えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「開かれた問い論法」の最近 Miller [2003]

An Introduction to Contemporary Metaethics

An Introduction to Contemporary Metaethics

An Introduction to Contemporary Metaethics
Part II: Moore's Attack on Ethical Naturalism

2.1 ムーアの強い認知主義と「自然」についての説明

・強い認知主義
‐自然主義的:自然的性質の例化に関する事実によって道徳的言明の真理値が決まる
‐非自然主義的:非自然的な性質の例化に関する事実によって道徳的言明の真理値は決まる
・『倫理学原理』のムーアは非自然主義的な強い認知主義者
→ムーアにとって「自然的」とは、「因果的」もしくは「感官によって検出可能」の意
→本当はムーアは弱い認知主義者だったが、実質的には強い認知主義者と考えて良い。

2.2 自然主義的誤謬と古典的開かれた問い論法

・ムーアの批判対象は、「道徳的性質は、定義あるいは概念上の問題として、自然的性質と同一/それに還元できる」と考える定義的自然主義。ムーアは「善い」はそもそも定義不可能だと考えた。

【古典的開かれた問い論法(COQA】
(1) 述語「善い」が自然的述語「N」と同義/分析的に等値だとせよ
(2) 「xはN」の意味の一部は「xは善い」ということになる
(3) この場合、「Nであるxは善いだろうか?」と真剣に問う人は概念的混乱を露呈していることになる。
(4) しかし、どんなN関しても、「Nであるxは善いだろうか?」という問いは開かれた問いである。つまり、Nであるどんなxについても、「それは善いかどうか」と問うことは常に>有意味な<問いである。つまり、「Nであるxは善いだろうか?」問うことは、概念的混乱を露呈するものではない。
(5) 従って、「善い」がNと同義/分析的に等値ということはあり得ない。
(6) 従って、「善である」という性質が、概念的必然性の問題として「Nである」という性質と同一である、ということはあり得ない。

2.3 COQAに対する三つの反論

1.フランケナの反論

‐ムーアの議論は論点先取である。(4)において、開かれた問いの存在に訴えるためには、分析的自然主義が間違っていることが予め示されていなくてはならない。

2.「面白みのない分析」反論

 ‐ムーアの議論によれば、概念分析が真であるのは、それが情報量の無い分析である時だけだと言うことになってしまう。しかし明らかに、概念分析は情報量があるものであり得る。
 →ムーアの再批判:情報量があって正しい分析は本当にない。(分析のパラドックス)
 →分析のパラドックスはパラドックスではない。ある概念の正しい分析の内に含まれるものに意識的でないままに、その概念を把握することはできる。例えば命題知と技能知。ある技能知を記述する命題知を全く持つことなく、その技能知を持つことは大いにあり得る。

3.「意味―指示」区別による反論

 ‐我々はある表現の指示対象を知らずとも、その意味を理解することができる。定義的自然主義者は、「善い」と「N」は意味が違うのだが同じ性質を指示対象とするのだ、と述べることができる。
・3つ目の反論に関して言えば、ムーアの批判が「定義的自然主義」に向けられたことを考えると、これは的を外している。しかしそうだとしても、「形而上学的」「総合的」な自然主義の可能性は残るし、そもそも1つ目と2つ目の反論は依然として有効である。

2.4 OQAは掬えないのか

(a)BaldwinのOQA

(13) 「善い」と「N」が分析的に等値なら、十分有能な話者は(概念についてよく考えた後)、その分析によって自分の価値判断を導くのが自然であると分かるはずである。
(14) 概念についてよく考えてみた後でも、「「Nであるxは善いだろうか?」という問いは開かれた問いだ」と言う確信は話者の間で残る。だから、概念についてよく考えた後でも、話者はNによる「善い」の分析によって自分の価値判断を導くのが自然だとは思わないだろう。
(15) 従って、「善い」はNと分析的に等値ではない
→反論:概念的に反省した後でもその分析によって実践を導くのが自然だと思わない人は、関係する概念を十分に知悉していないのである。
→再反論:この反論は弱すぎる。このような人物が概念的欠陥を持つと言うためには、実践を導くことが自然だと思わない事とは独立の理由が必要である。そうでなくては非常にアド・ホックな反論にみえる。
・従ってこのOQAは、分析的自然主義に反対する根拠を打ち建てたように思われる

(b)DarwallらのOQA

(16) 道徳的判断を下すことと、その判断によって示された行為を遂行するように動機づけられることとのあいだには、概念的/内的な関係がある(動機の内在主義)。ある行為が道徳的に善いと判断しながら、その行為をなす理由が無いと主張する人は、道徳的善さと言う概念を把握していない。
(17) 十分な英語運用能力を持ち反省的な話者は次のような確信を持っている:何らかの自然的性質Rが成立していると判断しながら、その判断に従って行為する適切な理由や動機を持っていない人物は想像可能である。
(18) 自然的性質Rが成り立っているという判断と、それに従って行為するように動機づけられることとの間に何の概念的繋がりも無いと考えれば、(17)のような確信を持つだろうと期待できる。
(19) 従って、何か別の説明が無い限りは、自然的性質Rが成り立っているという判断と、それに従って行為するように動機づけられることとの間に何の概念的繋がりも無いと結論できる。
(20) 従って、この場合(16)より、自然的性質Rが成り立っているという判断は、道徳的判断ではないと結論できる。
(21) 従って、この場合、道徳的に善いという性質は、概念的必然性の問題としてRであるという性質と同一/それに還元可能であることはない、と結論できる。

自然主義者に残された三つの道

1) (17)の確信を別のやり方で説明する
2) 内在主義を否定して外在主義を取ることで(16)を無効にする
3)「分析的」自然主義者であることをやめ、(20)から自然主義の否定を帰結させない