- 作者: 富松保文
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2012/06/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 富松保文 [2012] 『アリストテレス はじめての形而上学』(NHK出版)
運動には「まだ」がある
〔……〕運動には「まだ」がある。運動は「未完了的」であるとアリストテレスは言う(『自然学』第三巻第二章201b32および『形而上学』第九巻第六章1048b29)。〔……〕宿題がまだ出来ていないことと、まるでやっていないこととは違う。注文の料理がまだ来ないことと、注文が通っていないこととは違う。通っていれば、たとえ厨房が忙しくてまだ調理に取り掛かっていなくても、やはり調理中なのである〔……〕。桜がまだ咲かないのは、今咲こうとしているからであり、たとえまだ芽さえ出ていなくても、そこに咲こうとする力が現に働いていると見るからである、
〔……〕どんなに時間がかかろうと、そこに行為や出来事をひとつの全体としてみる目がなければ、「まだ」はないだろう。「まだ」時間の長短や経過でなく、その行為や出来事の内的構造にかかわる。 pp.164-165
運動としての行為と運動ではない行為
アリストテレスは運動としての行為と運動ではない行為とを区別して、前者を「ぺラスを持つ行為」(『形而上学』第九巻第六章1048b18)と呼んでいる。〔……〕ぺラスとしての終わりは、けっして時間的な意味での終了ではなく、意味としての完結性である。
これに対して、運動ではない行為とは現実態そのものであるような行為であり、あるいはまた、その行為自体が目的であり、目的がそこに内在しているような行為であるとアリストテレスは言う。 pp. 165-166
行為のエイドス
区別の鍵を握るのは、行為の時間的長短や有無ではなく、いわば行為の相貌であり表情である。〔……〕家を建てるというのは全体としてみればそれでひとつの形相(エイドス)、一つの「何であるか」をもつが、そのプロセスとしてみれば多様な形相(エイドス)、多彩な表情を持つ。これに対して現実態としての行為には最初から最後まで、いや、最初も最後もなくて、ただ一つの形相、ただ一つの表情しかない。 p. 167
運動と時間
〔……〕内的構造をもった行為が運動としての行為であり、そうした構造を持たない一様な行為が現実態としての行為であるならば、運動とは、目の前の出来事がまさにそうした構造を持って今現にあるということであろう〔「可能的なものとしての限りにおける可能的なものの現実態」〕。行為にかぎらず、どんな出来事も出来事である以上、そこにはいわば時間的相貌とでも言うべきものがある。家を建てるということが一つの行為としてあるためには、たんに木を削ることや石を積むことの寄せ集まりとしてではなく、それらが始まりと終わりをもったひとつの出来事として見てとられる必要がある。ほころびかけた桜を見て、まさにそれを三分咲きとしてみる目がなければ、そこに咲きつつある桜はない。ただ刻々と今あることだけをあるとして見るのでは、そこに運動はない。そして運動がないなら、「運動の数」としての時間もまたないだろう。
時間とは「前と後に関しての運動の数」であると言われる。それゆえ、出来事の表情としてのこうした時間が、ただちに「前と後に関する運動の数」として定義されている時間であるわけではない。しかしまた、出来事自体にこうした時間的相貌がそなわっているのでなければ前も後もないだろう。それ自体はノッペラボウの時間なるものの中で行為や出来事が生じるのではない。固有の表情を持つ行為や出来事があり、時間とはその表情からいわば抽象されたものである。〔……〕
〔……〕アリストテレスが時間以前の運動に見るのはそうした秩序なき迸りだけではない。そこにはまだ時間ではないが、始まりと終わりという固有の構造、固有の表情を持った出来事があり、それがやがて時間として数えるための単位となる。そしていったん単位が定められると、それ以後、始まりと終わりはもはやそれぞれの運動に固有の表情としてではなく、任意に設定可能な区切りの意味しかもちえないことになっていく。 pp. 168-169