えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

他者理解の初期発達と共感によるシミュレーション説 Stueber [2011]

Joint Attention: New Developments in Psychology, Philosophy of Mind, and Social Neuroscience (The MIT Press)

Joint Attention: New Developments in Psychology, Philosophy of Mind, and Social Neuroscience (The MIT Press)

  • 作者: Axel Seemann,Timothy P. Racine,David A. Leavens,Colwyn Trevarthen,Peter Hobson,Jessica Hobson,Vasudevi Reddy,Malinda Carpenter,Kristin Liebal,Stephen V. Shepherd,Massimiliano L. Cappuccio,William D. Hopkins,Jared Taglialatela,Karsten Stueber,Shaun Gallagher,Daniel D. Hutto,Elisabeth Pacherie,Henrike Moll,Andrew N. Meltzoff,John Campbell,Marcello Costantini,Corrado Sinigaglia
  • 出版社/メーカー: The MIT Press
  • 発売日: 2012/01/20
  • メディア: ハードカバー
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  • Joint Attention: New Developments in Psychology, Philosophy of Mind, and Social Neuroscience (The MIT Press)

目次
7 Joint Attention, Communication, and Knowing Together in Infancy
11 Social cognition and the allure of the second person perspective : in defense of empathy and simulation ←いまここ

背景:心の理論論争の諸前提

 他者(の心の)理解する能力に関する理論‐シミュレーション論争では、両者にいくつかの基本前提がある。

(1)他者理解能力研究の最終目的は、それに因果的に関係する心理的メカニズムの記述(実在論)
(2)他者理解能力は、信念・欲求・意図を中心とする素朴心理学の概念群を利用する能力
(3)他者理解とは、素朴心理学の語彙を予測と説明のために適切に使用すること
(4)以上の意味での素朴心理学的能力が、社会的領域へのスムーズな統合に因果的に寄与している。

しかし、共同注意は以上の枠組みにうまくはまらない:共同注意は、他者を説明/予測する視点の獲得という文脈で獲得されているように見えない。むしろ共同注意の中で幼児が他者の心に反応するのは、対象への注意を共有しているとか、世界との関わりに相互に参与しているということによるように見える。
→理論説もシミュレーション説も他者理解の仕方をゆがめてしまっているのでは?
 ・他者理解能力と科学理論との類比をやめよ!
 ・(2)‐(4)のような前提を放棄し、間主観的な相互作用から他者理解を説明せよ! (相互作用説)

Stueberの立場

本論の目的:「他者理解能力は基本的で再演的な共感を含む」という自説を批判から擁護すること
(再演的な共感はパーソナルレベルのシミュレーションなのでStueberはシミュレーション〔以下sim〕説論者)
sim説の核心は、「他者理解とは、一般的で抽象的な心理学理論ではなく、むしろ、自己中心的な要素あるいは視点を含むという意味で、軽知識ですむ方策である」という主張にある。なのでsim論者は、成熟した素朴心理学の獲得が視点取得能力や想像力の発達上の洗練に依存していると強調する。

本論の概要

【次節】
・共同注意を獲得する時期である15カ月以内の幼児の「理解」をどうとらえるか
 −共同注意に先立つ意図的な行為者性の把握に着目し、他者理解におけるミラーニューロン〔以下MN〕の役割を検討
 →MNはsim理解の装置とは見なせないが、意図的な行為者性の理解に寄与し、他者の動きがもつ目的指向的という点でのボクニニテル性like-me familiarityを非概念的・知覚的に把握できるようにさせる。

【次々節】
・共同注意能力を視点取得能力の第一段階と解釈し、共同注意をsim説の発達ストーリーにはめる
・幼児の初期他者理解が心の理論論争の枠組みにはまらなくても、成熟した素朴心理学についての考え方を改定する必要はない
 ‐成熟した素朴心理学は合理的で熟慮する行為者の行為をも対象とするから。こうした行為者の深い理解は素朴心理学の概念群からのみ可能になる。

成熟した素朴心理学「の前と下」:ミラーニューロンと、心ある生き物とのボクニニテル性(Like-me Familiarity)

意図的行為者の認知――トマセロの場合

 行為論の伝統に従い、子供の他者理解は信念欲求心理学の観点から考察されてきた。しかし、共同注意のように、この観点からは描写できない他者理解能力があるように見える。ここからトマセロは旧来の観点を拒否し、二段階の社会的認知(意図的行為者として/命題的態度を完備した心的行為者として)を区別した上で、共同注意が前提するのは前者だと考えた(Tomasello & Rakoczy [2003])。
 しかし、意図的行為者認知に意図の表象が必要と考える点で、トマセロも心の理論論争の枠組の内部にいる。またトマセロは自身をsim論者としている(世界との関わりから自分の動きを目的指向的に理解→同じように他者を理解)。ただしこのsimは自己に関する心的状態の概念の投影ではなく、非概念的な方法だとされる。こうしたトマセロの見解はあまり明確ではなく、疑問が多く残る。
・自分自身を非概念的なやり方で意図的行為者として理解するというのは精確にはどういうことか
・意図的行為者としての他者の表象は概念的内容を持つのか? もつとすればどのような概念が用いられているか
・信念欲求という素朴心理学の中心概念把握以前にもたれる意図的行為者の把握とはどう理解すればよいのか?

相互作用説

 相互作用説によれば、こうした困難は、社会的認知能力を理論的に捉えること(〔振る舞いから、〕内的で抽象的で隠れた〔心的な〕存在者を〔推論によって間接的に〕捉えること)から生じており、旧来の理論では克服できない。理論説は傍観者的な視点が、sim説はデカルト的視点〔他者の心的状態を直接把握できない〕とアナロジーによる推論が批判される(「魂に対する態度」)。
→他者の心についての知識はKnow-thatではなく、いかにして他の心ある人と関わるかという一種のKnowing howとして理解されるべき。
 同様に、知識の対象である心あるよ性mindednessも、表情や声、身振りの中に直接知覚されると考えられる。我々は傍観者の視点からではなく、他者との関わりによって、自分と他者の心あるよ性を把握する。従って、共同注意は、意図帰属を可能にさせる認知的な発達に負うものではなく、他者との関わりの複雑性が増すという点にスーパーヴィーンする。心あるよ性の理解は参与的知覚の一種である身体化された認知によって最もうまく理解される。このように、相互作用説の擁護者は二人称的視点を強調し、旧来の1人称〔sim説〕・3人称〔理論説〕的視点を退ける。

相互作用説への応答

 確かに、幼児が最初の一年の間に他の心ある生き物とかかわっていくことが、後の素朴心理学・共同注意にとって重要であるという証拠は説得的である(Hobson, Reddy)。
しかし、
・この関与的な関係を、他者の心に関する二人称的な知識の身体化として捉えるべきなのか否か。
・相互作用説の尤もらしさは、理論説・sim説が〔初期発達にまつわる〕新たなデータをうまく説明できないという点に懸っている。
 −しかしsim説は心的概念に関し、必ずしもデカルト的一人称の説明を行う必要はない。

ミラーニューロンとその解釈

 MN研究は、幼児も他の人の心あるよ性をトラックしていることを示唆している。細かく言うと、幼児は心あるよ性の2側面(情動的反応性・人間の活動の目的指向性)をトラックしている。しかしMNの機能の解釈は紛糾しており、ゴールドマンがMNをsim説に証拠を与えると考える一方、ギャラガーは知覚過程と捉え二人称パラダイムにはまるものとみる。
【MNとシミュレーション】
 まず、神経生理学的な共鳴があっても、それが自動的に「他者理解のためのsim」にはなりえないとみんな認めている。むしろ、他者理解のためのsimは、対象の心理過程をミラーするプロセスが、まさにその対象への心的状態帰属に因果的に寄与しているような〔高次の〕プロセスとしてもっともよく捉えられる。また、心的概念はMNシステムの表象内容ではない。
→MNの活動が他者理解のsimと捉えられるか否かは、それが特定の心的状態帰属に因果的に関わるか否かにかかってくる。しかし、必要となる心的概念を幼児が持っているかどうかは疑わしく、幼児がこの意味で他者理解を行うとは考え難い。

【MNと相互作用説】
 そこでギャラガーは、MNの活動は直接知覚のプロセスの一部であり、この知覚がそのまま間主観的な相互作用に統合されると解釈する。MNシステムは、特定の感覚モダリティに結びついた無媒介・直接的・非概念的・非反省的な理解を与え、これが行為やしぐさの意味への直接的な知覚的アクセスに関与する。
 しかし
・この理解にはついてもっと説明しないと、MNと直接知覚の関係が分からない(Goldmanと同じ問題)
→想定反論:こうした理解〔認知的把握〕は適切な相互作用のなかで実現している。
・それなら、適切な相互作用という文脈にかかわる任意のメカニズムが他者認知に重要だということにならないか?

ミラーニューロンと共感

 StueberはMNを、内なる模倣という意味での共感(リップス)のメカニズムであると考える。MNが賦活する時、他者の表情の知覚による場合は情動、運動の知覚による場合は目的指向性(de re 意図性)に関して、自分がそれを持つのと似た感覚が生じる(ボクニニテル性を身体的に感覚する(基本的共感))。このように、MNは「知覚的類似性空間」を創りだし、この空間が他者を自分と同じように心を持つ者(情動と目的指向性に関して)として実践的に把握することを可能にする。
 従って、
・MNの第一の機能は他者の行為と情動の理解への寄与
・この理解は直接的、無媒介で神経生物学的に言うとボトムアップのもの
→ 行為の解釈が先にあり、目的予測のためにトップダウン的にMNが賦活するモデル(Csibra [2007])ではない。
・MNだけで行為の目的指向性理解の全容が語られるわけではなく、概念的能力も必要になるだろう。この抽象的概念は、目的指向的活動とのボクニニテル性の理解に基づいて発達すると思われる。
・また、StueberはMNの解釈のスコープを基礎的行為に限り、MNによって統合的な行為系列の直接的理解が可能とする見解には懐疑的。こうした「論理的に関係した」ミラーニューロンの存在を示唆するとされる実験は、特定の文化的知識の存在を前提しており、神経生物学的にはトップダウンのプロセスを含むように見える。

心の理論論争の枠組みと発達初期の間主観的関係

・確かに初期の間主観的関係は心の理論論争の枠組みに当てはまらない。MNを他者認知のためのsimと見るのも無理そう
・しかし、MNの働きを基本的共感と考えることで、他者の把握は還元不可能な自己中心的契機(ボクニニテル性)を持つことになる(sim説!)
・また、そもそも共感は概念的でないのでアナロジーによる推論は行われない〔相互作用説からの批判への応答〕。使われるのはむしろアナロジカルな知覚。
・確かに社会的認知の発達に相互作用は重要だが、それは他者との出会いの中でのボクニニテル性の経験によって基礎づけられている。

共同注意、視点取得、成熟した素朴心理学の地位

共同注意とシミュレーション説

ここまで、間主観的関係の自己中心性を指摘するため基本的共感を取り上げてきたが、これだけが成熟した他者理解能力の基盤ではない。視線追従・視線検出・顔の認知も重要で、これらは共同注意能力(9-15カ月)の発達上の予備条件を構成する。
(自己中心性に関しては、幼児が基本的共感のメカニズムを通して親近感を感じている生物にしか共同注意をうちたてない点が指摘できる)
・sim説にとって重要なのは「共同注意の発達上の重要な里程標に視点獲得の能力がある」という点
→共同注意において幼児は共同注意の存続をモニターしているので、対象が共有された知覚的注意空間にあるか否かが認識されているのでなくてはならない。これには、何らかの視点取得と、自分と他人の視点は必ずしも重ならないことへの気づきが必要。
・もう一点興味深いのは、非言語的な誤信念課題で幼児が予測的注視を行う点。この結果の解釈は、「5か月でも誤信念概念を持てる」説や「低次の行動規則を持っている」(行為者は最後に見たところを探す)説がある。
 →しかし、5か月児は共同注意を行うので視点取得能力を持つ筈だが、これによってこの結果を説明するものはいない(sim説とより親和的)。興味深いことに、予測的注視を見せない6-8歳の自閉症児やアスペルガーの成人は、視点取得にも困難を示している。
従ってsim論者としては、他者の行動理解のために、素朴心理学的な枠組み適用の中で、視点取得が重要な認識的役割を果たしていないとなれば驚きである。しかし、いわゆる語り主義者narrativist達(ギャラガーら)は、他者認知における素朴心理学の概念枠組の地位の再考を迫っている。
・ここでは、彼らの中心的主張「素朴心理学の概念群は社会的認知の中では周縁にすぎない」を取り上げる

素朴心理学の概念枠組みの重要性

・Stueberが素朴心理学とシミュレーション(再演的共感)が重要だと考える理由
‐成熟した大人として我々は、他の人を単なる目的指向的な生き物ではなく、主観的に合理的で、理由によって行為する人格であるとみなしている。
‐心的状態を理由として把握するには、行為者が行為者自身の心的状態に照らしてどう状況に応答し行為するのかを理解しなくてはならない
‐フレーム問題があるので以上の理解を理論説によって行うわれているというのはありそうにない
再演的共感(相手の立場に立ち相手の思考を自分の心中で再演してみることで、理由を把握する)が唯一の選択肢
・一方でギャラガーは、社会的領域における他者の行動の理解とは、共有された文化的背景想定の下でその行為をより広い文脈に入れることだと考える。教室で一人が喋っていて大勢がそれを聞いているという時何が起こっているのかは、大学とは何か、教師や生徒の役割とは何かという一般的知識に基づいて理解される。
・しかし、ここでは「理解」が異なる意味で使われている!(Stueberは「何故」の理解、ギャラガーはより薄い「何」の理解)勿論、「何」の理解によって「何故」が理解されることもあるが、そういうステレオタイプ的な理解から、行為のより深い理解と説明に至るためには、素朴心理学の概念が必要である。
・もう一点:素朴心理学には、通常の〔薄い〕理解が破たんした時それを修復する戦略とも見なせる。確かに車が普通どう動くかに関する(因果的)知識は、修理中には役立つが運転中には役に立たない。しかしそこからこの知識が、故障していない時の車の動作に関してよりよい知識を与えてくれないということにはならない。同じように、もしかするとギャラガーの示唆する薄い理解でも、多くの状況では十分であり、深い理解は不必要なのかもしれない。しかし、我々がより深い社会的関係を打ち立てることは、互いの情動・信念・欲求の認識に多く負っており、再演的/基礎的共感に裏打ちされた素朴心理学がそれを可能にしてくれる。しかしこの共感は還元不可能な自己中心的な要素を含み、これが他者との出会いによって我々が動かされるという可能性をつくりだしてくれている。

→結論:心の理論論争から30年経ったが、シミュレーション説も捨てたもんじゃない。