えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道具的理性は実践理性ではなく理論理性の一部なんだよ Setiya (2007)

http://www.jstor.org/stable/10.1086/518954

  • Setiya, K. (2007). Cognitivism about Instrumental Reason. Ethics, 117(4), 649-673.

 道具的理性にかかわる有名な論文を読みました。たいへん啓発的でした。
 ものすごく大雑把にまとめます。まず、「ある意図を形成したらそのための手段をとらなければいけない」と思われます(道具的理性の要請)。しかしこれを、「意図を持つと手段を行う理由が生じるんや」という風に理解すると、「えっ、意図を持つとか持たないとかいう心のあり方だけで行為すべき理由が生じたり生じなかったりするのおかしいやん?」ってなって、困る。そこでSetiyaは、意図の構成要素に「信念」があることに注目します。例えば、キュウリを食べることを意図しているなら、「あっ自分はキュウリ食べるんやろな」って分かっているはず。そしてさらに、「キュウリを手に入れるためには川にいかなあかん」とわかっているなら、「自分は川に行くんやろな」と考えないと、思考が不整合になってしまう。なので、「自分は川へ行くんやろな」という信念を手に入れて不整合を回避するために、「川へ行くで」という手段に関する意図を形成しなくてはいけない。とこういう風に、「意図を持ったら手段を取らなければいけない」という一見「行為」にかかわる原則は、徹頭徹尾「認識」の整合性にかかわる原理なのだーというわけです。なおこの要約はイメージです。本体は以下です。

  ◇  ◇  ◇

  • ある目標を意図しているならば、それに必要な手段をとる「べき」だと思われる(「道具原理/仮言命法」)
    • しかし……「庭の草を数えることに決め、それには本数を記録しておくことが必要だが、記録しない場合」を考えよ
      • 庭の草を数えるなどということはすべきではない
      • 従って、本数を記録する理由は無いように思われる
  • パズル:以上のことを矛盾せず主張することは出来るか?

  • 道具原理 ≠ 実践理性を手段-目的効率化能力とする新ヒューム主義
    • 道具原理は意図している欲求に「必要な」手段にのみかかわる。それ以下の手段の効率性の比較や、対立する欲求の調整には関係ない。
  • ≠ 全てを考慮した実践的な「べき」にかんする伝播の原理

【伝播】
もし全てを考慮した上であなたはEすべきであり、MすることがEすることに必要な手段であるならば、全てを考慮した場合あなたはMすべきである。

    • 伝播の原理は、振る舞うべき行為から始めている。一方で道具原理は、なんであれとにかく意図されている目的から始まるのであって、それが行うべきことなのかどうかとは関係がない。
  • 草のパズル = 私は目的にとって必要な手段をとるべきだと言いたいが、この「べき」は全てを考慮した実践的「べき」では(少なくとも明らかな仕方では)ない。なぜなら私にはその手段をとる理由が無いから
    • このパズルは、「ある目的を意図することは手段を取ることにひとつの理由を与える」と認めても起こる。この理由は阻却可能なので、道具原理を捉えるには弱すぎる。
  • すると、「見識あるアクラシア」がこのパズルを生むことになる。
    • 例:吸わない方がより良いと知っているが、喫煙することに決め、それにはタバコを買わなければならないと知っている。しかし買わない。
      • 私は自分が買うべきではないことを知っている。しかし、喫煙しようと意図してるのだから、何らかの意味では買うべきだとも思われる。
  • この「何らかの意味」とは何なのかを説明するのが道具的理性の理論のタスク

II

  • ブルームの解決:道具的理性の「べき」は広いスコープをとると主張

【ブルームの実践理性に関する見解】

  • ブルームは、全てを考慮した実践的「べき」から様々な種類の行為の理由を派生させる一般的説明を提示した。
    • パズルは次のように説明される
      • あなたは「タバコは買う」べきではないけれど、
      • あなたは「もし喫煙を意図しておりタバコを買うのが必要な手段であると信じているなら、タバコを買うよう意図する」べきではある。
  • 「タバコを買うよう意図する」べきとは言っていないので矛盾しない
  • ところがこの一般的説明に対しては許されないブートストラッピングが生じる
    • 「全てを考慮した上で自分はφすべき」という信念から、いつも「実際にφすべき」を帰結させてはまずいと思われる。なぜなら信念が間違ってるかもしれないから。
    • しかし、「全てを考慮した上で自分はφすべき」という信念があり、しかも「この信念を変えられない」という信念がある場合、「全てを考慮して上の条件法を真にすべき」というブルームの主張からは、(【伝播】を介して)「φを意図すべき」が帰結してしまう。
  • 応答:健全な実践的思考がもつ「べき」である「主観的「べき」」に訴える
    • 仮に誤っていても、「φする理由があるという信念」にある程度心動かされるのは「理にかなっている」。
    • 〔最終的に「φを意図すべき」の「べき」が主観的「べき」になれば、主観的「べき」は、元の信念が誤っている場合には決定的理由の「べき」にはならないので、上記のブートストラッピング問題は回避できる。〕
    • ブルームは、この「主観的「べき」」は、決定的理由がもつ「客観的「べき」」を広いスコープで適用したものだと考えた。すなわち、
      • 主観的に読まれた「全てを考慮した上で自分はφすべき」 = 全てを考慮すると、「もしφする理由があると信じているなら、ある程度、φするように心動かされる」を真にすべき
  • しかし、この考えは上と同じブートストラッピングを生み出してしまう。
    • 「φする理由があるという信念は変えられない」という信念があれば、(【伝播】を介して)「ある程度φするよう心動かされるべき」が帰結してしまう。しかしφする理由があるという信念は誤りかもしれないのだから、この帰結はまずい。
  • 「健全な実践的思考」と「行為の理由」の関係は、実際は次のようだと考えられる。

【理由】
事実pがAにとってφする理由になるのは、まさに次の場合である。すなわち、Aの心理状態の集まりをCとすると、Cおよびpという信念によってφに心が動かされるという傾向性が健全な実践的思考であり、かつ、Cの中に偽の信念は含まれていない。

      • 偽の信念を排除する要件によって、「主観的な「べき」」と決定的理由の「べき」の違いが理解される。水だと間違えてジンを飲むのは、主観的にはやるべきことではあるが(=理にはかなっているが)、理由のあることではない。

【ブルームの道具原理に関する見解】

  • ブルームの道具原理の解釈:あなたは、「もし喫煙を意図しておりタバコを買うのが必要な手段であると信じているなら、タバコを買うよう意図する」べき
    • これは、上と同様の理屈によりブートストラッピング問題に直面する。
      • 喫煙への意図が十分ロバストで、かつ、信念「喫煙にはタバコが必要という信念を変えることは出来ない」が(当然)あれば、後件「タバコを買うように意図すべき」が帰結してしまう。しかし、意図が強いとかタバコが必要という信念は、タバコを買うという意図を正当化しない。
  • しかし今回の場合、対応する健全な実践的思考に訴えることで問題を解決することは出来ない。というのは……
  • ブルームの言う「道具原理」に対応する健全な実践的思考は次のようなものだろう。
    • MすることがEすることに必要な手段だと信じている場合、<Eする意図を撤回する、もしくは、Mする意図を受け入れること>は、健全な実践的思考の一部である(=理にかなっている)。
  • ところで、【理由】に対応するものとして次の主張がある

〔【決定的理由】〕事実pがAにとってφする決定的理由になるのは、まさに次の場合である。すなわち、Aの心理状態の集まりをCとすると、Cおよびpという信念によってφするという傾向性が健全な実践的思考であり、かつ、Cの中に偽の信念は含まれていない。

  • ブルームによる実践理性の解釈〔における「べき」は決定的理由の「べき」なので〕、ここからは次のことが帰結する。
    • 「タバコを買うのは喫煙に取って必要な手段だ」という事実は、つねに、<Eする意図を撤回する、もしくは、Mする意図を受け入れる>ことに決定的理由を与える。

= タバコを買うのが喫煙に取って必要な手段だというのが事実なのであれば、全てのことを考慮した場合、<Eする意図を撤回する、もしくは、Mする意図を受け入れる>べきである。

    • しかしこのとき、喫煙する意図を撤回するためにできることが何も無いのだとすると、「私はMすることを意図すべきだ」が出てくる(【伝播】による)。しかし、上でも言われたように、自分が喫煙の意図を撤回できないという事実は、タバコを買うという決定を全く正当化しない。
    • ジンを飲むような場合、偽なる信念があるので主観的「べき」によって問題を回避できる。今回は道具に関する信念が真なので、主観的「べき」に訴えても結局理由が生じてしまう。
  • 【教訓】そもそも、道具的理性は実践理性の一次元ではない
    • 道具原理は、理論理性の原理として理解できる。

III

  • φする意図とは次のようなものと考えられる
    • 自分がφするだろうという信念を含む
    • 自己参照的な内容を持つ
    • 自分が何をしているかに関する観察によらない知識をもたらす
      • 意図を形成することで、自分が何をしているのかに関して非推論的な形で信念を形成することが出来る
  • ところで、理論理性の(理想的)原理として、次のものがある。

【閉鎖】「pと信じ、かつ、pならばqと信じているならば、qを信じる」べきだ

  • これを意図に含まれる信念に適用すると次が得られる
    • 「(b)Eすることを意図し、かつ、(a)Mする場合にのみEすることになると信じているならば、(c)自分はMするだろうと信じる」べきだ
  • この原理に適う方法は、(a)の撤回、(b)の撤回、(c)の承認、の3通りある。
    • (c)を承認する一つの方法は意図を形成することだが、これがこの信念を手に入れるための認識論的に許容可能な唯一の道であることを示すことが出来れば、理論理性を根拠にして次を手に入れることが出来る。
      • 「Eすることを意図し、かつ、Mする場合にのみEすることになると信じているならば、Mを意図する」べきだ。
  • ただし、Eのための手段とはいえ、それを意図しなくても認識論的および道具的理性的に許容されるようなものがある。以下のようなもの。
    • 副作用:火をつけるためには煙が出てなくてはならないが、かといって煙を出すことを意図する必要は無い
    • 自動的手段:火をつけるためには木の化学反応が適切にすすまなければならないが、それを意図する必要は無い。
    • 自分への信頼:適切なタイミングで自分自身が関連する意図を持つことが必要だが、それを今意図する必要は無い。
  • 以上を踏まえると、次が得られる
    • 「(B)Eすることを意図し、かつ、(A)<自分が今Mを意図するがゆえにMする>場合にのみEすることになると信じているならば、(C)<自分は今Mを意図するがゆえにMするだろう>と信じる」べきだ
  • ここから、次だけが認識論的に許されることだと言いたい
    • 「Eすることを意図し、かつ、<自分が今Mを意図するがゆえにMする>場合にのみEすることになると信じているならば、Mを意図する」べきだ。
  • ここで問題なのは、実際には意図は形成していないが、誤って、「自分は今Mを意図するがゆえにMするだろう」という信念だけを獲得する、という形で(C)を満たすことを理論理性は禁じられるか、という点
    • ブラットマン「私は[Mを]意図していると信じているのだが、実際には信じていないとしよう。それでも、私のこの信念は、私の諸信念の内部にある[認識的]整合性を脅かす穴を〔ちゃんと〕うめている。」
    • ウォレス「意図の内容に関して偽なる信念を抱くのは独立して〔それだけで〕不合理」
      • なぜそう言えるのか・・・?
  • 手がかり:モラン「他人の信念は信用したりしなかったりできる。自分の場合には出来ない」
    • 確かに、自分の信念pからpを推論することは馬鹿げている。私がpと信じていることを前提にしてpを推論することによって新しい信念を獲得する場合、前提は偽ということになる。しかし逆に前提が正しいのなら、もうpと信じているのだからこの推論は冗長である。(健全かつ知識拡張的であることがない)
  • 自分がφを意図しているという結論にいたる推論は、「いかなる」前提からのものであろうとも、健全かつ知識拡張的ではあり得ない。
    • 例:〔任意の〕「p」から、「私はφを意図している」への推論
    • 帰結が間違っているなら、議論は健全ではない。そして正しいとすると、私は既に「私はφを意図することでφしようとしている」と信じているのだから、この推論は冗長である。
  • ここから、実際にφを意図することを構成しているのでないかぎりは、「私はφを意図している」という信念には何らかの不整合があると考えられる。このことが正しければ、欲しかったものが手に入ったことになる。

IV

  • 洞察あるタバコのアクラシアの例に戻る
    • いまや、IIで生じた実践理性にまつわる問題は一切生じない。手段目的【伝播】は認識的「べき」には適用されないし、何らかの方法で認識的「べき」を切り離したとしても、「私はタバコを買うべきだ」とか「タバコを買うことを意図すべきだ」は出てこない。
  • 以上の議論は、実践理性/理論理性の区別の特性を明らかにするものでもある。
    • 普通この区別は、前者は意図、後者は信念にかかわる、という形で引かれる
      • しかし道具的理性は明らかに意図にかかわるので、この分け方はおかしい
    • 「健全な実践的思考は、信念の真偽にかかわらない」といった点を加えた方が良い。この意味で、実践理性は理論的ではない。
  • 実践哲学における認知主義の重要性について
    • 道具原理は、「実践理性は道徳性とかかわらない」という考えを誘発し、「自分の目的と対立する場合でも正しくあらねばならないのは何故か」という問いに推進力を与えている。しかし本稿の議論が正しければこの力は弱められる。