えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自由意志付近の話 浅野 [2012]

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

  • 浅野光紀 [2012] 非合理性の哲学―アクラシアと自己欺瞞

目次
第一章 自己欺瞞
第二章 自己欺瞞のドグマ
第三章 自己欺瞞の帰結 
第四章 アクラシア
第五章 実践推理の外へ
第六章 アクラシアの自由 ←いまここ

この章では、アクラシアに関するこれまでの議論が、自由意志問題にどのような一石を投じることになるか、アクラシアにおいて行使されている自由とはどんなものかを考察します。前章では、アクラシアは自由な行為ではないのではないかという問題が提起されました。これに対し、アクラシアにおいて行使されている自由こそ両立主義的な意味での自由だと結論していきます。

1 自由意志と決定論:分岐する未来、一つの未来

「もし決定論が真であるなら、私たちの行為は自然法則と遠い過去の結果である。しかし私たちの生誕以前に何が生じていたかは私たち次第ではなく、自然法則が何であるかもまた私たち次第ではない。従ってこれらの物事の諸結果は、(私たち自身の行為も含めて)私たち次第ではない」(Van Inwagen [1983] p.16)
ここには、「一つの同じ過去、一つの同じ未来」という、あらゆる決定論を貫くコアのアイデアが含意されています。その一方、「一つの同じ過去、異なる複数の未来」という想定、つまり「他行為可能性」こそ非両立主義的な自由概念の必要条件です。しかしこの想定からは、「行為の直前までの状況が全て同じだが行為だけが違う」という不条理な事態が要請されるように思われます。
 つまりリバタリアンは、決定論と自由意志が非両立であると示すだけでなく、非決定論と自由意志が両立可能であることも示さなければならないのです。非決定論が正しければ、自由な行為がまったくのランダムに、行為主体によるコントロールを欠いて生起するように思われるからです。しかし、非決定論的に生起しつつ主体のコントロールがきいた現象という想定が何を意味するのかを精確にするのは非常に困難です。

2 アクラシアと両立主義

 アクラシアにおいて行使されている自由がリバタリアン的なものとは考え難いでしょう。アクラシアが自由な行為であるとすれば、それは行為の時点での最強の欲求を、何に妨げることなく満たすことができる(「束縛の不在としての自由」)という意味に尽きています。しかしこうした両立主義的な自由概念は、自由な行為とは主体の責任が問える行為であるという考えを危うくしないでしょうか。
 ルターは「私はここに立つ。他のことはできない。」という言葉を残しましたが、デネットはこれを「彼の良心が自説の撤回を不可能にした」と考えます。にもかかわらずこのルターの行為は、彼の自由意志を最大限に発揮した行為だと言えるでしょう。この場合、他行為可能性どころか、他の行為が出来ないからこそ、この行為は自由で責任の問えるものなのであり、他行為可能性と責任の概念は切り離すことが出来るのです。デネットは、「責任ある人格であることの重要な部分は、もしそれをしたなら非難を浴びるようなことはできないよう、みずからをつくりあげることにあるのではないか」と考えます。つまり主体の行為は「性格によって決定」(ケイン)されており、私たちが行為者に責任を課すのは、それが一定の人格から必然的に発するからなのであって、非決定な行為が遂行されるからではないのです。
 また、両立主義と両立する他行為可能性の解釈の仕方もあります。決定論は、「過去の何らかの点で差異が生じていれば未来にも変化が生じる」という考えを排除するものでは全くありません。両立主義的な他行為可能性の解釈は、「もしあなたが他のことを欲していたら、あなたは他のことをしたであろう」という条件法的な形をとるのです。この解釈の下では、他者による強制や心理的脅迫の下になされる行為を、「もし他のことを欲していたら」という前件が成立しない事例だと考えることができ、決定論的でありながら自由な行為と不自由な行為を適切に区別することができます。
 このように、決定論の下でも責任を問える自由な行為は想定可能であり、両立主義は一つの整合した立場として成立しうるように思われます。アクラシアにおいて生じる自分の行為が理解できないという感覚は、自由な行為がしかし決定されているという驚きをとりわけ私たちに開示しているといえます。

3 非両立主義

 しかし、最善の判断に従う通常の合理的な行為においてはリバタリアン的な他行為可能性が行使されているという可能性は無いのでしょうか。実際、性格の形成過程において自分が作り上げてきたという側面がなければ、結局責任概念は崩壊してしまうのではないでしょうか。かくしてケインは、「自己形成行為」は非両立主義的な真に自由な行為でなければいけないと考え、量子物理学とカオス理論に依拠することで、これまで神秘的に考えられがちだったリバタリアン的自由意志概念に、より尤もらしい説明を与えようとしました。葛藤状況においては行為の選択に関して不確定性が生じており、それを行為主体は、葛藤を解決して行為を選択しようとする「意志の努力」〔実践推理の過程〕として経験するのです。ただしこの見解には「真の無作為性」と「疑似無作為性」が実践的に等価であることに基づいたデネットによる反論もあり、その妥当性は疑わしいところです。
 また、ガレン・ストローソンの「基本的論証」は、世界が決定されているか否かにかかわらない形で自由意志の存在を否定する論証です。

(1)あなたが何をなすかはあなたの在り方による
(2)したがって、あなたが自分のなすことに真に道徳責任を負えるためには、あなたは自分の在り方に真に責任が負えなくてはならない――少なくともその重要な心的側面に関しては。
(3)自分の在り方に真に責任を負えるためには、そのあり方がもたらされるよう過去に何かを意図的になしたのでなくてはならない
(4)しかしそのためには、その過去の行為の時点での自分の在り方に関してあなたは真に責任が負えなくてはならない
(5)しかしそのためには、あなたはその時点での自分の在り方がもたらされるよう、さらに早い時期に何かを意図的になしたのでなければならない(以下、無限に続く)。

 さらに、たとえ人格形成に非決定論的なプロセスが関わっているにせよ、このプロセスは行為者のコントロールを欠いたランダムなものであり、リバタリアンが救いたいはずの自由意志概念は全く救えないとう既にみた批判に結局さらされることになります。
〔以上のことから、非両立主義的なリバタリアンの自由意志概念はやはり困難なものであることがわかります〕

4 アクラシアの克服と実践理性

 以上の議論は、「アクラシアの克服」というテーマとはどうかかわってくるでしょうか。アクラシア克服の過程で実践推理が重要な役割を果たしていることは疑いを入れません。しかし、ここまでの議論を踏まえれば、主体を行為へと動機づける注意・想像力傾向の訓練も必要です。この訓練の過程はアクラシアの積み重ねを含むことでしょう。この反復により、自分への嫌悪と焦り、最善の行為への意識が高まり、アクラシア克服への動機が強くなるのです。ですからアクラシア克服における実践推理の役割とは直接改善の動機となることではなく、むしろ、遠くに最善の方向を指し示し、改善への努力を持続的かつ確定的なものとしたり、そのための手段に関する考察に役割を果たすなどの間接的なものになるでしょう。
 ケインは、実践推理に「他行為可能性の根拠」と「新たな自分になる努力を導く」という二つの役割を負わせていました。しかしこの二つは分けるべきでしょう。まず後者の話をすると、我々は実践推理に従い自分自身を変えることができますが、そのための動機は実践推理の外からやってきます。実際、実践推理と注意・想像力傾向に影響する過程とを区別しないような合理主義には、「自己の改善」はパラドキシカルな問題を引き起こします。つまり、「禁煙の努力に乗り出した時点では、禁煙欲を欠いた人格とはどんなものであるか、それは幸福なのか、精確にはわからないにもかかわらず、どうしてそのよくわからないものに向けて自己を改善しようとするのでしょうか? その原因は「理由を超越する心的原因性」(デイヴィドソン)なのです。
 しかし、あくまで自己改善の努力は(アクラシアの積み重ねという)過去に拘束されて生じてくるのですから、新たな自己形成の可能性とリバタリアン的な自由意志の可能性とは切り離して考えるべきです。リバタリアン的な自由意志概念が困難なものである以上、アクラシアにおいて行使されている両立主義的な自由は合理的な行為一般にも通用するのであり、やはりアクラシアとは最善の判断に背く自由な行為だと言えるのです。

おわり