えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

推論における「2つの心」 Evans (2010)

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

  • Evans, J. (2010) *Thinking Twice: Two Minds in One Brain* (Oxford University Press)

Ch.1 The Two Mind Hypothesis
Ch.2 Evolutionary Foundations
Ch.4 Two Ways of Deciding
Ch.5 Reasoning and Imagination ←いまここ
Ch.8 The two mind in action: conflict and co-operation

・「推論」とは所与の情報から結論を引き出そうとする意識的な努力の事を指すものとする。この定義により、推論には反省的な心が「かかわる」が、これは前章と同じく、反省的な心が推論を「行っている」ことを意味しない。直観的な心は常に推論プロセスに対しても影響力を持ち、時にはそれを乗っ取って結論を塗り替えてしまう。
・良い推論は仮定から正しい結論を引き出す、ただし、その結論が実際に正しいか否かは、仮定が正しいか否かにかかっている。論理学者は演繹と帰納を分け、論理的に妥当なのは前者だとするが、実際の推論場面では両者は渾然としている。たとえ推論自体〔が演繹で行われて〕不確実性が無くとも、仮定の方は〔たいてい帰納で手に入るので〕不確実性が入り込んでくる。
・とくに論理学のトレーニングを受けていない普通の人でも、演繹的推論を行うことはできる。ただし以下に見ていくように、そこには多くの論理的な間違いが現れてくる。

論理、心的論理、メンタルモデル

【5.1】
ポールはジョンより背が高い   
ジョージはジョンより背が低い  
→ポールはジョージより背が高い 

【5.2】
ポールはジョンより背が高い
ジョージはジョンより背が高い
→ポールはジョージより背が高い

・論理の素人でも上の論証は妥当だと分かる。また右も非妥当だと分かる。心理学者・哲学者のなかには、人間はこうした推論を行う際に、次のような、心に内蔵された規則(心的論理)を用いていると考える者もいる。

  • If A > B and B > C, then A > C.
  • If A < B, then B > A.

・しかし、これとは別の考え方「メンタルモデル理論」を支持する証拠は多い。この理論は推論を想像力と明示的に結びつけるもので、われわれは前提と両立する事態の「メンタルモデル」を構築する事で推論するとされる。いまの例の場合はこう。

ポール  
ジョン  
ジョージ 

ポール   ジョージ
ジョージ  ポール
ジョン   ジョン

・5.1ではモデルは一つしかあり得ない。そしてそこでポールはジョージより背が高いのだから、前提が正しければ結論も正しい。論証は妥当である。一方5.2では結論が正しいモデルは一つしかない、従ってこれは妥当ではありえない。このモデルでは規則はたった一つしか必要ない。すなわち「反例が無ければ議論は妥当である」
・ジョンソン‐レアードは、結論を引き出すのに必要なメンタルモデルが多いほど、我々は間違いを犯しやすいと論じている。(Johnson-Laird & Bayne 1991)
・この種の推論は反省的な心が全てを占めていると思われるかもしれないが、直観的な心は常にそこにある。例えば、今の例で使われた名前から、ビートルズの三人をイメージして背の高さを比べ、確かジョンが一番背が高かったと思った人がいるだろう。いやそれは今は関係ないとこの考えは無視しただろうが、こうした連合が生じてくること自体を止めることは難しく、また以下で見るように実際に推論に影響を与える場合もある。

推論における信念バイアス

・現実世界に関係する信念を含む問題では、論理と信念が衝突する場合がある。例えば……

常習性のもので安いものはない No addictive things are inexpensive
煙草には安いものがある Some cigarettes are inexpensive
→常習性のあるものには煙草でないものがある Some addictive things are not sigarettes

・この推論を71%の大学生は妥当だと考える。一方、次が妥当だと考えるのは10%である。

億万長者は社畜ではない No millionaires are hard workers
豊かな人には社畜もいる Some rich people are hard workers
→億万長者には豊かな人でないものもいる Some millionaire are not rich people

・しかし、どちらの推論も同じ論理形式[No A are B, Some C are B ⇒ Some A are not C]をもち、妥当ではない。多くの研究から、両推論の重要な違いは、前者の結論は「信じられる」が後者は「信じがたい」と言う点にあることが分かった。
・結論の信憑性を無視して妥当課題と非妥当課題を比較すると、人々は前者を受け入れる傾向がみられる。しかし妥当性を無視して結論の信憑性のありなしで比較すると、人々は信憑性のある結論を受け入れる傾向がみられた〔これが信念バイアスである〕。信念と論理が別の結論を与える場合(非妥当だが結論は信じられる/妥当だが結論が信じがたい)、は、二つの心が戦っていると考えられる。この時被験者間で回答はバラバラで、一般的知性が高かったり大きなワーキングメモリを持つ人ほど論理的な回答がでる。
・教示を読み推論するところまでは反省的な心が使われているのだが、結論を見ると、直観的な心が、結論に信憑性に基づいて回答を行う強い傾向性を持ってきて、両者は衝突状態に入る。この衝突状態は、上述の個人の能力の影響を受けて決着する。
・また、速く回答するよう求めたり、別の心的な課題を同時にやらせると、直観的な回答が増える。ここから、論理的に推論するには意識的な注意と努力が必要なことが分かる。ただし、最善の条件下で、明示的な教示を与えても、やはり信念バイアスは残る。
・しかしこれは、直観的な心が不合理なバイアスの温床であることを必ずしも意味しない。我々の信念体系は、良い証拠・推論と思われるものから長い時間をかけて構築されており〔、それに合致する結論の方に引きずられるのは必ずしも不合理ではない〕。
・(同じ事が科学理論にも言える。ある分子生物学の研究グループの調査によると、全417実験の約半分は(223)予測を裏付け無かったが、理論が誤っているとは判断されず、69%で方法を改善して再実験が行われた。大部分の結果は同じだったが、それでも理論の変更が行われたのは全事例の58%にすぎない(Fuelsang et al. (2004)))。
・こうした実験が示す興味深い点は〔不合理性ではなく〕、我々が推論を行う際の制御が限られているという事である。教示によって論理的に推論するよう動機づけられており、かつ問題の信念は本人のアイデンティティに関わるような重要なものでもないが、しかしやはりバイアスは生じる。しかも本人はそれに気がつかないのである。

神経科学の研究からの支持

・推論に関係する単一の脳内のシステムは存在しないと結論されているが(Goel 2005, 2008)、用いられる課題の特徴をトレースした活動部位の違いは幾つか認められる。
・信念バイアスによる衝突に関連する部位には、前帯状皮質 ACCと右側下前頭皮質IFCがある。ACCは習慣的な反応が状況に適用失敗しつつある場合に発火するもので、衝突状況をモニタリングしていると言える。ACCはその後前頭葉の資源を用いて問題に対する「Controlled Attention」を活性化させる。つまり、制御は直観的な心から反省的な心へパスされる。一方の右IFCは、習慣的反応が実際に抑制されたとき(信念バイアスを乗り越えるべく決定がなされたときのみ)に発火する。

Ifと想像

・我々には、心的シミュレーションを走らせて行為の結果を想像する能力があり、これは最善の選択をするためなど様々な事に使われる。この種の思考を「仮説的思考」と呼ぶ。そして、この仮説的思考は、語「if」によってトリガーされる。
・日常言語の「if」には様々な使用のされ方があるが、そのひとつは予測である。予測を信じるかどうか決定するためにはどうしたらよいか。権威に頼る、記憶に訴える、反例がないかを考えるなどの方法があるが、より新奇な予測に対しては、心的なシミュレーションが必要になってくる。

条件文の意味

・また微妙に違う問題として、条件文を信じるということは何を意味しているのかと言う問題がある。論理学の教科書では、「if p then q」は「not p or q」と同じことを意味しているのだというアイデアを長いこと支持してきた(実質条件文)。
・しかし、多くの哲学者と心理学者は、日常言語における「if」が実質条件文として理解することはできないと考えている。〔そうではなくて〕「if p then q」と信じることは、pであると仮定したうえで、qは恐らく正しいと信じることなのである(この主張には実験による証拠もある Eこのvans, Handley, and Over 2003 等)。Pが成立していない場合に信じるだろうことがなんであれ、今の話とは関係が無い。従って「もし引かれたカードがキングであるなら、それはスペードである」確率は1/4であって、(実質含意で解釈した場合の)49/52ではないと自然に仮定する事が出来る。

条件文に関する推論

・条件文に関する推論は、関係する出来事に関する信念や、その推論に対する反例をどの程度思い描けるかに影響を受ける。簡単なモードゥス・ポネンスでさえ、条件文が本人の信念に反していると、信念バイアスの時と同じように、抵抗を受けることになるだろう。

もし英国に死刑が再導入されたら、殺人率はさがるだろう
英国に死刑が再導入されたとせよ
ここから、殺人率は下がると言うことは帰結するだろうか?

例えば、この問いに対し、死刑制度に反対する多くの人は、結論に賛同するのを控えるだろう。しかしこれが論理的推論に関する課題だと伝えてやれば、多くの人、特に高い知能を持つ人は、正答するようになるだろう。
・反省的な心は、心にうかぶ思考や信念によって影響を受けることがありうる。しかしこうした思考や信念を「抑圧する」ために我々は反省を用いることが出来る。ところがこのような抑圧はそう簡単には達成されない。安定して現れるのは、高い能力を持ち明示的な教示が与えられた場合に限ると思われる。
・二つの心仮説は次の二つの一般的教義を持ち、これは演繹的推論に関する多くの実験から支持されている

  • (a)反省は直観よりもかなり努力がいる(そして時間がかかる) 
  • (b)反省的思考は、高次の認知能力を持つ者においてはより効果的である。

ウェイソンの選択課題

・推論に関する心理学の実験の中でも、最も有名なものの一つが4枚カード問題である。

どのカードにも片面には大文字、もう片面には数字が書かれている。
[ R ]   [ J ]   [ 5 ]   [ 2 ]
以下の規則が正しいか否かを決めるために、最低限どのカードをめくる必要があるか
 「もし片面がRなら、もう片面は5である」

多くの人は、「R」もしくは「Rと5」と答える。ところが正解は「Rと2」である。
・エヴァンズは、問題となる規則を「もし片面がRなら、もう片面は5ではない」という否定の形に変更すると、殆んど全ての人が正答する(「Rと5」)ということを見出した(Evans and Lynch (1973))。否定のあるなしにかかわらず、規則の中にあるのと合致したRと5のカードが選ばれるため、この現象は「マッチングバイアス」と呼ばれる。
・最近の研究によると、人はマッチしているカードに視線を向け他のカードを排除するために思考を行うという形で、注意の殆どをこれらのカードに傾けている(Evans, Ball, and Lucas 2003)。直観的な心が、提示された情報の一部分に選択的に注意を向けさせており、反省的推論はその注意されたカードにしか向けられていないのである(Evans and Ball 2009)。このバイアスは克服することがかなり困難で、大学生でも10%以下しか正答できない。少数の正解者は例外的に高い一般的知性を持つ。
・ところが、実際の世界の文脈の中におかれると、知性と殆ど関係なく多くの人が正答するようになる場合がある(例えば、飲酒規則を破っている人を検出するよう課題を変えてやる)。標準的な課題では直観的な心が誤った答えを促し、論理的推論で課題を解こうとする反省的な心を遮断してしまう。その一方、いくつかの現実的な課題では、直観的な心が正解を促し、反省的な心の負担を軽くしている。多くの人は飲酒規則に似たものに出会ったことがあったはずであり、正解を選ぶのに推論は必要なかったのである。
・(かつてイギリスには「印がない封筒のほうが料金が安い」という自明でない規則があった。この規則と封筒を用いて課題を作ったところ、ロンドンでは良く解かれたが、他の国ではうまく解かれない(Griggs and Cox 1982)。)
・ただしここから、「問題を現実的な文脈におくと論理的推論が改善する」と考えるのは誤りである(信念バイアスも存在している)。直観的な心が選択を支配しており、そこで促された選択は、反省的な心の行う推論よりも影響力がある、と考えるべきだろう。
・4枚カード問題その他の推論問題の研究からは、我々は抽象的な論理的推論は決して得意ではなく、高い一般的知能を持った人が教示に従うよう意識的に努力してはじめて良い成績を収められることが示されている。意識的で反省的な推論は文脈によって制限を受けており、反省的な推論に対しては直観的な心がアジェンダを与えているのである。

確率についての推論

・心理学者は確率についての推論の研究も行ってきた。論理的に言って、いかなる出来事AおよびBに関しても、AかつBである確率がAである確率以上であることはない。しかし人は、この単純な論理的原理を破ることがある。リンダ問題がこれに当たる。

リンダは31歳独身、率直で非常に聡明です。大学では哲学を学び、学生として差別や社会正義の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。
リンダが以下に当てはまっているというのはどのくらいありそうですか
1.銀行の出納係である。
2.フェミニストである。
3.銀行の出納係であり、しかもフェミニストである。

・多くの人が、リンダが1より3の方がありそうだと判断してしまう。この効果は連言錯誤と呼ばれる。リンダの記述がフェミニストのステレオタイプに合致しているため、選択には、「正しい感」が伴う強固な支持が直観的な心から与えられてしまう。
・3つの選択肢をそれぞれ別の被験者群に振ってやっても、やはり1より3の方がありそうだと判断される傾向にあり、しかもこれは被験者の一般的知能と関係ない(Stanovich & West 2008b)。これは、正解を計算する機会がなく、直観的な心にのみ頼らざるを得ないからである。〔個人内で〕3を1が同じ位だと判断しようとして初めて、ここに論理問題があると理解する機会が生じる。高い知性を持つ人なら正しい推論ができるだろう。

・また確率を含んだ別の有名な問題として、タクシーの問題がある。

ある都市には二つのタクシー会社、青社と緑社がある。青社は全タクシーの85%、緑社は15%を占める。あるひき逃げ事件の犯行車に関して、証人はそれは緑タクシーだったと述べた。テストを行った所、現場と同じ条件下でのこの証人のタクシー同定の精確性は、どちらの色に関しても80%だった。犯行車は、青と緑どちらのほうでありそうか。

この問題も知能が高くてもうまく正答できない。しかし問題の提示の仕方を変えると正答できるようになる。例えば、

ある都市には二つのタクシー会社、青社と緑社がある。両社は同じ数のタクシーを走らせているが、事故を起こすタクシーの85%は青である。……(以下同じ)

 統計的学的には二つの問題は同じだが、ここでは基礎確率が事故と「因果的に」関連づけられている。この手がかりの下、基礎確率は関連性のあるものとなり、証人の信頼性とのバランスが取られるようになりうる。

・この誤謬は実践的な含意が大きい。陪審員が証言に重きを置き過ぎることはよく知られている。また、犯行現場に残されていたDNAに合致する人が一人見つかったこと、およびDNAが一致するのは100000人に1人であることから、(他に証拠がないとして)この人が犯人である確率は0.99999だと考えてしまう「訴追者の誤謬」も良く知られた基礎確率の無視である。また医学生や医師も診断に際して基礎確率を無視しがちである(それどころか、訓練をつむほど基礎確率を無視して個々の患者に注目するようになる)(Heller, Saltzstein and Caspe, 1992)
・他にも似たような研究はたくさんあり、統計的推論は直観に任せておいていいようなものではないというおなじ結論に至っている。医師や法律家やその他のエキスパートは、基本的な訓練の一部として、統計的推論の訓練をした方が良いと思われる。

結論

〔省略〕