えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

タルドの犯罪研究 夏刈 (2008)

タルドとデュルケム―社会学者へのパルクール

タルドとデュルケム―社会学者へのパルクール

  • 夏刈康男 (2008) 『タルドとデュルケム:社会学者へのパルクール』 (学文社)

第二章 犯罪社会学者、タルドの誕生

  第三共和制のフランスでは都市部への人口流入と不況から犯罪が社会問題と化し、骨相学をはじめとする犯罪研究が盛んになりました。その中で、遺伝的生物学的要因を重視したロンブローゾを中心とするイタリアの犯罪人類学が注目を集めます。

  サルラの裁判所で働きつつ余暇で犯罪研究をしていたタルドは、はじめこそイタリア犯罪学派と交流したものの85年付近に離反し、社会的説明を重視するようになります。この時期の研究をまとめた『比較犯罪学』(1886)はカルノーの教えを導きに、司法統計局から送られてきた約半世紀の統計年報をデータとし、「軽犯罪の増加」と「再犯の増加」の傾向を突き止めます。そしてその原因は、模倣により生じるはずの道徳性の破断に犯罪の増加を求め、また犯罪の模倣による習慣形成が再犯を生む、といった風に、模倣を元にした心理・社会的要因に求められます。またイタリア学派が主張した犯罪や自殺と気候の直接的関係を否定し、これも模倣論の観点から捉え直していきます。

  こうした研究によりタルドは、やはりロンブローゾに反対し社会環境を重視していたリヨンのラカサーニュ(Alexandre Lacassagne)らに接近し、フランス学派(リヨン学派)の雑誌「犯罪人類学紀要」(Archives de l’anthropologie criminelle)での活躍がはじまります。89年に掲載された「シャンビジュ事件」では、心中未遂事件の生存者の詳細な生活誌からパーソナリティ形成の歴史的再構成(「心の歴史的分析」)を試み、評判となりました。

  これらの活躍と友人達の後押しも一つの機縁となり、タルドは94年に司法省統計局長に転任、パリに栄転することになります。