The Social Psychology of Morality: Exploring the Causes of Good and Evil
- 作者: Mario Mikulincer,Phillip R. Shaver
- 出版社/メーカー: Amer Psychological Assn
- 発売日: 2011/09/15
- メディア: ハードカバー
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- Mikulincer, M. and Shaver, P. (eds.) (2012). The social psychology of morality. Washington, DC: American Psychological Association.
1. Graham, J. and Haidt, J. Sacred values and evil adversaries: A moral foundations approach.
2. Cushman, F. and Greene, J. The philosopher in the theatre.
4. Bloom, P. Moral nativism and moral psychology ←いまここ
16. Doron, G., Sar-el, D., Mikulincer, M. and Kyrios, M. When moral concerns become a psychological disorder: The case of obsessive-compulsive disorder
20. Baumeister, R. Human evil: The myth of pure evil and the true causes of violence.
【要約】
人間の道徳性がどの程度生得的かという点は古くから問題となってきた。近年の赤ちゃんに関する研究によれば、赤ちゃんは大人と同じような洗練された道徳性をもつわけではないが、そうした洗練された道徳を可能とするような一定の情動反応(関心や選好のもちかた)をすることが分かってきている。ただし、私たちの道徳性はその全てが情動に依拠したものではない。赤ちゃんは発達して熟慮できるようになり、熟慮は新たな道徳的洞察を生み出す。この熟慮の側面に焦点を当てた研究がさらに求められる。
- 道徳心理学は古くて新しい
- 多くの問い・理論は哲学者や神学者が提起してきたもの
- 科学的研究は最近
- 本章も古い問いに取り組むが、新たな研究と理論に焦点を当てる
- 問1:人間の本性的な道徳的素質はどのようなものか
- 問2:道徳判断はどのていど情動によって生み出されるのか
人間の本性的な道徳的素質はどのようなものか
- 人間の道徳理解はどの程度が生得的なものなのだろうか?
- 生得的 = 学習されたのではない
- 道徳的信念や道徳感情が学習されたものなら、それは適切な種類の情報に晒されることによって獲得されたもので、文化ごとの変異があることが期待できる。生得的であれば逆のことが言える。
- 生得的 = 学習されたのではない
道徳的普遍の問題
- Prinz (2009) ……道徳の生得性を否定
- たとえば危害の禁止は普遍的なものではない。人は実際常に他人に危害を加えてきたし、そうすることが賞賛されるときすらある。
- 自衛、戦争、尊厳の防衛、警察、スポーツ、刑罰、しつけなど
- たとえば危害の禁止は普遍的なものではない。人は実際常に他人に危害を加えてきたし、そうすることが賞賛されるときすらある。
- 生得論者の反論:生得的な禁止は、単に「危害を加えるな」のような形式ではなく、もっと細かいものなのではないか。
- 相手との遺伝子的・社会的距離を計算に入れたり、他の規範とバランスをとるようなものになっているのでは?
- プリンツの再反論:このような込み入った形での禁止は、合理性や社会の安定性に関する考慮が行われた結果だと考える方が、生得性で説明するより倹約的である。
- この場合、道徳的な普遍が存在するとしても、それは社会を維持するのに必要なしごとが各文化で同じだからだと説明できる。
- たしかに、道徳直観は部分的には社会的条件への応答である
- 例:資源が貴重でありその保護と公平な分配を任せられる権威が存在しない社会では、応報をゆるし無礼に厳しい名誉の文化がうまれやすい(Nisbett & Cohen 1996)。
- とはいえ、あらゆる道徳的反応が社会善のために働く文化的構築物だとは考え難い。
- 我々は、近代世界において非適応的な道徳的反応をたくさんもっているから(例:罰についての直観)
- 結局のところ、道徳反応のうちどのくらいが社会経済的条件への応答だと説明できるかは経験的問題である。また別の関連する経験的研究としては、霊長類の研究や、著者自身のフィールドである発達研究がある。
- とくに、幼児の研究は生得性の問いに直接的に関係しているが、これまでのところあまりなされてこなかった。
道徳的赤ちゃんの問い
[1] 道徳的反応
- 昔から知られていたが、他人が苦痛を感じていると赤ちゃんは不安がる。
- 他の赤ちゃんが泣いていると泣く(Simner 1971)
- 可能な場合、慰めようとする(Sagi & Hoffman 1976)
- 霊長類も同じようなことをする(サルはしない)(De Waal 2001)
- とくに頼んでないし報酬がなくても、見知らぬ大人を助けてくれる(Warneken & Tomasello 2006, 2009)。
- このような感受性と傾向性はより成熟した道徳性とどう関係するか?
- 成熟した道徳性……様々な人の様々な行為を評価でき、その評価は賞賛と罰の体系や、怒り・感謝、罪悪感、さらには公正や正義と結びついている。
- 赤ちゃんは、このような意味での道徳性には届いていない。
- 赤ちゃんの見せる上のような反応は、大きな音を聞いて怖がるのと同じような、特に道徳的でも社会的でもない反応なのかもしれない。
- 成熟した道徳性……様々な人の様々な行為を評価でき、その評価は賞賛と罰の体系や、怒り・感謝、罪悪感、さらには公正や正義と結びついている。
- だが、出発点としてこうした反応がない道徳体系は考えがたい。
- ヒュームが指摘したように、理性だけで考えるなら、指を掻くこととひきかえに世界を崩壊させることには何のおかしいところもない。〔これがおかしいと思われるのは〕、我々にとって何が重要なのか[what matters]を情動が定めているからだ。
- 赤ちゃんにおける上のような情動の出現は、〔道徳体系を可能にするような〕重要性〔の理解〕の発達だと考えることが出来る。
- ヒュームが指摘したように、理性だけで考えるなら、指を掻くこととひきかえに世界を崩壊させることには何のおかしいところもない。〔これがおかしいと思われるのは〕、我々にとって何が重要なのか[what matters]を情動が定めているからだ。
[2] 行為の評価
- 赤ちゃんは他人の行為を評価する能力を持っているか?
- Premack & Premack (1996) は、注視時間を測定することで、赤ちゃんが様々な行為をどのようにグループ分けするかを調べた。
- 幼児は、隙間を抜けようとする人を押してあげることを、人をなでてあげることと同じグループに入れ、隙間を抜けられないよう妨害することを、人をぶつことと同じグループに入れた。
- 前者2つの行為は(見た目は全く違う行為であるが)ポジティヴで、後者二つはネガティヴだと理解しているように見える。
- 幼児は、隙間を抜けようとする人を押してあげることを、人をなでてあげることと同じグループに入れ、隙間を抜けられないよう妨害することを、人をぶつことと同じグループに入れた。
- この結果は多くのさらなる探究を生んだ。筆者らも、人Aが山をのぼるのを上から押してくるB(いじわる)と、下から押してあげるC(協力者)という光景を用いいくつかの実験を行った。
- この光景を踏まえると、Aはその後BではなくCに近づいていくと大人なら予測するだろう。注視時間を測定することで、9・12ヶ月の幼児も同じ反応をすることがわかった(Wynn in press)。
- また幼児自身も、BかCかどちらかに近づく機会が与えられると、Cに近づく傾向が見られた。ただこれだけからは、幼児はBを避けているのかCにひきつけられているのかが区別できない。そこで、Aに対して中立的な登場人物[D]を用意してやると、子どもはBとDならDを、CとDならCを好んだ。つまり幼児は、Bを避けるのと当時にCにひきつけられている(Hamlin et al. 2007)
- このような実験は何を示しているか。幼児の他人に関する予測と選好は、人物の良さや悪さの知覚によって動機づけられている、と解釈したい。
- 幼児がまさに良さや悪さに反応していることを明確にするために、他の種類の刺激を用いた実験も見ておく。
- 箱を開けようとしている人がいるが、フタを半分開けたところであきらめて箱を見ている。ここで、フタをあけてあげる人形もしくは閉じてしまう人形が提示される。3および5ヶ月児で、前者の人形が好まれる(Hamlin and Wynn in press; Hamlin et al. 2010)。
- ボールを投げられたときに、投げ返す人形と放り投げてしまう人形が提示される。3および5ヶ月児で、前者の人形が好まれる(Hamlin and Wynn in press; Hamlin et al. 2010)。
- 大人の道徳性から言うと、良い行為にはポジティヴな反応が、悪い行為にはネガティヴな反応が返されるべきだと思われる。そこで21ヶ月児に良い人と悪い人を見せ、どちらの人にお菓子をあげる/から奪うかと尋ねた。良い人にはお菓子を与え、悪い人からは奪う傾向が見られた(Hamilin et al. 2011)
- さらに、(1)良い人にお菓子をあげる人形、(2)良い人からお菓子を奪う人形、(3)悪い人にお菓子をあげる人形、(4)悪い人からお菓子を奪う人形、の4種類の人形を用意し、8ヶ月児がどの人形を好むかを調べた。まず(1)と(2)では(1)が好まれるが、これだけなら好社会的行動をする人は好まれる一般的傾向で説明できるかもしれない。だが(3)と(4)では(4)が好まれることがわかった(Wynn in press)。
あげる | 奪う | |
良い人 | (1) | (2) |
悪い人 | (3) | (4) |
- このように、幼児であっても、かなり色々な行為に関して大人と同じような道徳的評価していることが示唆される。
だがそれは道徳なのか?
- 批判者は、このような評価にはとくに道徳的なところはないと言ってくるかもしれない。
- たとえば、お菓子をくれるジェーンと斧を振り回すジョンという二人の人物がいるとして、あなたがジェーンよりジョンを避けることとか、あるいはどちらかを罰せよと言われればジョンを罰することとかは、他人に関する一般的な理解と標準的な自己関心にもとづいて説明することも出来てしまう。
- 本当に道徳的評価を下しているのかどうか、大人になら言語的に聞けばいいが、幼児相手だとこの方法は使えない。
- たとえば、お菓子をくれるジェーンと斧を振り回すジョンという二人の人物がいるとして、あなたがジェーンよりジョンを避けることとか、あるいはどちらかを罰せよと言われればジョンを罰することとかは、他人に関する一般的な理解と標準的な自己関心にもとづいて説明することも出来てしまう。
- だが、大人の道徳感覚の中核部分を子どもがたしかにもっていると考えられる根拠が3つある。
- (1)子どもは、大人と同じように、行為の性質のうち道徳的に重要なものに反応していること。
- (2)進化論的に考えて、良い奴と悪い奴を区別する能力が進化してきたと考えることは尤もらしいこと。
- ただし、適応的能力は標準的な発達のコースの中で現れてくればじゅうぶんで、必ずしも生得的なものである必要はない。
- (3)子どもが人形たちに反応するさい、大人の道徳性に関連しているのと同じ情動が見られること(不満足、心配、怒りなど)。
- 最後に、これまでの提案が道徳性の発達的起原に関する既存の2説とうまくかみ合うかを検討しておこう。
(1)道徳文法
- ロールズ、チョムスキー、ミハイル、ハウザーらは、生得的な言語能力のようなものが道徳にもあるのではないかというアナロジーを提起した。
- 言語の知識(能力)と実際の発話(運用)は別物であり、またある文が文法的に的格なのが何故かを説明することは難しい。同じように、何が正しいと思われるか(能力)と実際にそのように行為するか(運用)は異なっており、道徳判断の理由へアクセスすることは難しい。
- このアナロジーにはしかし限界もあると思われる(Bloom & Jarudi 2008)。言語の場合、再帰的規則を単位に繰り返し適用することで潜在的には無限の文を生成できるが、道徳はそのようなものには見えない。道徳的普遍があるとすれば、いくつかの規則のリストという形になるだろう。
- だが、道徳的直観は完全に学習の産物な訳ではないと考える点で、筆者らの見解と道徳文法は一致している。筆者らが研究してきたのは、発達の初期に現れる荒っぽい区別だが、これが道徳文法家が探究しているさらに細かい区別とどう関係するか、さらなる研究が待たれる。
(2)道徳基盤理論
- 道徳には5つの生得的領域があるとするハイトの見解は、筆者らの見解と非常に良くマッチする。筆者らのこれまでの研究は危害/ケア領域における初期の能力を示したと言えるからだ。
- 公正/互酬・内集団/忠誠領域にかんしても、近年類似の研究が出てきた(Geraci & Surian 2010; Kinzler et al, 2009)。自律/尊敬・純粋さ/聖性の領域についてはデータが少なく、発達の後の方に現れるようだが、生得的基盤をもつと言える可能性もある(Bloom 2004)。
道徳判断はどのていど情動によって生み出されるのか
- 近年、プリンツ、ダマシオ、ハイトらは、合理的熟慮は道徳判断において重要な役割をほとんどになっていないと言う見解を打ち出してきた。これは、理性は情念の奴隷だというヒュームの見解に似ている。
- これまで紹介してきた発達研究は、このヒューム的描像をかなり支持する。
- ここまで、初期の道徳理解には二つの基盤があること述べてきた。情動的反応と行為の評価である。行為の評価の方も、笑み、手ばたき、困り顔、悲しそうな顔などが伴っており、情動的なものに見える(Hamlin 2010)。
- ※ただし、道徳判断に情動が付随していること自体は、情動が判断を引きおこすとも、判断が情動を引き起こすとも解釈できる点には注意が必要である(Huebner, Dwyer and Hauser 2009)。
- ※また、情動は相当洗練された状況分析の上に成り立っていることにも注意を払う必要がある。だれが被害者、救助者、悪者なのかを理解しなければ怒りや共感は抱けないし、そのためには行為に関する豊かな理解が要る。
- こうした点に注意した上で言えば、幼児は情動反応に結びついた(準)道徳的判断を行い、しかもその判断は明らかに熟慮にはもとづいていない。赤ちゃんはヒューム主義者なのである。
- ここまで、初期の道徳理解には二つの基盤があること述べてきた。情動的反応と行為の評価である。行為の評価の方も、笑み、手ばたき、困り顔、悲しそうな顔などが伴っており、情動的なものに見える(Hamlin 2010)。
- だが、幼児は発達し、子どもや大人は熟慮の能力をもつ。そしてこれにより、道徳的前進、中立的に言えば一定方向への道徳の変化が可能になる。
- かつて、人の共感は狭い内集団にしか及ばないときがあった。しかしその範囲は、見たこともない人、マイノリティ、動物へとどんどん拡張の方向へ向かっている(Singer 1981)。この定向性は、服や味の好みの変化にはない。
- どうしてこのような拡張がおこるのか。一つは、人々の生活の相互依存性が高まり、(リアルもしくはヴァーチャルに)対面する人数がどんどん増えていることにある。
- だがこれだけでは、〔もともと依存・対面していた〕マイノリティや動物への拡張をうまく説明できない。
- そこで、この拡張は、新たな道徳的洞察が生み出されたことによって起こったと考えたい。たとえばシンガーは、道徳性は客観的な立場から構築されなければならないという考えは道徳性にかんする偉大な洞察であったと述べた。
- この考えは、黄金律、アダムスミスの「公平な観察者」、ロールズの原初状態のなかに刻み込まれている
- たしかに、こうしたアイデアが一般に広がっていく過程は、そのほとんどが熟慮的ではないものだろう。だが心理学者としては、そもそも人が奴隷制は悪いという洞察に至りしかもそれを他人に説得できるというのはどういやって可能なのかを説明しなければならない。
- これを説明することは、ヒュームを超えていくことでもあるのだ。
結論
- 道徳的前進の存在は、人間には道徳を生成する能力、新たな道徳的見解に至ることが出来る能力があることを示している。この点にこれまでの心理学者はほとんど注目せず、道徳的ジレンマのような人工的状況で人がどう反応するかという点ばかりを見てきた。より自然な状況でひとがどのようにして道徳的判断に至るかという、重要だがほとんど完全に謎のままになっているプロセスの解明をさらに進めなければならない。