えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「oui, oui」 高橋 [2003=1998]

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

デリダ (「現代思想の冒険者たち」Select)

  • 高橋哲哉 [2003=1998] 『デリダ』 (講談社)

「ウィ、ウィ oui, oui」

〔……〕デリダが問題にするのはしかし、もはやノンに対立するウィではなく、他の語と並び一つの言語体系(フランス語)を構成する一語彙ではない。それは、言語以前に到来し、パロールであれエクリチュールであれ、およそ何らかの言語が発せられるときにはつねにすでにそれに伴い、それを可能にしているような根源的な肯定である。私はあらゆる言語行為において、他者に語ることを肯定し、受信者としての他者の到来を肯定している。私は口を開くやいなや、「私はあなたに語る」ということを言語以前に肯定し、他者に約束している。この約束は他のさまざまな言語行為と並ぶ言語行為の一種ではなく、あらゆる言語行為に伴い、あらゆる言語行為が可能になる空間そのものを開く根源的な約束、言語以前の約束である。たとえ私が嘘をつく場合でも、偽証する場合でも、この構造は変わらない。ノンを言うときにもこのウィは前提されており、どんなメタ言語もこのウィを前提しているのだから、このウィはどんなメタ言語によっても対象化しえない、あらゆる言語行為の超越論的条件なのだ。
 この根源的なウィ、根源的な約束は、それ自身すでに他者の呼びかけへの応答である限り、じつは根源的とはいえず、他者に先立たれている。私が実際の発話以前に、またあらゆる発話とともに、無意識のうちにウィを発しているとき、私はつねにすでに他者からウィを発するよう求められているのであり、その呼びかけを無意識のうちに聞いてしまっているのである。私のウィはつねに第二のウィで、他者のウィに先立たれている。デリダはここに、主体がつねにすでに自己に先立つ他者への応答可能性のうちにおかれているという責任の構造を見いだす。他方、約束が約束であるためには、それが約束として記憶され、反復され続けることが必要であることから、ウィはつねにすでに、その最初の瞬間からウィの反復、ウィ、ウィでなければならないとされる。根源的約束は、それ自身のうちに、約束の記憶を保持するという記憶の約束を含んでいなければならないのだ。反復可能性は、ウィの約束の中に分割可能性と空虚化の危険を導きいれるが、それは同時に散種と他者への遺贈のチャンスでもある。ウィ、ウィは、まったき他者の到来としての出来事、正義、歴史、未来=来るべきもの(à venir)の肯定の思想なのである。〔……〕   pp. 313-314