えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

エヴァンズのネーゲル批判: 『指示の諸相』 7章1節からの論点 Evans (1982)

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)

  • Evans, G. (1982) The Varieties of Reference (Oxford Univ Pr)

7.1 導入

 これらのなじみの要素(情報の要素と行為の要素)は、我々が自分自身について持つ観念の説明には絶対に必要だが、既にこれまでの議論で十分はっきりしたように(6章)、この二つだけで我々の持つ「私」観念を説明しつくせるわけではない。なぜそれだけでは不適当なのかということは、自分自身に関する判断のなかでも関連する知識獲得の方法に基づいて下されるように見えるものだけに焦点を絞るとよくわからないかもしれない。「私は痛い」という思考が真であるとはどのようなことかの知識は、自分がどう感じるかだけを基盤にしてその思考が真か偽かを決定する能力に尽くされているように見えるかもしれない。そして同じことが、自分自身に関する知識を獲得するあらゆる方法に関しても言えるように見えるかもしれない。しかし、〔……〕自分で〔真偽を〕決定できなかったり、根拠さえ与えられないような自分自身に関する命題を我々は完全に把握することができる。〔……〕自分自身に関する思考は一般性制約を満たさなくてはならないのである。これはつまり、自分自身の観念は、情報リンクと行為リンクのほかに、[I = δt]という形式の同一性が真であるとはどういうことかの知識を含んでいなくてはいけないということである。ここでδtは人の根本的同定のことである。この同定は「私」同定とはちがって、他の人にも利用可能な種の同定である。  pp. 208-209

 私の自分自身についての思考は、一般性制約を満たしている。なぜなら私は、客観的な視点から捉えられたある人を自分自身であるとする同定を有意味なものにできるからである。  p.210

 ネーゲルは、永遠の相の下で考えられた世界を心に描く。そして、このモデルの中に、かくかくの人がであるという事実をどうやって組み込めばいいのかと疑問をおぼえる。このような同定がモデルの中に何の変化ももたらさないように見える――いかなるものも別様に把握されるわけではない――ので、我々は実はこのような同一性命題が真であることはどういうことなのかを理解できないのだとネーゲルは考えるのである。
 しかし実際私は既に暗黙裡に、このような同一性命題を把握すること(このような同一性命題が真であるとはどのようなことかを知ること)のうちに何が含まれるのかを説明した。我々が人々を把握するとき、その人々は差異の根本的根拠によって互いに区別されるのだが、この差異の根本的根拠が他の物的な事物を区別するのと同じ種類のものであるということは、明らかであるように私には思われる。そして、人の根本的同定は、その人をかくかくの時空的位置を占めるものとして考えることを含むということも明らかであると思われる。したがって、任意のδtについて[δt = I]が真であるとはどういうことかを知るということは、自分自身を世界の時空的地図の中で位置づけるということに何が含まれているかを知ることだということになる。このような同一性命題は、世界の時空的地図が把握される仕方に何らかの違いをもたらす必要はない。ただし、主体の直接的環境が把握される仕方には大きな違いをもたらす事になるだろう(ネーゲルは影響を誤った位置に探してしまったのだ)。たしかに、この同一性命題が真であるとはどういうことかを非指標的名辞を使って述べることは出来ない。しかし、真であるような全てのことが非指標的な仕方で表象されうるのでなくてははならないなどとなぜ仮定しなくてはいけないのか? ネーゲルなら、[I am δt]のような命題は客観的に真なのではないと結論するかもしれない。永遠の観点から見た真理ではない、と。この点に関しては争わなければいけないとは思わない。というのは、こうした命題が把握可能なのは、それを定式化できる人物のみだというのは実際に真だからである。だから、「客観的」というのが「誰によっても把握可能」を意味するならば、このような同定は実際客観的に真ではないのである。  p.211