものとそうでないものに二分している。これはドイツ哲学者の言う固定感官と不定感官にぴったり対応している。