えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

精神疾患と弁解 Glover (2001)

http://www.jstor.org/discover/10.2307/40441302

  • Glover, J. (2001) “Psychiatric Disorder and the Reactive Attitudes”

・ある行為に責任があるか否かは、その行為が本人の性格を反映しているか否かにかなり依存する。標準的な弁解は、無知や強制に訴えることによって、本人の性格が非難に値するものではないと主張しようとする。すると、「彼は幻覚を見ていたのだ」は弁解として通るかもしれないが(無知)、「精神疾患によって性格が変わったのだ」という弁解は、通らないどころか、現在の性格はまさに批判に値すると言ってることにならないか? しかし、根本的な性格変化を伴う病気の場合「彼ではなく彼の症状が……」とも確かに言いたくなる。

  • 【問い】精神疾患によって生じる性格の根本的な変化は、行為の責任にどう関係するのか? 変化後の性格はその人の本当の自己なのか、それとも病の産物なのか?

・ありうる応答:性格の変化と責任は無関係。人は宗教・職・居住地等の変化で性格をかなり変えるが、それは自分で自分を作ることであって、変化後の性格にも責任がある。

痴呆の場合

・痴呆は本人の現在の制御を超えて生じるので、新たな性格は本当の自己ではなく病の産物だという主張は正当化できそう。痴呆は(主に)晩年に生じるため、変化後の性格を本当の自己の一部ではないものとして扱うことは比較的容易。

統合失調症の場合

・比較的若年期に生じがちな例えば統合失調症では話は難しい。一方で、発病前の性格を回復できると想定した場合これは明らかに「治療」であり、また性格の変化は障害によって引き起こされたのだから、発病後の攻撃的性格は本当の自己ではないと思われる。
・しかし他方、痴呆とは違い変化後の性格はこの先も続くのだから、それを本当の自己として受け入れることは尤もらしいとも思われる。もしそうしないとすると、まさに今ある人格は(今後全生涯にわたって)ある種の無視状態に置かれる事になりかねない。性格が病によって形作られ、それにアイデンティティを持つことは可能なはず。
→議論は甲乙つけがたい

パーソナリティ障害/ヒトラーの事例

・統合失調症でも、本人の「もともと」の性格の一部の形成後に発病することが多い。しかしパーソナリティ障害のように、さらに発達初期に現れ性格に影響する障害もある。この場合、以前の性格なるものが無いので、「彼か彼の症状か」の区別が立てにくい。
・この問題を先鋭化させるものとして、ヒトラーの事例:幼少期に酷い父親のもとで育ち、〔過剰な〕厳格さ、性的問題、人種差別、怒りっぽさ、強迫観念などを持つ。←これらは病的ではあるが、病気ではない。つまり性格自体が良く形成されなかったmisshapen事例。したがってこの種の人々が悪いことを行った場合、それはまさに本当の自己を反映しているので、標準的な仕方で本人の性格への非難を弁護できない

反応的態度

・以上のことは、彼らの態度や行為に反応的態度で応じるべきだという事を含意するのか?
・しない、とも考えられる。パーソナリティ障害は〔自分で自分を作ったというより〕やはり悪運の問題であり、遺伝子が原因なら本人は制御できないし、幼少時の虐待が原因なら本人に過失はないからだ。彼らは被害者であり、責めたり怒ったりするのは不当かもしれない。
・しかし反応的態度を向けないというのは重要な人間関係から除外する事でもあり、こっちの方が不当かもしれない。さらに、この良く形成されなかった性格を乗り越えるためには反応的態度の輪の中に入るしかないのかもしれない。
・反応的態度を採る採らないというのは完全に制御できることではないが、自動的に採ってしまうようなものでもない。最も理想的なのは、難しいが、反応的態度を採りつつも彼らが被害者であることを忘れないことだろう。
・こうした二重の応答は最終的には全ての人にも適切なものなのかもしれない。我々の行動も結局のところ全て自分の制御下にない要因にまで因果的にさかのぼるだろうから。