https://pulsearch.princeton.edu/catalog/1624286
- Steven Turner (1973). The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University
- 4. The reform of Prussian universities (前半 ←いまここ/ 後半)
1806年にナポレオンがイェナを攻略したことが、改革主義者たちに力を与えることになった。彼らによるとこの敗北は、機械的服従と厳しい規律の重視が生み出した道徳的頽廃の問題でもあり、プロイセンには社会的・政治的な改革のみならず、新たな国民教育(フィヒテ)による道徳の再建が必要である。個人の責任や市民的な忠誠を重視する新しい人間のみが、フランス支配下でプロイセンを維持し解放をもたらすことができる。こうした政治的・道徳的再建というより広い問題は、大学改革と分ちがたく結びついた。
これまでのプロイセン大学改革の研究は主に、ベルリン大学の創設と哲学者らの改革理念に焦点を当て、ある統一的な改革思想が制度として表現されたものが大学改革だったと解釈してきた。またこの思想は新しくラディカルなものとされ、前後の歴史的コンテクストから切り離されがちだった。こうした解釈の難点を示しつつ、本章は大学改革にとって重要だった出来事を、18世紀の制度と思考を背景にしながら概観する。更に次章以降では、大学改革が革命前期に及ぼした影響や大学学問の本性に与えた影響について考察する。
大学システムの再組織化
プロイセンの大学が経験した改革は一つではない。政情に変化にそって三つの段階があった。
第一段階(ハレ大閉校(1806)まで)
まず1806年以前の第一段階では、18世紀から続く問題であった資金、学生、規律の不足の解決が求められた。1798年に、〔国内の全大学を監督する〕ベルリンの上級監督局(Oberkuratorium)長にユリウス・フォン・マッソウ(Massow)が着任すると、彼は前年に起きたハレ大での暴動をうけ、大学の自治を撤廃し生徒への体罰を導入する計画をたてた。また、プロイセン各所にある小規模な大学を解体し、資源をより大きな大学に配分しようとした。マッソウの計画は、大学を教育中心の組織と見ること、〔その他の弱小大学に対する〕ハレ大の優先、さらに大学を必要悪(本来はギムナジウムとアカデミーがあればよい)見ること、などの点で18世紀の大学政策と連続的である。ただしどの計画も、ハレ大からの反発とナポレオン戦争により実現はしなかった。
第二段階(ハレ大閉校(1806)からベルリン大創設(1810)まで)
1806年にナポレオンがハレ大を閉校すると、プロイセンには衰退しきったケーニヒスベルク大とフランクフルト大しか残っておらず、高等教育の存立そのものが危機に陥った。ハレ大の損失をどう埋め合わせるかが、改革の第二段階の課題となった。
- ケーニヒスベルク大学の場合
ケーニヒスベルクに退いていたヴィルヘルム三世が当地の大学の窮状を知ると、1808年には大学に資金が投入され、1809年にはフンボルトの采配で、制度的には植物園、診療所、天文台などが次々に建設された。また人事的には、文献学のジュフェルン(J. W. Süvern)、哲学のフィヒテ、ヘルバルト、内科医のレーマー(W. G. Remer)、解剖学のブールダハ(Karl Friedrich Burdach)、ベア、ナチュラリストのシュヴァイガー(August Friedrich Schweigger)といった若い教授が招かれた。こうしてケーニヒスベルクは孤立した田舎大学から一級の大学となった。この地位は、ベルリン大創設(1810)やハレ大奪還の後にも維持され続けた。このことはプロイセンが一大学主義を撤回し、多くの大学を並列的に発展させる方向へ向かったことを意味する。
- ベルリン大の場合
すでにハレ大閉校以前から、ハレ大の役割を引き継ぐ新大学を求める声は存在した。こうした声はベルリン大創設に結実する。1807年、ハレ大の教授団が、ハレ大をベルリンに移すようヴィルヘルム三世に求めた。この求めは、ハレを支配するヴェストファーレン政府の反感を避けるべく却下されたが、かわりにベルリンに新大学を創設することが決定される。この決定はベルリンの知識人たちを沸かせ、フィヒテ、シュライエルマハー、ヴォルフ(文献学者)らが大学にかんする論考を著した。1808年に宰相のハルデンベルクがフンボルトをベルリンに呼び出して作業は本格化し、フンボルトはヴォルフら文献学者を主なアドバイザーとして人事を行った。1810年冬学期にベルリン大学は開かれ、初代学長にフィヒテが就任した。
フンボルトの人事がベルリン大の学問に与えた影響は大きい。プロイセン外から教授を招聘する試みはほぼ全て失敗したが、例外が法学のサヴィニー〔ヘッセン(マールブルク大)から〕と解剖学者のルドルフィ(Karl Asmund Rudolphi、ミュラーの師にあたる)〔スウェーデン(グライフスヴァルト大)から〕であった。またハレ大から、シュライエルマハー、ヴォルフ、ライル、医師のベルンシュタイン(J. G. Berstein)といったエリートが招かれた。しかし自然科学者については、衰退期にあったアカデミーに人材を頼った部分も大きかった。ここからベルリン大学では文献学や法学を中心とする人文学が栄えて学問的改革を先導し、自然科学は1820年代にようやくこの改革に合流することになる。
第三段階(ベルリン大創設(1810)からカールスバート決議(1819)まで)
ベルリン大創設以後、プロイセンは全く異なる課題に直面する。ナポレオンに対する勝利により大学奪還と新大学獲得がもたらされたのをふまえ、諸大学を合理的な仕方で配置し、真の意味での地方大学を創設する必要があると改革主義者たちは考えたのだ。この合理化には3つのメリットがあるとされた。(i)弱小大学をつぶすことで、各大学の成長のために十分な大きさの学生のプールが確保される。(ii)大学は地方に金銭や官僚をもたらすというのは18世紀にも言われていたが、さらに大学は各地方の文化の誇りとなる。(iii)中央政府への好感度が上がるし、国家の文化的統一をもたらす。このように文化的・国民国家的目的のために地方大学を使うという発想は、領邦教会的な統一のために地方大学を使うという18世紀的発想からの展開が見られる。
- ブレスラウ大の場合
フリードリヒ大王がオーストリアからシレジアを獲得したのは1740年のことだが、当地にはカトリックの神学校ブレスラウレオポルディーナがあるだけで真の大学は存在していなかった。シレジアの大学という構想はフンボルトの時には予算不足から無視されたが、〔宗務・公教育局長としての〕後任のシュックマン(Kaspar Friedrich von Schuckmann)はシレジアに共感を示していた。時を同じくしてシレジアの教会財産が世俗化され、大学計画に対して資金が投入された。またジュフェルンも1811年に、フランクフルト大をシレジアに移動してレオポルディーナに統合するというアイデアを国王に示した。そして1811年には、シレジアに新大学設立が決定される。人事としては、フランクフルト大とレオポルディーナからの異動のほか、ドイツ中から若手の人材が集められた。こうした若手の活躍により、ケーニヒスベルクの場合と同様、ブレスラウ大もプロイセンの知的主流に統合された。
ブレスラウ大の特色に、カトリックとプロテスタント両方の神学部が存在している点がある。〔シレジアはすでにハプスブルク領だったころから多くのプロテスタント住人を抱える、宗教的に複雑な地域だった〕。ハルデンベルクやスーフェルンは、地方内の宗教的統一という理念を捨てて、ブレスラウ大学をシレジア地方全体に資する大学にしようとしたのだった。両神学部の競争状態は互いに利益をもたらし、後にブレスラウ大はカトリック再興の中心地となっていく。同様の二重体制は〔やはりプロイセンがハプスブルクから獲得した〕ボンにも導入されることになる。
- 西部の諸大学のゆくえ
1813年、プロイセンは解放戦争に勝利し、ハレ大学・デュースブルク大学を奪還すると共に、ウィーン会議後にはヴィッテンベルク大学、エアフルト大学、グリーフヴァルト大学を獲得する。これにより、大学の地域的バランスという問題はより深刻なものになる。これらの大学のうち、エアフルト大学とデュースブルク大学は閉校とされた。ナポレオン占領期とそのすぐ後で、ドイツでは計24の大学が閉校となっている。他方スウェーデン領ポメラニアから獲得されたグライフスヴァルト大学は、この地方にとって重要だと考えられ、存続となった。ヴィッテンベルク大はハレ大学に統合された。さらに、新しく獲得されたライン側沿いの領域に大学を新設することが決まり、宰相ハルデンベルクの働きによって1818年にボン大学が開校する。このさいハルデンベルクとその助言者であった内科医のコレフ(David Koreff)の人事の影響で、ボン大学はロマン主義的科学・医学の中心地となった。ボン大学の生徒の多くは退役軍人であり、そのリベラルでロマン主義的な愛国主義は、ウィーン体制の保守的な動きと衝突した。1817年には過激な学生団体を批判した劇作家コツェブーが暗殺されるなどの事件が生じ、これに対して1819年にドイツ連邦はカールスバート決議を出し、大学に対する政府の監督を強化することが決定された。こうして1820年までには大学改革の時代は終わった。
まとめ
大学システムの改革により、弱小大学は廃止され、地域間のバランスが達成され、また新たな資金が大学に投入された。これにより、全ての大学がまともな経済的基盤を確保できるようになり、慢性的な金銭問題が解決された。さらに大学政策は純粋な営利を目的とするものではなく、政治的目的や国家の名誉の考慮に動かされるようになっていった。地方大学の設立は、各地方を発展させるとともに、各地方をプロイセンの主流に統合していくことを目的とする。このことは、宗教的統一性を目的とする領邦教会的な大学政策の否定でもあた。そしてこうした変化は、ナポレオン時代に生じたその時その時の急務に対処する中で徐々に生じていったものであった。