えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

プロイセンの「学問イデオロギー」 Turner (1973)

https://pulsearch.princeton.edu/catalog/1624286

  • Steven Turner (1973). The Prussian Universities and the Research Imperative, 1806 to 1848. PhD. Dissertation, Princeton University
    • 4. The reform of Prussian universities (前半 / 後半 ←いまここ)

官僚構造の再組織化

 大学システムの改革と同時に、大学を監督する官僚システムの方も改革された。この改革もまた、1806年以前に始まっていた。既に1800年頃までには18世紀的な行政システムの問題点が指摘されており、1787年にはプロイセンにおけるすべての教育活動を監督する高等学務委員会(Oberschulkollegium)が設立される。1801年にはこの委員会の権力は上級監督官(Oberkurator)としてのマッソウに集中するようになる。

 1808年になると大規模な大学行政の再組織化が始まる。シュタイン(Freiherr von Stein)による行政改革の一部として内務省が新設され、これまで法務省に属していた教育省は、宗教省と統合され、内務省第三局となった。局長は各省の大臣とともに大きな権力を与えられていた。最初の局長に任命されたのはフンボルトである。第三局には新たな権力を得ただけでなく新たな人材も得た。その好例が、ケーニヒスベルク大から第三局の教育課に入局した古典学者のジュフェルンである。彼と同僚のニコロヴィウス(G. H. L. N. Nicolovius)は、それぞれ中等教育と初等教育の制度を改革しつつ、フンボルト的な教育改革理念を押し進めていった。1810年にはフンボルトにかわりシュックマンが局長になる。彼はフンボルトの計画に連合している新人文主義や観念論哲学に興味をしめさず、フンボルトシンパからは反感をかった。しかしシュックマンがさらに出世して第三局から遠のいていったのと、ジュフェルンとニコロヴィウスの活躍によって、フンボルト的な改革の方向性がぶれることはなかった。ただし、官僚組織全体の中で第三局がもつ権力は弱くなっていった。

 この状況は、1817年に一気に改善する。ハルデンベルクがフリードリヒ三世を説得して、第三局を内務省から独立させて、文部省(Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten)に格上げしたからだ。ハルデンベルクはシュックマンが自らに敵対していると感じており、文部大臣に自らの被後見人であるアルテンシュタインを任命し、シュック万の影響力を弱めようとしたのだった。

 こうして1818年までに、官僚制の頂点に全く新しい大学行政機構ができあがった。ただし各大学のレベルでの行政再組織化は、1819年以降の政治的反動の圧力を受けて推進されることになった。カールスバート決議をうけ、各大学には行政全権代理(Regierungsbevollmächtigter)がおかれ、出版と講義を検閲することになった。だが1820年代前半を通じ、この役職は徐々に力を増して各大学における国家の最高代理人となっていき、大学の発展に大きな(おおむねプラスの)役割を担うようになっていった。全権代理は文部大臣にしか責任を負わなくていいため、大学に国家の権力をおおきく拡張させることができた。

 あとから振り返ると、以上の各段階はすべて、大学に対する国家の権力を強化する方向に向かっていると言える。18世紀的な、各大学の教授が行政権力を握るという構造は逆転され、各大学に対しベルリンが指示監督を行う新しい道が開けた。こうしてプロイセンには、史上先例のない、効果的で強力でしばしば抑圧的な行政機械が誕生したのだった。

学問イデオロギー

 第1章でみたように、18世紀の大学の問題点の多くは、大学の道徳性・教育的価値に対する民衆の信頼が揺らいだところに起因している。この点に鋭く気づいた少数の学者たちは、ドイツ大学を精神的・道徳的に回復させようとした。彼らの見解の共通部分を「学問イデオロギー」と呼ぶことができる。その主唱者は6人、フィヒテ、シェリング、シュテフェンス、シュライエルマハー、ヴォルフ、フンボルトである。彼らの経歴から分かるように、学問イデオロギーは観念論哲学と新人文主義という2つの知的伝統から生まれた。観念論哲学者は自らの哲学を新しい大学カリキュラムの中心におき、その哲学の観点からその他の学科も学ばれるべきだと考えた。また、大学における学びを「学問」(Wissenschaft)と規定し、学問を自らの哲学で定義づけた。他方、新人文主義者たちは文献学に通じており、ギリシャ・ローマに学ぶことで学生の道徳的・美的感受性が強化されるとして、哲学よりも古典研究をカリキュラムの中心に据えようとした。彼らは個人的影響によって、とくにフンボルトを通して、観念論者たちよりも大きな影響を大学改革に与えた。2つの伝統はときに深刻な不整合をきたすことがあった。したがって学問イデオロギーとは、これまで考えられてきたような単一で整合的な理論ではない。とはいえ、やはりいくつかの共通する主題があり、それを学問イデオロギーによる改革プログラムのココロだと見なすことはできる。

I. 「学校くささ」と「食うための研究」

 学問イデオロギーは、18世紀の改革プログラム、とくにゲッティッンゲン大学のそれに強く影響されている。すでにゲッティンゲン大の改革の際、教育を重視する改革は大学の自由と制度を破壊されると懸念されていた。この区別を学問イデオロギーの主唱者たちは先鋭化し、固定的カリキュラムに従って訓練を行う場所としてのギムナジウムと、判断力や自立的思考を養う場所としての大学を峻別した。またシュライエルマッハは、知識伝達の場としての学校と、知識発見の場としてのアカデミーを区別し、この両制度は他国にもあるとした上で、両者のあいだにあって批判的能力を鍛えるものこそ、「ドイツ的な意味」での大学であると主張した。こうして、教育重視の改革案は「学校くさい(schülmassig)」と侮蔑されるようになった。
 
 他方で、大学は専門化したアカデミーでもない。専門性を強調しすぎると、大学の理想主義的な目的が台無しになると考えられたからだ。専門性を強調しすぎると、学生は「食うための研究」(Brotstudium)に集中してしまい、判断力を鍛えるという本来の目的からそれ、また実利主義的・物質主義的な態度、ひいては道徳的貧困を招く。専門教育を行う前に、まず哲学部で科学、古典、哲学を十分学ぶべきである。

II. Wissenschaftの理念

 ゲッティンゲン大学の改革者たちは、理想的に教育された人物像を積極的に打ち出せなかった。これに対し学問イデオロギーの主唱者たちは、それを打ち出している。すなわち「Wissenschaftの理念に目覚めた」学生(シュライエルマハー)である。しかしWissenschaftとは何か。18世紀には、Wissenschaftという語はあまり使われておらず、Wissen(知)やGelehrsamkeit(学識)などが好まれていた。しかし1790年以降、Wissenschaftはカント主義およびポストカント主義的哲学の中で専門用語となり、爆発的に使われ始める。

 Wissenschaftの意味をシェリングに従って見てみよう。シェリングによると、絶対者は「実在」と「理念」という2つの様式で存在する。ただしこの両者は表裏一体なので、私たちは経験的な科学や歴史学によって、理念を支配する法則を知ることができる。というより、経験的探究によって〔普遍的なものである〕知識が得られると言う時私たちは、常に実在と理念の同一性を前提にしているのである。この同一性に関する知識がWissenschaftであり、こうした同一性が存在するという哲学的洞察がWissenschaftの理念である。Wissenschaftの理念は全ての人間に生得的に備わっている。というのも、ミクロコスモスである人間はそれ自身において実在と理念を組み合わせており、この統一に関する知識(Wissenschaft)の写しとして始めて、私たちの全ての知識体系が可能になっているからだ。自らのうちに実在と理念の統一をもつ人間は、常に潜在的に、Wissenschaftの理念をもつ。必要なのは、その理念を教育により目覚めさせることだけである。ここから、真の教育とは学生にただ情報を伝達するものではなく、学生のうちなるポテンシャルを、学問(Wissenschaft)に触れさせるによって芽生えさせ成長させることだということになる。

 理論家たちはおおむね以上のような見解を共有していた。こうして観念論哲学から「学問」や、その他「教養」「文化」といった新しいカテゴリーとそこに宿る認識論〔理想的な知識の獲得法に関する理論〕が、学問イデオロギーに導入された。しかしこれらのカテゴリーは〔必ずしも観念論哲学的ではない〕より保守的な目標を正当化するためにも用いられることになった。だがこのことは、新たなカテゴリーが無意味だったということではない。こうしたカテゴリーはすぐに専門用語を超えて歴史的・感情的意味合いを獲得し、観念論哲学の衰退の後も大学教育の理念として残り続けていく。

III. 学問と道徳性

 学問イデオロギーの主唱者たちは、大学改革を知的な改革であると同時に道徳的改革であると捉えていた。学生の乱暴さや、怠惰・俗物といった教授のイメージに対処すべく、大学での学問を道徳性と結びつける努力がなされた。「学問」というアイデア自体、学生を目覚めさせることで道徳的理念を洞察させるという倫理的なものであった。フィヒテは、教授は人類の指導者・教師であるべきだと論じ、自ら道徳的であるだけでなく道徳の教師になるべきだと主張する。シェリングは、学問に対し勤勉でなく時間や金銭を浪費するものは大学から追放すべきだと論じる。また彼らはただ説教するだけでなく、学生のリアル暴力とも戦っている。フィヒテはイェナでもベルリンでも暴力的な学生団体を解体しようとし、家を襲撃されたりしている。シュテフェンスも同様である。

 つまるところ、学問イデオロギーは大学の知的復興を遥かに超える目標を持っていた。大学の教育的および実利的理解を批判し、教授の理想主義的使命に根拠を与えること。大学での学びを「学問」というアイデアに基礎づけることで、改革の理念を当時の認識論に結びつけること。学者は倫理的本性をもつと強調し、大学の道徳性に関する信頼を回復すること。これら三つの根本目標に加え、以下の章では学問イデオロギーのさらに2つの信条、創造性と発見の重視、国家と大学の新しい関係、を検討していく。

プロイセンにおける改革主義者の勝利

 学問イデオロギーは1820年までに完全勝利した。はじめはプロイセンで、つづいてドイツ全土で、フィヒテやフンボルトのアイデアや言語が取り上げられた。プロシセンの官僚たちもこの思想をとりあげ、これを大学・ギムナジウム行政にかんするプロイセン公認の方針としていった。学問イデオロギーには国家主義的な色彩もあったが、三月前期の政治的反動のなかでもほとんど攻撃されなかった。学問イデオロギーの勝利により、大学は人々の尊敬を新たにしたようだ。大学への入学者数、アカデミックキャリア希望者数、そして大学の資産はいずれも増大し、反大学的な文献も激減した。
 
 こうした成功の原因は、学問イデオロギーの主唱者たちの人格に求められる部分も大きい。また、1813年にプロイセンがナポレオンに勝利したことが、プロイセンを中心とした学問イデオロギーと大学改革の勝利にも繋がった。さらに学問イデオロギーがひろく受容されたのは、それがナポレオン支配下におけるプロイセンとドイツの再建に結びついていたからであろう。戦後も、大学改革と教授や学生の解放戦争での活躍は、2つの不可分の伝説となっていった。

 成功の原因は何であれ、制度的・行政的・イデオロギー的な大学改革によりプロイセンの大学システムは完全に変化した。こうした改革は、大学内部での文献学的・歴史学的・法学的学問の復興と並行しており、この両者が背景となって、プロイセンの大学は学問・研究へ制度的にコミットメントしていくことになる。