えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

神経生理学はどのような道徳的動機観と調和的か Schoroeder, Roskies, Nichols[2010]

The Moral Psychology Handbook

The Moral Psychology Handbook

  • 作者: John M. Doris,Fiery Cushman,Joshua D. Greene,Gilbert Harman,Daniel Kelly
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
  • 発売日: 2010/07/06
  • メディア: ハードカバー
  • クリック: 4回
  • この商品を含むブログを見る

  • The Moral Psychology Handbook

目次
Chap.4 Moral Motivation ←いまここ
Chap.8 Linguistics and Moral theory
Chap.9 Rules
Chap.11 Character

1.動機

動機とは心理学的にリアルなものか? オルストンは動機概念は動機による説明から抽象されたものだと考えたが、本論では動機は行為の産出に因果的役割を果たすものと考える。動機とは行為を引き起こすことができ、特定の感情に結びついている、顕在的な状態である。

2.道徳的動機に対する哲学的なアプローチ

道具主義(ヒューム主義)

まず、それ自身のゆえに欲求される内在的欲求がある。この欲求をどう充足するかについての信念を形成したとき、人は動機づけられている。つまり動機とは、内在的欲求の手段であると信じられたことを行うような、非内在的な欲求(あるいは意図等)を持つということである。

認知主義

欲求は行動上の衝動を生み出すような状態でしか無い、どうしてそのような衝動が道徳的に価値ある行為の源泉でありうるのかと彼らは疑念を呈する。むしろ道徳的動機は信念から始まる。道徳的価値のある行為についての信念が、先立つ欲求とは独立に、その行為へと動機づけるのである。

感情主義

感情主義者は、特定の感情に駆り立てられていない限り行為が道徳的に動機づけられたとは考えられないと主張する。もちろん任意の感情で良いわけではないが、同情などは明白な例だろう。

人格主義

 これまでの説は特定の心的状態を強調していた。一方人格主義者はより全体論的な見方をとり、道徳的価値ある行為は良き性格に由来すると考える。良き性格には知識、欲求、情動的傾向、知識・欲求・情動に対し善い行為で応える長期的な習慣が含まれる。
 道徳的価値ある行為は知識から始まる。このような知識は、道徳的なヒューリスティックス(嘘をつくのは一般的に悪い、など)と、特定の状況で特定のヒューリスティックスに訴える学習された感受性との組み合わせを通じて保持されているだろう。こうした道徳的知識が(無意識な)推論によって、明示的な信念を導く。
 しかしこの信念も、一般に「徳」と言われるような、適切な欲求・情動・行動の傾向性の複合体がなければ役に立たない。人格主義者は、良き性格を形作る情動的・行動的傾向性が、長期的な内在的欲求に還元できるとは考えない点で道具主義者と意見を違える。
 

3.道徳的動機の神経生理学

意図的運動に関する全ての脳活動は、前運動皮質を刺激する必要がある(前運動皮質は運動皮質を支配し、この二つが排他的に脊髄を支配するため)。前運動皮質は様々な小区域に分かれ、結局、様々な可能な身体運動を支配する。各区域が身体に対して運動「指令」を出す能力を持っているようなものである。こうした可能な運動は比較的単純なものなので、複雑な行為が可能になるには前運動皮質に対してさらに高階の支配が必要となる。脳の殆ど全ての部分が前運動皮質を支配することが可能だが、同時的に前運動皮質に影響を与える2群のファクターがある。これらは、皮質から来るか皮質下部から来るかで二分することができる。
皮質的な入力は、脳の知覚と高次認知構造からくる。知覚的入力は単純(指に何か触れているという情報)なことも、複雑(自分の父親に似た人を見ているかどうかという情報)なこともある。高次認知的入力は複雑な特徴を持つ。例えば高次認知構造は、視覚的・身体的・自己受容的なインプットに基づき、手をのばして掴むという運動を精確にガイドしたり、状況の社会的意味を把握することの原因となるような構造を含んでいる。複雑な道徳的信念や道徳的熟慮の実現に関しての詳細な説明はまだないが、皮質の高次構造において実現しているはずである。そしてこうした構造が活動すると、前運動皮質にアウトプットを送ることになる。
皮質下部的な入力は、大脳基底核の運動アウトプット構造からくる。この入力は、前運動皮質における活動を広範に抑制したり、その抑制を選択的に緩めて行為の産出を許可したりする。前運動皮質が知覚・高次認知構造に刺激されると、ある領域はある運動を、またある領域は別の運動を生み出す。さらなる指導がなくては混沌としてしまう。そこで、運動基底核から来るインプットは多くの可能な運動が産出するのを妨げ、一方で特定の可能な運動指令のみを先に進ませ、身体の運動へと変化させるのである。この行為選択には四つの基盤がある。
・1:知覚と認知。世界に関する情報が行為選択系に与えられなければ、行為は選択されようがない。
・2:前運動・運動皮質の活動部位である。これは、これまでどんな行動を選択し、今どんな行動に対して準備があるかを行為選択系に対して伝え、新しい適切な行為を選択させる。
・3:脳の報酬系である。報酬系には、特定の内容を報酬にし、他の可能な内容を罰とする十分な知覚的、高次認知的表象能力からの繋がりがある。また、扁桃体からの入力もある。扁桃体は脳の強い情動的反応の原因であるとしてよく知られている。
・4:運動基底核の内的構造そのもの:運動基底核は、習慣や行動の傾向が蓄えられる場所である。

4.神経生理学の最初の含意

道具主義への含意

 道具主義の言う内在的欲求の実現先は、報酬系が有力な候補である。pを内在的に欲求する時、人はpの表象を持つ。また、その欲求を持つことでpを引き起こすように動機づけられる傾向があり、Pを予見する場合快の感じを抱く傾向がある。こうした役割を一気に引き受けられる脳内の構造は報酬系だけである。
 また内在的欲求実現は手段的信念と組み合わされる。恐らく信念は高次認知中枢における高次認知的状態だろうから、この主張のためには報酬系と高次認識が組み合わさることの可能な脳の構造を見つければよい。運動基底核がそれだ。ただし、ここで高次認知中枢はさらに知覚と、現在の運動指令から来る情報とも組み合わさる。この場合、道具主義者の主張よりもさらに多くの働きが可能だということになるが、他に有力な候補もないので、とりあえず道具的信念は高次認知中枢に見出されると受け入れてよかろう。
 内在的欲求は信念と組み合わさって動機を生む。確かに、報酬系と高次認知中枢は運動基底核の活動を生み、これが運動指令を開放し、普通は行動が生まれる。動機は運動基底核の活動でもその下流の構造である前運動皮質、運動皮質の活動でも実現されると言って悪い理由はないので、道具主義者はこの図式を受け入れられる。これらの構造は、1章でみた性質:因果的にリアル、(2)顕在的状態(3)内在的欲求とも信念とも異なる(1)意図的な行為の生産に必要、を持つ。
 しかし、こうした運動基底核・前運動皮質、運動皮質の状態は、正しい内容を持っていなくてはならない。例えば、ジェシーが手を挙げたがっており実際に手を挙げた場合、ジェシーは手を挙げるように動機づけられており、運動基底核の状態の内容は「手を挙げること」だったと言うのは理にかなっているだろう。しかし、ジェシーがパーティでよく見られたいという欲求をもつと考えよ。既に見たように前運動皮質・運動皮質の発する指令は、かなり特定的な身体運動か極めて単純な行為への指令である。しかし「パーティでよく見られること」は単純な運動でも行為でもない。従ってここで上の例と同じように、「パーティでよく見られたい」と動機づけられていたとは言い難い。ここでは応答の仕方を示唆する。
 まず、ジェシーはよく見られたいという欲求と、セーターに袖を通すことがそのための手段であるという欲求から、緑の袖を通すことに動機づけられていのだと主張することができる。この基本的な動機は確かに基底核の状態に帰属させることができる。次に、よく見られたいという内在的欲求のもとでジェシーに帰属可能なQを引き起こすという他の動機も、単に次のような事実:Qを引き起こすことが内在的欲求にとって道具的であるという事実の認識と、この認識が基本的な動機(袖に手を通す、ズボンをつかむなど)を導くプロセスの内にあるという認識にすぎないのだと主張すればいい。
〔つまり、欲求pに信念Q→pが与えられるとき、動機Qとは、「Qが単純な動作q1&q2……からなり、信念Q→pは信念q1&q2……→pを含意する」という認識に他ならない。〕
また、デイヴィドソンのように行為の同一説をとり、基底核は確かに腕を入れることを指令したのだが、この指令は同時に「目立つセーターを着ること」とも記述できる、と考えてもよいだろう。
ここまでの仮定:動機的な状態は運動基底核、あるいはその下流である前運動・運動皮質に存在する、は正しいのだろうか。基底核の部分的損傷は、知的減退を引き起こすことなしに、運動・思考の動機の消去を帰結する、という証拠がある。完全ではないが、これはわれわれが動機を正しい位置に局在化したことの証拠になるだろう。

認知主義への含意

ここまでの話を踏まえれば、認知主義者は高次認知中枢で実現する信念が、基底核で実現する動機に直接影響することを望むだろう。これは可能である。図からも明らかだが、高次認知系と動機系の神経的実現には解剖学的な直接的つながりがある。従って、道具主義者と認知主義者は神経心理学の解釈に関して対立しなくて良い。真の対立点は、道具主義は欲求が広範な影響力をもつと主張する。一方、認知主義者は、少なくとも道徳的行為産出に関しては、古い系が理性の力によって抑制されていると考える(これも結局経験的な問いである)。しかしここまでの神経生理学的知見からは両者の間で決定はできない。

感情主義への含意

 報酬系は、情動のための重要な神経的構造だと考えられる辺縁系から入力を受け取っている。例えば、扁桃体は知覚・認知中枢から入力を受け取り、極めて様々なアウトプットを生み出す:強い情動に伴った身体の変化(心拍数、呼吸など)、意識的に知覚できない身体の変化(瞳孔の拡大など)、特徴的な情動的表情、感じられる快不快などに影響を及ぼす。
 しかし、脳の様々な領域がそれぞれ違った仕方で様々な情動に寄与しているので、このような単純な見方はもう少し強化される必要があるだろう。哲学者の中には、特定の感情を脳の領域に局在化しようとするものもいる。一方情動を、典型的には扁桃体やほかの領域によって引き起こされた身体変化の感じと同定しようとする者もいる。感情主義者なら前者を取りたい。辺縁系の活動は身体変化の感覚的知覚よりも直接的に報酬系に影響するからだ。また身体変化の知覚は主に知覚−報酬系の繋がりを通じて行為に影響するが、これは道具主義者の説明の一部である。真に独特な説であるために、感情主義者なら辺縁系、とくに扁桃体を情動の中枢とするだろう。

人格主義者への含意

 善についての暗黙の知識、ヒューリスティックに関する明示的知識、一見類似な状況の差異に関する知覚に駆動された判断、これらはすべて知覚・高次認知構造で実現し、動機系に情報を入力できると期待される。また、人格主義者は適切な習慣(性格)の必要性を主張するが、これはすでに述べたように運動基底核の内部構造で実現されると考えるのが一番の候補である。しかも運動基底核は知覚、認知、情動から入力を得、それらと内部構造儀者を基に運動指令を開放することで動機を構成する。従って、人格主義者も神経生理学的知見にひとまずは支えられるだろう。人格主義者は他の説に対して、典型的な道徳的価値のある行為の説明は、構造の特別な部分よりも構造の全体を支持すると経験的な賭けをすることになる。

5.いくつかの差し迫った問い

1.神経科学は道徳的動機の理論に影響を与えるのか?

我々はそう思う。神経科学を背負わなくていい方に有力な議論がなされない限りは。脳活動はいかような解釈にも開かれているから、道徳の理論化に役に立たないと反論があるかもしれない。しかし、心的状態に関する理論は因果的主張を含むのでこの反論は当たらない。例えば快を例にとれば、どの種の脳損傷が快を促進/減退させるかに関する事実、脳の興奮と快に関する事実が、快をどこに局在化するのが理にかなった解釈かに関する制限となるだろう。もちろん、脳活動の解釈は開かれているから、特定の見解を保ち続けることは「可能」ではある。しかしそれは多くの哲学者にとってはSpecial Pleading(自分に有利なように説を展開すること)であろう。Special Pleasingが可能だという事実は、神経科学から理論へ科せられる制約がないと考える理由には全くならない。

2.神経科学が道具主義に課す問いは?

 道具主義に対して神経科学の知見は概ね支持的だった。ひとつの僅かな問いは、道具主義が考えるよりも多くの影響が行為にはあるという点である。例えば、運動基底核の内部の繋がりが動機産出に重要であり、これは習慣を実現していると考えられることを見てきた。そこで、どんな行為も習慣とは独立でないことになる。また、運動基底核には扁桃体からの影響もあるから、行為は情動と独立に産出されない場合がある。
 道具主義者は、これらの因果的要因は道徳的動機には関係しないと論じることができる。習慣や扁桃体の活動が、道徳的動機を部分的に引き起こしていたとしても、そのことは動機の道徳的価値とは無関係である。
しかし例えば、習慣が常に道徳的動機産出に役割を果たすという考えは、道具主義者が抱いているかもしれない別の考え:動機に完全な価値があるのは正しい欲求・信念のみによって引き起こされる場合である、と衝突するかもしれない。
例えば、ある母親を助けた人物がいるとする。彼は部分的には、良いことをしたいと思い、それが良いことだと信じていたがゆえにこの行為を行った、しかしまた部分的には、若くて奇麗な姉ちゃんを助けたいという欲求と、この母親は若くて奇麗だという信念によっても動機づけられていた。この人は、完全よりは低い価値を持っているように思われる。もし「部分的には習慣によって動機づけられている」という事が、「道徳に関係ない欲求によって動機づけられている」という事と似ているとすると、完全な道徳的価値を持つ行為は存在しない事になる。
少なくともこうした理由から、道具主義者が道徳的動機の神経心理学の知見の細部に満足できるかは明らかなことではない。しかし、そもそもこうした問題に悩む必要のない道具主義者もいるかもしれない。どちらであるかは、神経科学とともに、個々の道具主義者の見解の細部にも依存するだろう。

3.神経科学が認知主義に課す問いは?

 認知主義は神経生理学の証拠を最も受け入れ難い説だと思われる。道徳的認知が欲求とは独立に動機に直接影響する理論的可能性があることは既に見たが、この可能性もよく考えると問題含みである。
パーキンソン病は震え、積極的行動の困難、最終的に全身麻痺を結果する。この病気が内在的欲求の座である報酬系の運動基底核へのアウトプットである、黒質緻密部のドーパミン放出細胞の死によって引き起こされることを考えると、パーキンソン病の存在は、普通の人間における動機の産出には内在的欲求が必要であることを示しているように思われる。これに対し認知主義者は、動機が可能になるためには内在的欲求の存在が必要だと認めるが、しかし動機を生産するのに欲求は何の重要な役割も果たさないと主張するかもしれない。
認知主義者の考える動機とは、欲求とは独立に、高次認知中枢における活動から直接出てくるような動機である。そして、確かにそういうことは可能なのだが、この種の動機はトゥレット症候群に見出される。
 トゥレット症候群はチックにより特徴づけられる。患者によれば、チックはどんなに激しく抵抗しても強制力をもっているようである。トゥレット症候群の原因は運動基底核の機能不全であると思われる。運動基底核は知覚・高次認知中枢から発議された運動指令を制止させるが、報償信号がそれを開放していないのに、いくつかの指令が通り抜けてしまい、その結果チックが起こるのである。これはまさに認知主義者の動機と類似しているが、チックが道徳的価値のある行為の典型例だとは考えられないので、この類似は認知主義者の動機理論にとって全く有望では無い。
 別の探求の道もある。理性のみが道徳的動機の原因ならば、理性を傷つけないような脳損傷は、道徳的動機も傷つけないはずである。しかし臨床的知見はこれとは異なる。前頭葉前皮質の腹内側(VM)領域の損傷は、報酬系への認知的入力を損なわせる。こうした患者に特に倫理的ではない実験課題を与えてやると、よりよい戦略がわかっていたと証言するにもかかわらず適切な戦略をとる事が出来ず、負け続けてしまう。このことは、少なくとも非倫理的領域では、理性のみでは行為をガイドするのに十分でないことを示唆する。倫理的な場面でも動機を産出しないのではと考えることにも理があるだろう。ただ、VM前頭葉前皮質の与える影響の解釈はまだ十分になされていない。
 次に、精神病質者の存在がある。情動的な機能不全と反社会的行動によって特徴づけられる彼らは、認知的には正常なのだが、道徳的に悪い行為に対する呵責や罪悪感が薄い。精神病質者は社会的・道徳的規則を理解しているように見えるし、普通推論能力には異常がない。しかしそれらに動機づけられないことから、認知主義者に対しては明らかな困難となるだろう。しかし、別の研究によれば精神病質者の道徳認識には欠陥があるともいわれる。彼らは道徳を規約の侵犯から区別する能力に乏しいのである。ここから、彼らの道徳概念には欠陥があると考える人もいる。どちらが正しいのかはいまだ未決である。
 VM患者の話に戻る。彼らは推論能力も、世界についての知識も正常であり、さらに様々な仮説的状況について普通の規範的判断を下すことができる。にもかかわらず彼らは行為の仕方がまるで変わってしまう。特に複雑な社会的要求をうまく処理していくのに多くの障害を持つ。彼らは、明らかに何が正しいか知っているのに、正しいと明らかに判断したことを行うよう動機づけられないのである。これは認知主義者にとって非常に不利な事例である。最近では、VM患者は道徳的障害があるわけではなく、非道徳的障害が道徳的場面で現れているだけだという研究もあるが、決定的なことを言うには更なる研究が必要である。
 人生の早いうちにVM皮質を損傷した人は、後の人より一層精神病質的であることが分かっている。彼らは暴力的で、自己中心的である。ここから、無傷のVM皮質は道徳概念獲得には必要だが維持には必要ではないと説明できるように思われる:彼らの暴力性が高いのは、そもそも道徳概念を獲得していなかったからである。また、後に損傷した人が暴力性でないのは、以前に獲得した道徳概念が残っていてそれに動機付けされているからだ。     
 しかし別の説明のほうが患者の心理的人物像によく合致する。VM患者は道徳判断に関係する脳領域と、欲求・行為遂行に関係する領域との因果的なつながりが遮断されていることが知られている。従って、彼らの暴力性の欠如は、〔単に、〕反道徳的動機がなく、習慣の働きがあることによるのである。
 これまでの見解では、道徳判断は高次認知的皮質の内にある。動機は、報酬系に仲介された活動が基底核や前運動皮質へ送られることによる。認知的な道徳判断と動機系との連合は、VM前頭葉前皮質から基底核への連結によって媒介されている。VM皮質と動機とのつながりは因果的なものであり、因果的なものは偶然的なものである。従って、VM患者のような事例は、道徳的判断は必然的にも本質的にも動機的なものではないことを示すだろう。

4.神経科学が感情主義に課す問いは?

 脳イメージングや精神病質者の研究から、道徳的行動には情動が一定の役割を持つことがわかっている。しかし動機実現者(運動基底核、前運動皮質、運動皮質)は、情動の領域だと考えられる扁桃体とは別個の構造である。既に述べたように扁桃体から報酬系への入力が存在するが、扁桃体摘出手術の後も動機は失われないことを考えれば、動機が扁桃体と独立に作用しうることはほとんど明らかである。
 一つの応答は、「道徳的」動機には扁桃体が不可欠だと言うことだ。道徳判断は道徳感情に依存すると主張した上で、さらに道徳動機は道徳判断に依存するという主張もある。また、特定の道徳的情動に引き起こされた場合のみ、動機は道徳的と言うに値するという主張もありうる。しかしこれは大きな後退である。伝統的なヒューム的議論なら、「道徳的考慮は動機づける」と「情念のみが動機づける」から、「道徳的考慮は情念を介して動機づける」と主張するが、神経科学は動機は情動を必要としないと示しこの主張を切り崩すからである。
 情動の本性に関する一般的な考察によって応答することもできる。すでに示したように、扁桃体以外の辺縁系領域も、やはり通常の情動の機能にとって重要である。情動の第一の座を扁桃体とするというのは確かに疑問が残る。
哲学者の中には、情動は身体の変化の原因なのではなく、むしろその経験だと考える者もいる。この場合情動は知覚的状態である。道徳感情が動機づけに役割を果たすのは、正しい知覚的構造が運動基底核へと結合していることによるのである。しかしこの説をとると、認知説が直面した問いがまた出てくることになる。
 それでも、「罪に苛まれる感じ」には「悪いことをした」という信念とは違う何かがあって、それが強烈に動機づける力を持つように思われる。罪に苛まれる感じは極めて不快だからである。しかし、身体の知覚と身体の知覚が持つ不快感は区別すべきである。確かに苛まれる感じの不快さは強く動機づけるが、それは不快それ自体が動機づけるからなのである。しかし、この議論は感情主義者に不利にはならない。感情主義者なら、道徳感情はその本質的要素として快や不快を含むことで、道徳的価値のある行為を動機づける、と主張できるからだ。
 しかしこの見解では、快不快が行動産出に持つ役割が明確ではない。快は報酬系の活動で実現するものと見、動機の直接的な原因だと見る者もいるが、ここまで快は報酬信号によって引き起こされると考えてきた。図では、動機が関係する限り快は知覚・認知的の構造的性質をもつものだとして扱っている。この解釈が正しければ、またもや認知主義者の困難が現れる。ただ、多くの哲学者が快不快は動機と特権的関係を持つとやはり考えている。彼らが正しければ感情説の直面する問題は軽くなるだろう。
 感情主義者をより支持すると思われるような情動観は一種の〔情動に関する〕認知主義である。つまり、情動の核は、情動対象に関する信念と欲求の組み合わせだと考えるのである。この考え方をとれば、感情主義は少なくとも道具主義と同じくらいはうまくやるだろう。

5.神経科学が人格主義に課す問いは?

 人格主義が提唱する道徳的要因の複雑な組み合わせは、神経科学的知見と最も親和的だろう。欲求と信念に訴えることで道具主義の利点を持ち、しかも認知主義者の困難なしに感情主義的要素を組み合わせることができる。ただ、二点改善した方が良い。
 まず、よりラディカルになった方が良い。既に見たが、人格主義者の説明はまず知覚と道徳的ヒューリスティックに始まり、特定の信念に至る。しかし、この信念が必要だという制約は必要だろうか。図も示唆するように、知覚・認知系と動機系は緊密に結びついている。誰かが泣くのを見るとき、この知覚が欲求の渇望を起こし、それが人をして慰めるようにさせることは、信念の介入なしでも可能である。こうしたことは道徳的に適切ではないのか? 問題は難しい。まず、知覚された涙すべてによって動かされることは道徳に価値あることではない。情けをかけない方が道徳的である場合もある。従って、涙の知覚と泣いていて欲しくないという欲求だけでは不十分なのである。
 別の考え方もある。特定の行為が道徳的に正しいという信念を正当化するだろうあらゆる要因が、知覚と信念両方によりとらえられて、一気に動機系を圧迫し、正しい行為を引き起こすかもしれない。この因果的影響の全体論的な組み合わせは複雑に見える。しかし、道徳的に正しいことを「明示的にコード化」はしていないが、「含意する」ような入力に対して、道徳的に正しい出力を返すということが、基底核に学習できないと考える理由はない。
 次に、より保守的になった方がいい。人格主義者は、欲求、情動、習慣の三つ全てが道徳的価値を持つ動機に必要だと考えている。しかし前節でみたように、動機産出において感情が欲求と独立に特権的な役割を持っているかは不明である。今後の研究の結果によっては、3つの要素を2つに減らすべきだろう。

6.意志の弱さはいかにして可能か?

 これも既に見たが、基底核の行為選択系は高次認知過程だけでなく、扁桃体と報酬系を含む皮質下の要因にも左右される。さらに、基底核は比較的古い系であり、複雑な熟慮的過程の実現を可能にする皮質領域の進化以前から、行為選択にかかわっていたであろうことに注意せよ。このことは、行為選択が熟慮的判断を完全にバイパスすることがあるだろうと示唆する。
ここでアクラシアの事例を検討しよう。あらゆる条件を考慮してデザートは食べるべきではないと判断したのだが、クレームブルレを食べてしまったアンドレアを考えよ。アクラシアの可能性にまつわる困難とは、アンドレアのよく考えられた判断はデザートを控えることではなかったという事になってしまうか、もしくは、彼女のクリームブルレを食べたことが意志的でなくなってしまう、という点である。
まずはじめの選択肢を考えよう。ここまでの議論からこの困難を取り除く方法は明らかである。アンドレの判断は高次認知系で実現されている。そして、皮質下メカニズムは判断に媒介されることなく、行為選択に直接影響することができる。従って、アンドレアの判断はやはりデザートを控えることであった。〔アクラシアは存在する。〕
アクラシアに懐疑的ならば二つ目の選択肢を取り上げ、アンドレアの行為は意志的でなかったというだろう。意志的という哲学的カテゴリーは神経科学のカテゴリーとはかけ離れているので問題はデリケートだ。しかし一つの考え方は、よく考えられた判断であるがゆえに選ばれた行為であることが、意志的行為の必要条件であるというものだろう。つまり、ある行為が意志的なのは、よく考えられた判断が基底核で支持された場合に限る。この見解は確かにアンドレアの行為を意図的なものから除外する。しかし、日常的な実践からも外れたこのような除外をしなくてはならない根拠は全く明らかではない。
 もう少し有望な道を採ろう。トゥレック症候群のチックを思い出そう。あの行為は、基底核によって促されることなく生じた運動であった。ここから、基底核による促しは意志的行為の必要条件であることが示唆される。また、十分条件でもある。何故なら、再び人間以前の祖先たちのことを考えると、どのような行為が最善なのかといった信念なしでも、彼らは意志的なふるまいができたというのはもっともらしいと思われるからである。(どういう意味での「意志的」か。まずその行為は強制されていない、そして、その行為は行為者自身の認識的/意欲的観点からみてとにかく合理的だと評価されうる、この意味である。そしてこれで十分だろう)。この見解が正しければ、アンドレアの行為は意図的である。〔アクラシアは存在する。〕

7.神経科学は利他主義について何を明らかにしてくれるか

 快楽主義によれば、全ての究極的な欲求は自分自身が快を得、苦痛をさけることである。この説が正しければ、他人の福利のための欲求は、究極的には存在しないことになる。神経科学が明かしてくれるのは、快楽主義は偽であるという事である。というのは、内在的欲求は報酬系で実現するが、報酬系は快や苦痛を支える構造とは区別される構造だからである。快・苦痛の信号が欠けている人であっても、特定の仕方で行為する内在的欲求を持つことは可能である。
 また、痛みを経験すること、痛みを創造すること、他者の内に痛みを知覚することに関係する脳領域は大幅にかぶっていることが示されている。報酬シグナルは自分自身の苦痛を減らすような行為を制御することに関連しているので、他者の苦痛を減らすことにも関連しているかもしれない。
 もちろん、快楽主義的でない利己主義もあるため、利己主義に関してはまだ論ずることがある。しかし、神経科学が欲求の一般的説明としての快楽主義を退けることができれば、大きな貢献だろう