- 作者: チャールズ・テイラー,下川潔,桜井徹,田中智彦
- 出版社/メーカー: 名古屋大学出版会
- 発売日: 2010/08/31
- メディア: 単行本
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- テイラー・C (1989=2010) 『自我の源泉』 (下川他訳 名古屋大学出版会)
第三章 不明確な倫理 ←いまここ
第八章 デカルトの距離を置いた自我
第九章 ロックの点的自我
第十四章 合理化されたキリスト教
第十五章 道徳感情
第十八章 砕かれた地平
第十九章 ラディカルな啓蒙
第二二章 ヴィクトリア朝に生きたわれらが同時代人
第二五章 結論ーー近代の対立軸
1
- 問:質的区別は倫理的なものの全領域とどうつながっているのか
- 答:質的区別は道徳的信念の理由を提示する ←どゆこと?
反実在論 [62-66u]
・今日、善や価値は、それ自体としては中立の世界に人間がもつ善や価値を投射したものだと理解されてきた。つまり、あらゆる価値用語にはそれと外延的に等しい非評価的記述があり、そこに付加される物として「評価的な力」があるとされてきた。
・しかし、実際のところ多くの重要な価値用語に関して記述的な対応物は存在しない。(勇気・感謝など〔厚い記述〕)
・ある用語の評価的観点の理解には、相互に関連した2つの事の理解が含まれる。
- (1)それが社会的にどのような機能をはたしているかの理解
- (2)その社会にいるその語の使用者が何を善だとしているかの理解
・(1)(2)から<善と生が人間および人間の生とはまったく無関係に考察された宇宙の性質ではない>は帰結する。しかし<善や正は、自然界の他の部分よりも実在的、客観的、非相対的ではない>へ行くのは飛躍である。そうしたくなる要因は、今日の自然主義およびかつてプラトン主義をもっていたということある 。
BA原理と反実在論 [66d-71d]
・こうした見解から解放されるために言うべきこと:「批判的反省を行い発見できた誤謬を修正した後の段階において、私たちの人生に最善の意味を与えてくれる用語以外に、いったい私たちは、人間の事象における実在の尺度として何を持っているだろうか?」
・何をなすべきか、人をいかに扱うべきかなどの人生の問題を問う際に、行動を第三者的に説明する用語だけを使うことはできず、一人称的日常用語が不可欠である。そして日常用語による説明は三人称的用語による説明に代えられるべきものではない。説明すべきは自分の生を営む人々であって、用語を変えると「話題が変わる」から。
・科学的に関する一般的な認識論的・形而上学的考察も、〔人間的事象の説明にあたって〕こうした日常的言語による最善の説明を退けることを正当化しえない。
・以上最善説明の原理(BA原理)
・そこで、あらゆる自然科学的な反実在論の試みは、次の2(3)点で攻撃される。
- (1)人生の目的のために、ひとは強く評価された善を頼りとせざるを得ない。これらの用語は、自分と他者についての説明と理解には不可欠である。
- (2)実在的なものとは、人が対処しなければならないもの、自分の先入見と合致しなくても消えて無くならないもののことである。価値についての形而上学的図式はこうしたものに基づくべきである。
・反実在論者も自説によって道徳は壊滅すると感じている((1)による)。しかし道徳を放棄せよとは言わず、道徳経験との両立を模索する(ブラックバーン)。ところが、反実在論が道徳経験によって支持できないなら、この立場を信じる根拠がない((2)による)。
- (3)このように、反実在論者は(1)と(2)の間で身動きが取れない。
・反実在論者は、道徳経験と両立を模索する際、善の身分を決定する要因を〔素朴な存在論とは〕別のところに置く傾向がある(生存や一般的幸福など)。この種の倫理を採用すべき理由はあるが、しかし反実在論が道徳を破壊するという事実を粉飾してはいけない。
価値の通約不可能性 [71u-73u]
・<人間の文化と価値は多様であり、互いに通約不可能である>という形のもう一つの相対主義について。ふたつの善が通訳不可能なら、一方から他方へ移った時にその移行を何らかの点で進歩/損失として提示する方法はない。これは現実的可能性だが、実際には成立していないとテイラーは考える。
・(区別しなくてはいけない別の状況:<ある文化から別の文化へ移行した時、進歩の部分も損失の部分もあって総合的に容易には判断できない>。この場合、別の社会の善を万人にとっての善だと理解することはできている。)
2
高位善 [73u-76u]
・私たちの多くは、様々な善に序列をつけ、さらにある一つの善を最高度に重要なものとしている(高位善)。つまり、それぞれが質的な対比によって定義される諸善の間に、さらに高次階層の対比をつけて生きている。そしてこの高位善への位置づけはアイデンティティの定義と密接に関連している。
・また「高位善」は他の善に優先し、それを判定するようなものであり、これが西洋文化における(倫理と対比される意味での)「道徳的」なものを定義している(後述)。
対立と批判 [76d-82d]
・多くの高位善は、かつての不十分な諸見解を歴史的に止揚する形で登場してきた(諸価値の価値転換)と理解されており、いまなお残る不十分とされた諸見解を批判する基準として機能する。だから高位善を承認するとしばしば対立が生じ、ジレンマが生まれる。
・このように高位善の承認は認識論的な不安(諸高位善の対立)を引き起さざるを得ず、そこから、より洗練された自然主義が生じる。この見解は価値が投射物でないことは認めるが、諸価値の対立すなわち「通約不可能性」を致命的なものととり、諸善が不正だとか不適切だとかいう文化を超えた批判手段の存在を認めない。
・しかし一方で、高位善には文化を超えた批判的主張も含まれていた。この批判の客観性を維持するために、われわれは再びBA原理に訴えることができる。
・ところが高位善は、2つの理由により自然主義的およびプラトン主義の先例に対する反応を引き出してしまい、これがBA原理の採用を妨げさせることになってしまう。
1.対立→懐疑主義 [82d-84d]
・高位善は我々が「変化」することを含意し、その時にはかつての諸善は拒絶さえされる。かつ高位善の一致が望めないとなると、道徳的懐疑主義が当然生じる。「なぜ「日常の」意識を持った人より「高次の道徳」の提唱者の方が正しいのか?」。
・日常性の肯定がある近代ではこの懐疑はより強くなる。ニーチェ主義者は低次とされているものに対する支配の構造を暴き、あらゆる高位善を幻想だとする。
・たしかに幾つかの高位善は幻想かもしれない。しかし全てがそうだと示された訳ではない。依然としてBA原理の代用となるものは無く、〔何が幻想かは〕よく見るしかない。
実践的推論と 2.超越的存在者 [84d-89]
・ある高位善が他のものより優れていると「論じる」必要があると言われるかもしれない。ところが、自然主義の認識論に基づくと、ここで実践理性は一切の道徳的視点の外部から自説の根拠を持って来なくてはならない(不可能)。
・実践的推論は推移による推論であり、命題の比較に関わる。命題AからBに推移することが認識上の進歩であると示すことができる時、Bは根拠を持つ事が示される。高位善の確信はこうした推移の解釈から生じるのであり、相手を説得するには相手の経験した(することを拒否した)推移の解釈を変えるしかない。
・ところが高位善はしばしば超越的存在者へ言及する(善のイデア、神など)。この時、世界を秩序づける超越的存在者から道徳的主張へという推論の順序が含意されていると思われてしまう。そして近代の自然科学は科学的説明と道徳的主張の統合を不可能としたため、〔自然主義の外部的な認識論に基づき、道徳的主張は成立しないと思われてしまう〕。
・しかしこの順序と神の受容は独立である。高位善の受容は、それが根拠あるものだと「感じ」その価値を「理解すること」でそれに「動かされる」ことである。ここでBA原理によって、神が言及されるかもしれないが、この時高位善は道徳経験の外から根拠づけられている訳ではない。
〔× 神 ―根拠→ 高位善 / 道徳外の事実 ―根拠→ 神 ―根拠→ 高位善
◎ 高位善の内部的な理解 ――意味を与えるものとして要請―→ 神 〕
3
質的区別は理由を与える [90-93d]
・理由を与える……
×道徳的直観に基づかない外的考慮を提供する
○最善の説明における道徳的世界の形態に何が決定的を明確化する
×基本的理由をあたえる(「AはBだからAすべきだ」のB:典型的には法の順守や最大多数の最大幸福など)
・明確化される以前の質的区別は価値あるものについての方向付けの感覚として機能する。そしてその明確化とは、道徳直観が要求する行為や感情の道徳的意義を述べること。
・【ここまでの流れ】:「枠組」→道徳的反応に背景的前提を提供するもの→それが意味をなす文脈を提供するもの。そして枠組内部で生きることは不可避。
……以上は質的区別の重要性を〔曇らせる〕魔力から掬うための論述。この力の理解のためにはその自然主義的源泉だけでなく近代の道徳理論自体の特徴をもみる必要がある。
「義務的な行為に関する哲学」としての近代の道徳理論 [93d-101d]
・近代の道徳理論は質的区別を排除しようとし、比較できないほどの高位善の感覚にいかなる道徳的地位も与えない(功利主義は幸福だけを認め、あとは欲求の最大充足だけがある)。自然主義的気質、認識論的前提がその原動力の一部。
・さらに近代の道徳理論は「何を行うのが正しいか」にのみ関わり、義務ではないが善いこと、いかに在る/愛するのが善いかといった問いは扱わない。目的が善き生の輪郭をはっきりさせることなら質的区別の明確化が必須だが、こうした道徳理論は行為の記述および義務的行為の規準である「基本的理由」しか与えない。さらに、こうした理論は質的区別に何の重要性も認めない。どうしてこうなった?
- 【自然主義的要因】
・多くの道徳語を理解するということは、外的な行為記述から厚い記述に移行すること。しかし自然主義は人間以外の自然を扱う諸科学と連続的な語彙で人間を説明しようとするので厚い記述を避けたく、行為記述の観点から考察を行いがちに。
- 【道徳的要因】
・<日常の擁護>:近代において高次のものの拒否は人間生活の真の価値の回復とされる。また、人は自ら承認する善との関係で正しい位置を渇望せざるを得ず、それが苦しみの源泉となりうる。さらに自己欺瞞や独尊的な満足感の源泉ともなりうる。以上を反省すれば善についてのいかなる考えからも離れるのが解放だと思われる。
・<近代的自由観>:近代は自由を主体の独立性としてとらえたが、これは善を意志から独立の自然の中に位置づける古代的な善理解と対立した→善は自然ではなく神にある(中世)→自然ではなく人間の意志に起源を持つ(グロティウス・ロック)→功利主義によるパターナリズムの否定
・以上のような様々な要因から質的区別の信用は失墜させられる。そこから、功利主義においては動機の問題や快楽主義と仁愛の関係の問題が生じてもいる。
・一方でカント主義は義務/傾向性からなされた行為という区別を復活させ功利主義に反対したが、自己決定としての自由を強調し道徳は自然ではなく意志から生じるとした。さらに理性的主体が持つ「尊厳」という考え方も、自然主義的啓蒙主義による質的区別の拒否に後押しされて忘れられた。そして「自由で独立し孤独で力強く理性的で責任ある勇敢な人間」という〔日常的な〕理念が残った。
【さらなる道徳的要因】
・<仁愛と利他主義>:啓蒙的道徳の中心特徴としての実践的仁愛の強調。科学的努力は「人類の状態を救済する」ためにも役立つべき→苦痛緩和、貧困克服、繁栄、福祉促進。こうした決意の表れとしての行為への関心の集中
・<完全に普遍的な倫理への欲求>:質的区別は文化集団に埋め込まれているので。
・以上の様々な動機により功利主義者もカント主義者も義務的行為の諸理論に集結した。
倫理に関する手続き的捉え方 [101d-103d]
・実践理性は古代では実質的に〔「何を」〕考えられており、自然の秩序である善を識別することが理性的だった。しかし近代的自由観によって善の位置が主体の意志に来ると、理性的であることは手続き的〔「どのように」〕に捉えられた(目的合理的に/普遍化可能な仕方で)。また、「どう創設されたか」で社会を正当化する社会契約論が生まれた。
質的区別の地位に関わる意識の抑圧とその帰結 [103d-107]
・近代道徳理論は質的区別を抑圧した。こうした道徳理論はある種の考慮に優先権を与えるが、それはその領域を他の領域から分離するという形でしか行われ得ない。この時、「何故その考慮を重要視しなければいけないのか」というその考慮の意義の明確化を求める問いには答えられない。答えるためには、その考慮を高いレベルの重要性を持つ善と考える必要があるからだ。
・近代の道徳理論は、自由・利他主義・普遍主義といった近代文化に特有な高位善によって動かされているのに、当の理論家はこの種の善を否定する方向へ駆り立てられている。
・カントから派生したスローガン「善に対する正の優位」は、欲求充足という<等質的な善>だけでなく、質的区別によって高次と特徴付けられるものとしての「善」への批判としても用いられた。しかし、善が明確化される場合に正を定義する諸規則に意味が与えられるのだから善は正よりも優位であり、これがまさに抑圧されたことである。
・その帰結としての窮屈さ:行為の決定要因への対象限定/手続き的な実践理性理解による決定要因理解の貧弱化/道徳的なものの優先権の神秘化/道徳領域の統一化/義務への注目による道徳的思考・感受性の歪曲
⇒質的区別が道徳的に重要だという事実を再発見しよう(提案)