えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

相互の義務について Bratman [1993→1999]

Faces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency (Cambridge Studies in Philosophy)

Faces of Intention: Selected Essays on Intention and Agency (Cambridge Studies in Philosophy)

  • Bratman [1999] *Faces of Intention* (Cambridge University Press)

Chap. 5 Bratman M [1992] "Shared Cooperative Activity"
Chap. 6 Bratman M [1993] "Shared Intention"
Chap. 7 Bratman M [1993→1999] "Shared Intention and Mutal Obligation" ←いまここ
Chap. 8 Bratman M [1997] "I Intend that We J" 

I

・Bratman [1993] に共有された意図に次のような分析が与えられた。

【SIテーゼ】
我々がJを意図している iff
(1) (a)私は<我々がJすること>を意図している (b)あなたは<我々がJすること>を意図している
(2) 私は、<(1)(a)(b)とその噛み合った下位計画に合わせてそしてそれ故に我々がJすること>を意図している
  あなたは、<(1)(a)(b)とその噛み合った下位計画に合わせてそしてそれ故に我々がJすること>をを意図している
(3) (1)(2)が我々の間で共有知識になっている。

このように連動した諸意図が、共有された意図に特徴的な働きをなす。つまり、我々がJするという目的をトラックする形で、互いの意図的な行いと計画を調整し、互いの交渉を構造化する役割を果たす。
・<意図が共有される多くの場面で我々は互いに義務を負いあっている>としばしば強調される。以上の分析は共有された意図と相互の義務との関係を正当化できているだろうか?

II

・相互の権利と義務が共有された意図にとって本質的であり、部分的にそれを構成しているという主張は強すぎる。以下に反例を二つ示す。

事例1:強制

「デュエットを歌うという共有された意図に私と一緒に参加しなければあなたの家を爆破します」と言って、SIテーゼの条件(1)-(3)のあなたの側を満たすよう強制するとする。SIテーゼによれば、これによってあなたと私は共有された意図を持つにいたることが出来る。しかしあなたの参加は強制されたものなので、私があなたの計画に対して権利を持っているとは思われない。

事例2:義務なんてないよと言う

 私とあなたが、それぞれ相手も意図を持っていることを前提として、デュエットしたいという意図を表明したとする。ただしそれぞれが表明にこう付け加えたとする。「私はこの後も意図し続けるだろうけど、心変わりする権利を残しておきたいし、あなたにもそれを認めます。どちらも、意図し続ける義務は互いに対して負ってないのです」。SIテーゼによればこの責任拒否によって共有された意図がなくなることはないが、相互の義務がブロックされることは実際あり得る。

・ブラットマンの考えでは、共有された意図の典型的な起源によって、関連する義務と権利がついてくる(ただし共有された活動自体が許容可能なものである場に限る)。ただし、そうした起源は共有された意図自体にとっては本質的ではない。

III

 共有された意図の標準的な起源のなかには、私があなたに私が何をするかに関して<期待を意図的に抱かせること>が含まれている。こうした<期待の抱かせ>は普通、示唆したようにふるまう義務を根拠づける。

IV

スキャンロンは、「我々がひとに自分の未来の行いに関して期待を抱かせたときに、その人に何を負っていることになるか」の説明の中心的要素として、<忠誠の原理>を提案した。

【忠誠の原理】もし――
(1)Aが自分の意志でもって意図的に、Bに対し自分はXするだろうという期待を抱かせている(Bが、AがXしないことを承諾している場合は除く)
(2)AはBがその〔自分がXする〕ことが保証される事を欲していると知っている
(3)Aがこの保証を与える目的で行為し、そしてそのように行為できると信じる十分良い理由を持っている
(4)Bは今まで述べたような意図や信念をAがもっていることを知っている
(5)AはBがそのことを知るように意図しており、Bが実際知っているとも知っている
(6)BはAがそのような知識と意図を持っていることを知っている
以上の条件が成り立つならば、特別な正当化がない場合には、Bがxが為されないことを承諾しない限り、Aはxをおこなわなくてはならない

・我々は計画する行為者だが、計画する行為者は未来の出来事に基づいて計画を立てることができなくてはならず、また特定の未来の出来事を固定したもの、固定できるものとして扱えるのでなくてはならない。従って、特定の事柄を固定させることには価値があることになる(保証の価値)。それゆえ、適当な条件下で他の人に自分の将来の行為に関する期待を抱かせた場合には、相手の同意がない限り、その期待された行為を行わなくてはならない。
・忠誠の原理は、共有された意図の多くの事例であらわれる義務の根拠をとらえているように思われる。
・事例1では、強制によって保証の意図性が損なわれているので、(1)が成立していないため、あなたに義務はない。
・事例2では、責任拒否によって、行為者が関連する補償を目指して行為しているわけではないことが担保されるので、(3)が成立していない。

・以上によって事例1と2がうまく説明され、共有された意図の本質は<公の連動した意図の網目>にあるというアイデアに支持が得られる。その時、共有された意図と相互の義務の間の関係は、例えば忠誠の原理のような義務原理によって同定されるべきであり、相互義務がない事例を許容する必要がある。

V

・<期待を意図的に抱かせること>が起源に含まれていないような意図の共有はあり得るだろうか?
・確かに、関与者が関連した意図を持っていることは共有知識になっていなければならず、共有知識は往々にして<期待を意図的に抱かせること>によってでてくる。
・ただし、別の源泉から出てくる可能性もある(過去の経験、社会的なセッティングなど)。この場合には忠誠の原理にはひっかからない。

・しかし、互いに自分が意図を持っていることを示そうとすることなしに共有された意図を持つことが出来るのだとすれば、<共有された意図>という考えはあまりに弱くなりすぎてしまうのでは? このような事例の存在はSIに対する反例になっているのではないか?(ヴェルマン)
→共有された意図の中心的な役割は、計画と行為の調整を助け、交渉のための枠組みを与えることだった。そして確かに、相互の義務と権利は関連する意図の安定性に寄与し、それによって相手の行為をもとに計画立てることを容易にすることが出来る。しかしそれらは、共有された意図がこうした役割を果たすために本質的なものではない。

VI

・共有された意図に関連する規範的な帰結は、それ自体が共有された意図にとって構成的なものであるわけではない。