- 作者: ミシェル・フーコー,桑田禮彰,Michel Foucault
- 出版社/メーカー: 新評論
- 発売日: 1984/10
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- フーコー・ミシェル (1984) [1977] 「セックスと権力」
――〔ベルナール=アンリ レヴィ〕 すでに何度かご自分を「歴史家」と規定なさっていますが、どういう意味なのでしょう。なぜ、「歴史家」であって「哲学者」ではないのでしょう。
フーコー 子供向けの寓話のような素朴な形でいえば、哲学の問いは長い間こんなものでした。「すべてが滅びるこの世の中で移りゆくことのないものは何なのか。死なねばならぬわれわれは、移りゆくことのないものとの関係からするとなんなのか」。ところが、一九世紀以降、哲学は次のような問いに徐々に近づいていったように思えます。「現に過ぎ去っていくのは何なのか。そして、われわれ、現に過ぎ去っていくもの以外の何ものでもなく、それ以上の何ものでもないわれわれとはなんなのか。」
哲学の問いとは「われわれ自身であるこの現在」についての問いなのです。だからこそ、哲学は今日、完全に政治的であり、かつ完全に歴史学的であるわけです。哲学とは、歴史に内在する政治であり、政治に不可欠の歴史学なのです。
―― 今日、もっとも古典的で、もっとも形而上学的な哲学の再来も見られるのではありませんか。
フーコー 私はいかなる形の再来も、ありうるとは信じていません。冗談めくかもしれませんが、これだけいっておきましょう。かつてすでにキリスト教初期の数世紀の思想は、つぎのような問いに答えなければなりませんでした。「現に過ぎ去っていくのは何なのか。われわれ人間そのものであるこの『時間』とは何なのか。われらに約束されている神の再来はいつ、いかにして起こるのか。余計なものとして存在しているこの『時間』をどうすればいいのか。そして、われわれ、この移ろい行くものでしかないわれわれとは何なのか」。
革命がめざされているには違いないがまだ到来せずにいる、この歴史の中腹にあって、わたしたちはおなじ問いを発しているのだといえるでしょう。「過ぎ去るべきことが過ぎ去らずにいるこの時代にあって、余計なものでしかないわれわれとは何か」。近代思想の全体は政治と同様、革命の問題に支配されてきたのです。
pp. 64-65