えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

想像力と合理化:「騙されているのは誰だ」のからの論点 デイヴィドソン (2004)[2007]

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

  • 作者: ドナルド・デイヴィドソン,金杉武司,塩野直之,鈴木貴之,信原幸弘
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2007/12/01
  • メディア: 単行本
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  • デイヴィドソン D. (2004)[2007]. 『合理性の諸問題』 (金杉他訳 春秋社)
    • 第14論文 「騙されているのは誰だ」

信念に理由があるとは二通りの意味で言いうることであるにもかかわらず、その二つの意味の区別が見過ごされてしまう。ある特定の信念を持てば幸せに感じるとか、誇らしく感じるとか心がなごむとか、あるいは不安が和らぐといったことは、他の考慮事項を除外すると、その信念を持つことへの理由である。しかしそのような理由はそれ自体としては、当の望ましい信念が真であると考えるべき理由ではない。コロンブスにとって、新たな陸地を最初に目撃したのが自分だと信じることは、合理的かもしれないしそうではないかもしれないが、単にそう信じたいというだけの根拠でそれを信じるのはとうてい合理的ではないだろう。  pp. 349-350

問題は、自己欺瞞を説明してくれると言いたくなるものがあったとしても、それが自己欺瞞を合理化することはできない点である。  p. 354

これらの問題を解決の方向へと一歩進めるために、私は従来、二つの提案を行ってきた。その一つは、社会科学および自然科学に見られる説明と同様に因果的なものでありながら、説明されるものを合理化することがなく、その点で、行為や他のない法的に記述される現象の大部分とは異なるような、ある混合的な形式の説明の存在を認めることである。そのような説明は、心的状態や心的出来事の心的な原因でありながら、その理由ではないものがありうるという考えを受け入れる。その単純な一例は希望的観測である。〔もう一つの提案は心の分割〕  p. 355

たとえば〔ジョン・〕ケージは一貫して、自分はシェーンベルクの弟子だったと申し立てた。しかしこれはどうやら「公然の空想」だったらしい。恐らくケージはその話を何度も何度も語ったので、ついには彼自身すらそれを信じるに至ったのである。これは珍しい経験ではあるまい。事情がおおむねこのような具合であったとすると、心理の記憶は空想ほど心地よくなかったために、次第にその空想を引き起こすことになったのである。ただし、その空想を正当化したのではない。  pp. 358

われわれは想像上の場面を呼び起こすことができ、しかもしばしばまったく故意にそうすることができる。時にこれは行為への前奏となる。可能な様々の行為について、われわれはその帰結がどうなるかを創造し、そのなかで最も魅力的なもの、楽しそうなもの、場合のよっては恐ろしそうなものを実行に移す。これは想像力の正当かつ有用な行使である。他方、われわれは偽と知っている事や、途方もなくありそうにないこと、端的に他の選択肢よりも望ましくないことを思い描き、その魅惑に負けて実行に移す場合もある。そしてこの両者を区別するのは必ずしも容易ではない。強迫観念に囚われた賭博者は後者の例であり、アクラシアも同じ範疇に属する。  p. 360

これらの事例から私が引き出す教訓は簡潔なものである。自己欺瞞には様々な程度がある。通常の夢に始まり、半ば演出された白昼夢を経て、明らかな幻覚に至る。熟考中の行為の帰結を想像する正常なものもあれば、精神病的な幻惑もある。あたりさわりのない希望的観測もあれば、自ら故意に引き起こした誤謬もある。これらの連続体のどこかに確固とした線を引こうと試みることは間違ったことであろう。〔……〕哲学者のなかには、こうした分析演習はものごとの本来の姿をゆがめたり偽ったりするものだと考える者もいるようだが、かならずしもそうとはかぎらない。むろんたしかに、そのような分析演習は、個別の事例に興味深さと心理学的説得力を与える詳細さを無視し色彩を省いてしまう。しかし哲学者の演習は、色彩に乏しく合理的だからと言って、偽にならねばならないわけではあるまい。  pp. 373-374