- 作者: W.キムリッカ,Will Kymlicka,千葉眞,岡崎晴輝
- 出版社/メーカー: 日本経済評論社
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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- Will Kymlicka. (2002). Contemporary Political Philosophy: An Introduction, Second Edition. Oxford. Oxford University Press.(2005, 千葉眞・岡崎晴輝訳, 『新版 現代政治理論』, 日本経済評論社)
- 第七章 シティズンシップの理論
- 第九章 フェミニズム(前半)←いまここ
フェミニズム政治理論は多様である。そこで本章ではとくに、主流派の政治理論に対するフェミニズムからの3つの批判をとりあげることにする。第一の批判は「ジェンダー中立的」な差別理解にかかわり、第二の批判は公私の区別にかかわる。これらの批判は、正義の構想の重要な側面が男性に偏っているとするものだ。これらに対して第三の批判は、正義の構想自体が男性に偏っているというものだ。
第一節 性的平等と性役割
近年の自由民主主義諸国は、様々な反差別的法令を採用してきた。しかしこれらの法令は性的平等をもたらしていない。[544]なぜなのか。ここで、そうした法令の中をふくめ、西欧諸国で通例、性差別とはどのようなものだと考えられているかに着目しよう。通例、性差別とは、利益や地位を供与するにあたって、ジェンダーを恣意的ないし非合理に用いることを意味する。このとき女性差別の典型例は、ジェンダーといかなる合理的関係もない職業で女性の雇用を拒否する、といったものになる。こうした理解は性差別への「差異アプローチ」と呼ばれる。
さて、西欧諸国での反差別的法令の道徳的主眼は、「男性に与えられている役割を女性にも与える」ということだった。[545]つまり、既存の社会的利益や地位の獲得にあたって、ジェンダー中立的な競争や機会を提供することが目指されてきたのだ。〔こうした法令は、利益や地位の獲得がジェンダーによって恣意的に排除されないようにする点で、差異アプローチ的な理解に基づくものだと言える〕。しかし差異アプローチは、社会的利益や地位の規定それ自体に組み込まれたジェンダー不平等を見逃してしまう。2つ具体例を挙げる。まず、消防士や警察官、軍人などへの就労条件として一定の身長・体重が定められている場合を考えよう。こうした基準は表向きはジェンダー中立的だが、男性の平均身長・体重を加味すると女性の就労の可能性が奪われてしまう。[546]もう一つ。多くの職業は、育児をしないことを前提にしないと就業できない。しかし女性は依然として育児を期待されているので、仕事を巡る競争で不利になりがちである。[547]このことから生じる不平等な帰結は、しかし差異アプローチでは差別に該当しない。というのも、育児からの解放は既存の多くの職業において実際に必要とされているのだから、このことを理由に雇用主が人を雇わないのは、〔女性であることを理由にしているわけではない以上、〕恣意的ではないからだ。
このように、ジェンダー中立性によって性的平等がもたらされるか否かは、「それ以前に」ジェンダーが(どのように)考慮されているかに依存している。[548]というのもこうした事例では、ジェンダー中立的に追求される社会的地位や利益自体が、男性の利益や価値に基づいているからだ。さらに、社会的地位や利益がジェンダーに基づいて規定されればされるほど、差異アプローチでは不平等を見出しにくくなる。[549]そうした社会では、女性は就業のための技能を向上させることがそもそもできないので、既存の男性の特権を維持するために、女性を〔女性だからという理由で〕恣意的に扱う必要が無いのだ。女性に対する恣意的差別の無さが性的平等の証拠だと差異アプローチは考えるが、むしろそれは広範な性的不平等の証かもしれないのだ。
[550]このような不正に対しては、性的不平等を支配の問題として捉えなおす必要がある(「支配アプローチ」)(MacKinnon 1987)。平等を実現するために必要なのは、女性によって規定された役割、あるいはジェンダーが関係しないような役割を生み出すことであり、そのための〔男性と〕平等な権力である。[551]この支配アプローチは正義論とどう関係するだろうか。多くのフェミニストは、平等の観点から正義を解釈すること自体を放棄する必要があるとする。たとえば、所与の枠組のなかでの測定を意味する「平等」ではなく、自分の選好する枠組みで自己理解する権利である「自律」の観点から正義を理解すべきだとされるのだ(Gross 1986)。[552]しかし、女性の自律の主張とは、女性の利益や経験が男性のそれと等しく重要であるべきだというものなのだから、支配アプローチは決して平等と相容れないものではない。むしろそれは、平等という理念の最良の解釈なのだと考えられる。
では、支配アプローチは主流派の平等解釈と両立するだろうか。コミュニタリアニズムやリバタリアニズムとは両立しない。支配アプローチは人が自身の社会的役割を問いなおすことを認めるが、それはコミュニタリアンが拒否するものだろう。またリバタリアンにとっては、女性を雇用しないことは私的所有権の正当な行使であり、支配アプローチとは整合しない。[353]リベラリズムとはどうか。多くのリベラルの理論家は、たしかに歴史的には差異アプローチを採用してきた。しかし実際のところ、差異アプローチとリベラリズムの原理は明らかに相容れない。原初状態における契約者であれば、〔自分の性別がわからないのだから、〕現在の社会的役割にあるジェンダーバイアスを取り除こうとするはずである。この点でリベラルは支配アプローチと整合的だ。しかし、支配アプローチは別の点でリベラルに挑戦する。リベラルは公私の区別や、正義とケアの関係に関する想定を修正するべきだと言うのだ。
第二節 公的なものと私的なもの
伝統的にリベラルは、平等は家族関係には適用されないと想定してきた。[555]しかし、家族を無視した性的平等へのアプローチには限界がある。二重労働の結果女性は経済的に自立できず、また経済的脆弱さが改善されたとしても、家庭と仕事の二者択一を迫られることになる。また、家事労働が公的承認を得られないという問題もある。[556]ではこうした私的領域における不正を扱うためには、リベラルを離れるしかないのだろうか。リベラルは公私の区別にコミットしており、家族を私的領域の中心においていると考えれば、そうなる(Jagger 1983)。しかし、リベラルが私的領域の中心に家族を置いているかどうかは自明なことではない。[557]ここで、公私区別の二つの構想を検討してみよう。
A 国家と市民社会
古代ギリシアでは、自由と善き生とは、政治権力行使への参加の問題であった。これに対し古典的リベラルは、一方で自由と善き生を政治ではなく社会生活のなかにおいてこれを称賛し、他方で政治の機能を市民社会での個人の自由の保護に限定した。こうした文脈においてリベラルが採用する公私の区別とは、「国家と社会」の区別に相当する。[558]この区別において家族はどこに位置づけられるだろうか。家族は人々が自由に形成する結社の一つなのだから、〔論理的に言えば、これは〕当然「社会」側に位置づけられるだろう。しかし歴史的にはそうではなかった。ほとんどのリベラルは、「社会」を成人男性から構成されるもののように記述している。つまり「国家と社会」は男性社会内部での区別であり、家族はこの区別からは抜け落ちているのだ(Patman 1987)。[559]しかし注意すべきなのは、この伝統的な「公と家族」の二分法ははるか昔から受け継がれてきた見解であり、リベラルの「国家と社会」の区別と論理的関係にあるわけではないということだ。[560]実際、リベラルもリベラル以外も、歴史上非常に異なる政治的立場の哲学者が、「公と家族」の区別を採用してきた(Kennedy and Mandus 1987)。
[561]そこで、伝統的な「公と家族」の区別と、リベラルの「国家と社会」の区別を分けよう。すると、フェミニストがリベラルの区別を拒否する理由は無いと思われる。というのも、〔リベラルの敵である〕アリストテレス的共和主義による政治賛美は、自然と文化を二分し後者を賛美する態度に基づいており、これこそ多くのフェミニストが、女性蔑視の源泉だと論じてきた態度だからだ。[562]また共和主義者は、社会に対する政治の優位を、政治の普遍性・共通性の主張に基礎づけることが多い。この主張は当然、政治を家庭領域から分離させるものであるが、これもフェミニズムとは相容れない(Young 1989)。
〔このように、国家と社会の関係については、リベラルとフェミニズムは、反アリストテレス的共和主義という点で一致している。どちらの立場でも、〕公権力は市民社会における私益促進という観点から正当化されなければならない。ただし、両者には潜在的な対立点もある。リベラルは、市民社会の結社の安定性や、言論と出版の自由について楽観的な見通しを持ちがちである。これに対しフェミニズムは、社会集団を補助したり(コミュニタリアンと共通の主張)、有害な表現を取り除くために、国家の介入が必要だと主張するかもしれない。[564]つまり、女性蔑視の長い歴史とそれに応じた適応的選好に挑戦するためには、国家の積極的介入が必要かもしれないのだ。
B 個人的なものと社会的なもの——プライバシーの権利
古典的なリベラルが個人の自由の基盤を社会生活においたのに対し[565]ロマン主義者は、政治に加えて社会的圧力もまた個人を脅威にさらすと考えた。そこでロマン主義者は、社会的生活をも公的領域に含め、友情や愛といった親密な関係のみを私的領域とした(Rosenblum 1987)。この「親密なものと公的なもの」という区別を現在のリベラルは受容し、[566]社会生活という私的な領域の内部に、個々人がプライバシーを保持しうる空間を創りだそうとしている。
[566]だがこの第二の区別も、フェミニストの攻撃の的となってきた。アメリカにおいてプライバシーの権利に憲法的地位を与えた判決、グリスウォルド対コネティカット判決は、既婚女性の避妊を禁止する法律をプライバシーの権利の侵害にあたるとした。これは一見女性の勝利に見えたが、そうではなかった。最高裁解釈では、家族に対する外からの干渉がプライバシーの侵害にあたる。しかしこの理解は、同時に、女性の利益を保護するために家庭生活を是正することを不可能にしてしまう。このような経緯から、プライバシー論によって国家が女性への責任を放棄することになったという批判がなされることになった(MacKinnon 1991)。
しかし、最高裁のプライバシー解釈にはおかしなところがある。[567]個人が持つはずのプライバシーが、家族の観点から定義されているのだ。[568]なぜこのようなプライバシー概念が採用されてきたのだろうか。それは、リベラル以前の、家族は自然なものだという伝統的観念の影響だと考えられる。司法は長いあいだ家父長制理論に支配されており、家族とは家長の人格を拡大したものだと考えてきた(Benn and Gaus 1983)。1920年代には家父長制理論のあとを「家族の自律性」理論が継いだ。この理論においては、伝統的な家族は社会的安定の前提条件と見なされ、したがって司法による改革を免れた。そして近年のプライバシーの強調は、保守主義者が家族を手つかずにしておくための新たな正当化となったのだ。実際最高裁は、プライバシー概念が家族の自律論と連続していることを明確に認めている。[569]確かに現実には、プライバシーの権利によって家庭の領域が放置されている。だがそれは、リベラルなプライバシーが家庭生活を手つかずのままにするからではない。そうではなく、家庭生活を手つかずのままにしておきたい人々がリベラルなプライバシーの語彙を採用しているからなのだ。
[570]家父長的理念から切り離された〔つまり個人ベースの〕プライバシー概念について考えれば、プライバシーを尊重するというリベラルの基本動機にフェミニストも賛同するだろう。リベラルの基本動機とは、他者の干渉や要求からの解放、新規なアイデアの試行、親密な関係の深化のための空間をもつことを求めるものであり、これは、全ての女性が「自分自身の部屋」を持つべきだとしたウルフの主張と通じている。いずれにせよ、リベラルのプライバシー概念は家族と公を切り離すものではない。というのもリベラルのプライバシーは、家族の外部からも、家族の内部からも、人が保護されることを求めている。そこで、プライバシーを守るために家族の内部に対する国家の介入が必要になるかもしれない。〔これこそフェミニズムが求めていたものであり、〕そしてそれを妨げるものは、リベラルによる「国家と社会」の区別にも、プライバシー論の中にも、何も無いのだ。