http://quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx?c=spobooks;idno=6782337.0001.001The Possibility of Practical Reason
- 作者: J. David Velleman
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2000/12/28
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- Velleman, D. (2000). The Possibility of Practical Reason (Oxford University Press)
2. Epistemic Freedom ←いまここ
5. The Guise of the Good
6. What Happens When Someone Acts?
【要約】
私たちは自己充足的な予言によって未来を予測することができる。この種の予言は、一定の範囲内でどの予言をすることも正当であるという特徴を持っており、未来を予測するにあたって現在の証拠から一意に正当化されるような予言は存在しない。このことは実際に何を予言するかが決定されていたとしても変わらない。そしてすべての意思決定は自己充足的予言だと理解する事ができるので、私たちは意思決定に際してこの「認識的自由」という意味で自由である。しかしこの自由を私たちは形而上学的自由と取り違えている。
◇ ◇ ◇
- 私たちが持っている自由は因果的なものではなく認識的なものであるから、決定論と両立する。この認識的自由の感覚を、私たちは誤って形而上学的に自由なのだという感覚ととりちがえている。
未来の開け
- 未来の出来事は部分的に未決定であり、決定されるべき何か我々には残されていると私たちは感じる。この感覚は、未来の出来事の非決定性の反映であるように思われるが、この感覚は幻想である。未来の開けの感覚は非決定性から生じるが、それは形而上学的なものではなく決定論と両立する。
- 未来が展開する特定の仕方があるなら、未来をその展開に従って正しく記述する方法があると私たちは考える。そして、現在が未来を決定するなら、現在の正しい記述は未来をどう記述するかを決定すると私たちは考える。
- だがこれらの想定は誤りである。未来が特定の道を通るとしても、その未来を正しく記述するにあたって、その道を通ると記述する必要は無い。他にも同様に正しい記述の仕方が存在するのである。
自己充足的予言
- 幾つかの未来の記述は自己充足的予言であり、このために私たちは未来を正しく記述することができる。「ナースが手術室におつれしますよ」という医者の発言を、ナースは暗黙の命令と解釈し、この主張を真にする(アンスコム)。
- この例のポイントは、「ナースがラボにおつれします」などと主張しても、医者は同等に正しいという点にある。彼は一定の範囲内で、両立しない事柄のうちどれを主張しても正しい。この限りで、彼は認識的に自由である。
認識的自由と決定論
- このことは、ナースの手術室へいく行動が決定されていても変わらない。この行動の理由は、医者が手術室に連れて行けと言うことが決定されていたということになる。そしてそれは、医者が別のように言ったらナースは別のようにしただろうという事実を脅かすものではない。
- 医者の認識的自由は、「実際に起こらなかった出来事を予言していたとしても正しかった」という事実に存している。この自由の感覚を生み出しているのは、現在の証拠からはいかに未来を記述すべきかを決定できないという事実、証拠からの自由である。
証拠からの自由
- アンスコムは医者の主張は証拠に基づかないとしたが、実際はナースが暗黙の教示を理解してくれるだろう、これまでこの種の教示に従ってきた、等の証拠がある。ただし、無数の別の行為についても類似の証拠があるため、医者には証拠によってどの主張をするかが指定されている訳ではない。
- この非決定は、現在の状況についての医者の無知に由来するものではない。仮にナースの行動に関連する情報を全て知っていたとしても、医者が「ナースがラボにおつれします」と言うことは正当である [licensed]。
- 第三者の観察者の場合、手術室へ行く以外の予言を行うことは出来ない。観察者には証拠によって、医者が手術室に行くよう予言するからナースはそうすると示されているからだ。だがこの証拠は医者にとっては、自分がその予言をしなければならないと示すのではなく、一定の範囲内で何を予言してもそれが外れることはないことを示す。従ってこの証拠の中には、証拠が決定的に示すものへの反対を正当化する「核心部分」が含まれている。
因果的自由 vs 認識的自由
- 医者が「ラボにおつれします」と言うことは因果的には不可能だ。ここで、行使しないと保証されている正当性[license]はまやかしだと思われるかもしれない。だが実際的効力にかかわらず、この正当性は持つ価値がある何物かである。予言に関連する他の証拠にかかずらう必要がなくなるからだ。
- 証拠にかかずらわず好きに予言が出来るのは、自分は証拠によって既に支持されている予言をすることが保証されていると医者が知っているからだと思われるかもしれない。たしかにこの保証はある。だが、それは医者が患者の未来について予言するさいに全く必要とされない。その予言にとって重要なのは、自分が「手術室におつれします」と言うだろうという事実である。[?]
完全な証拠 vs 不完全な証拠
- もし医者に証拠の「核心部分」がなければ、他の証拠によって特定の予言が彼に指定される。例えばナースの人生の全てが記録された本を医者が手にしたとする。彼はナースがこの後患者を手術室に連れて行くという記述を読み、この情報は患者に伝えた方が良かろうと「ナースが手術室におつれしますよ」と述べた。ナースはこれを聞いて実際にそうした。この医者の予言は証拠によって指定されており、別のことを言うことは出来ない。
- だがこれは本の情報が不完全だからだ。「医者の「ナースが手術室におつれしますよ」という発言を聞き、これに従う」という記述があったならどうか。この時彼は自分が発言しなければ本の予言はあたらないと気づき、また別の予言を正当に出来るということにも気づくだろう。
- もちろん医者はナースが手術室に連れて行くと結局は言う。だがそれは、患者に情報を伝えるのに本を反復するのがよいと考えるからではない。実際、医者がそのように考えるなどと本に書くことはできない。それを読んだ医者には、そのように考える必要は全くないからだ。
- むしろ本には、医者の認識的自由を残し、「医者はナースに患者を手術室に連れて行って欲しいと思い、「ナースが手術室におつれしますよ」と言い……」と書く必要がある。これを読んだ医者は、「そう、これがしたいのだ!」と考え、実際にそう主張する。この主張は彼の欲求からなされるのであり、証拠に指定されたからではない。このように本に情報を追加すると、医者には「核心部分」が手に入り、医者に予言を指定する権威は本から消えるのである。
Q&A
- 本からナースが手術室に行くと知った医者は、「ナースがラボにおつれします」は偽だと知っており、なのでこれを言うのは正当ではないのではないか。
- 医者は十分な証拠でその主張は偽だと信じたし、実際偽なので、彼は本当に偽だと知っている。だが、偽なのは彼が実際主張しなかったからであり、もしすれば偽ではない。だからこそ、彼がこれを言うことは正当なのである。
- [以下省略]
更なる議論
- 認識的自由については、トリヴィアルだという反応と不可能だという反応がよくある。トリヴィアルというのは、これはつまり「人はいつでも「私は喋っている」と言うことは正当だ」と言っているようなもので、こんな当然事から重要な含意は出てこないとする。確かにこの事例と医者の事例は似ている(ので、不可能だという反論はおかしい)。
- しかし「私は喋っている」の例もまさに、人は偽だという決定的証拠があるときでさえ特定の主張を正当にできることを示している。そんなの当たり前だと言われるかもしれないが、認識的自由の経験と自由意志の経験と関係していることは言われてこなかった。
一人称における自由
- 医者には、ナースについて予言しなければならない一つの行動は存在しない。この意味で、医者の視点から言うとナースの行為は未決定だと言える。
- 同じことは医者本人にかんしても言える。通常、自分の未来に関する自由は決定の自由であって予言の自由ではないとされる。しかし自己充足的予言についてこの二分法はうまくいかない。ウェイターの「何にします?」に対し「クラブサンドにします」[I will have a club sandwich]と答える時、これは決定の表出であるとともに自己充足的主張でもある。これが命令ではなく主張だと言うのは例えば、「鳥を切らしてまして」に対し「じゃあクラブサンドにはできないってことですね」[I won’t have a club sandwich] と答えるとき、この主張は偽であり不発であったとみなしている事からもわかる。
自由の感覚
- ウェイターの問いに対し自分の未来が開かれていると感じるのは、自分が言わなければならない一つの事など無いとあなたが知っているからだ。そして、この認識的自由はあなたの実際の行動が決定されていると事と両立する。しかし人は、認識的自由と因果的自由を容易に取り違えてしまう。
意志は引き起こされうるの?
- この誤りは哲学者の中にも見られる。たとえばジネ [Ginet] は、人は自分の行為を予測できないが何をするか実際意志決定するという事実と、もし意志決定が因果的に決定されているなら行為の予測は可能なはずだという前提から、意思決定が因果的に決定されている事はありえないと論じた。
- 彼の誤りは、予測が可能なのであれば、行為がどうなるかという問いは閉じ、意志決定は空虚になる、という前提にある。上述のように、自分が結局何をするか知っていてさえ、他の事をするだろうと言うことは正当である。あなたの視点から見れば、行為がどうなるかの問いは開いているのだ。
- なお全ての意志決定は自己充足的予言であり、全ての意思決定が認識的自由を享受していると考えられるが、この点は別項で論じた。
二次性質としての自由
- さて、以上の議論は伝統的な責任の両立論的説明を改良する。伝統的な両立論は、私たちが「自由」と言う時に意味しているのは形而上学的自由ではないとしてきたが、これには無理がある。談話の意味を変えることはせずに、形而上学的自由は二次性質なのでその帰属は体系的に誤っており、ただし実践的には正当化されうる、と投影主義的に主張するのが良い。この投影によって、認識的自由と形而上学的自由は混同される。
- 形而上学的自由の帰属は誤りなのだが、これは一定のクラスの行為、行為者が認識的自由をもつ行為をよくトラックしている。このクラスの行為は、行為者が自分がそうするだろうと思ったことのみから生じた行為なのだから、責任や賞賛帰属に適したものだ。従ってこのクラスを同定する事には重要なことであり、〔形而上学的自由の帰属は正当化される〕。