えめばら園

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最小意識状態患者の延命治療停止に対する違法判決について Sheather (2012)

jme.bmj.com

  • Julian C Sheather, 2012, "Withdrawing and withholding artificial nutrition and hydration from patients in a minimally conscious state: Re: M and its repercussions", Journal of Medical Ethics, 39(9), pp. 543–546.

 2011年、イギリスの保護裁判所は、8年間最小意識状態(MCS)にあったM氏について、人工水分・栄養補給を停止するのは違法だと判決を下した。これは、MCS患者の人工水分・栄養補給停止にかんするイギリス初の法的事例だとされている。以下ではこの判決の法的特徴を概説する。なお家族によると、M氏は完全な依存状態で生きたくはないと述べていたが、しかし治療を拒否する正式な事前決定は行っておらず、また代理人も指名していなかった。

背景1: 「代理判断」と「最善の利害」

 M氏のように自己決定能力のない成人にかんする判断にかかわる法律として、英国では2005年に意思能力法が施行されている。しかしこの法律以前から、コモンローとして、財産などにかんする決定と福祉にかんする決定が区別されてきた。すなわち一方で財産にかんする決定では、裁判官は「代理判断」テストを採用し、「当人に決定能力があれば何を望んだか」を判断しようとする。このアプローチでは、当人の事前の自律性が比較的尊重される。他方で福祉にかんする決定の場合、利害と負担のバランスを見る「最善の利害」テストが採用されてきた。このアプローチでは、事前の希望も加味されるが、現在の福祉がより重視される傾向がある。

 意思能力法2005では、判断は「当人の最善の利害においてなされなければならない」としている。最善の利害の決定にあたって考慮すべき事項の一つは、当人の過去の希望や感情だ。ただしその他の考慮すべき事項として、当人の現在の希望や感情、当人の信念や価値観、当人が助言者として指名した人の見解、当人のケアに従事している人の見解、が挙げられている。M氏のように過去の希望・感情について証拠が不十分な場合には、現在の福祉とのバランスをとることが求められる。

背景2: 延命治療の撤回

 延命治療の撤回について、意思能力法2005には意思決定者の動機にかんする制約がある。すなわち意思決定者は、「その処置が当人の最善の利害であるかを考慮する際に、その人に死をもたらそうという欲求に動機づけられていてはならない」。またM氏の場合、裁判官は意思能力法2005の行動指針も参照した。そこでは、「延命治療に効果がない、患者にとって極端な負担である、あるいは回復の見込みがないといった、ごく限られた場合」には、延命治療の撤回が当人の最善の利害であるかもしれないとされている。さらに裁判官は、遷延性植物状態(PVS)患者の延命治療停止を合法とした判例(Tony Bland事件)からも指針を得た。すなわち強力な大前提として、治療上の目的を達成する見込みが合理的であるかぎり延命治療はなされなければならない(「生命の神聖さ」の原理)。場合によっては、この原理の力は利害と負担のバランスの影響を受ける。ただし、PVS患者のように治療が「不毛」であるごく例外的な場合には、神聖さの原理は適用されない。

M氏の最善の利害にかんする判断

 以上から分かるように、M氏にかんする判断は当人の最善の利害に基づいて下される法的義務があった。では、最善の利害の評価にあたって裁判官はどのような要因を考慮したか。

MCSの診断

 裁判官はMCSとPVSの違いに言及した。すなわち「M氏は、感覚をもち、臨床的に安定しており、自身と環境に気づき、人や音楽に反応し、また極めて限定的ではあるが自身のニーズを伝達することもできる。つまりM氏は、植物状態の患者にはない仕方で、認知的に活発である(recognisably alive)」。「認知的に活発」なMCS患者とそうではないPVS患者という区別は、最善の利害を評価する際に極めて重要な区別である。

親族・介護者の見解

 意思能力法2005に従い、M氏をケアする人々の証言が集められた。これにより、M氏の現在の状態が評価された。

M氏の希望と感情

 意思能力法2005に従い、M氏の希望・感情は当人の最善の利害を決定する一要因である。前述のようにM氏は法的拘束力のある事前決定をしていなかったが、弁護側と親族は、M氏の過去の希望と感情が決定的要因になるべきだと主張した。ここで弁護側は、過去の希望・感情と現在のそれが異なるかもしれないという重要な問題について次のような見解を示した。すなわち、確かにM氏の現在の利害は過去のそれと異なっているかもしれないが、そうだとしても、MCSになった現在のM氏の利害は極めて些細な(marginal)ものに過ぎず、事前に表明していた利害に優越することはない、と。これに対し裁判官側の見解では、M氏の過去の発言が十分考え抜かれたものであることを示す明確な記録がない以上は、M氏の自律の尊重は決定的な要因にはなりえず、現在の福祉を強調しなければらない。

尊厳

 尊厳は、意思能力法2005では論点として定められていない。しかし弁護側は、M氏の現在の状況は尊厳を欠いており、延命治療の停止によって尊厳が促進されると論じた。これに対し裁判官は、十分ケアされ快適で可能な限り苦痛のない障害者の生には尊厳があるとした。

快と苦のバランス

 過去と現在の利害にまつわる問題に続き、M氏の現在の経験における快と苦のバランスが評価された。専門家の証言に基づき、M氏は定期的に痛みを感じるが、常にではなく、その強さが極度のものだと考える証拠はないとされた。他方で楽しみについて、専門家はM氏の生は楽しみの面ではせいぜい中立的なものにすぎないと意見したが、裁判官はこの見解を退け、障害者の生における快は時として小さいが軽視すべきではないと主張した。

判決

 最終的に、裁判官はM氏の事前の希望には決定的重要性を与えなかった。M氏の生にはいくらかのポジティヴな快が含まれ、それはさらなるケアによって増える可能性が高いとされた。裁判官の見解では、生命の神聖さが決定的要因であり、人工水分・栄養補給を中止することはM氏の最善の利益にはならない。

展望

 最後に、今後の類似事例について裁判官は以下の勧告を行った。まず、VSまたはMCS患者に対する人工水分・栄養補給停止の申請は全て、高等法院の裁判官に対して行わなければならない(保護裁判所実務指示書9E第5項)。次に、以下の(1)と(2)を満たさない場合、VSまたはMCS患者に対する人工水分・栄養補給停止の申請を行ってはならない。すなわち、(1) 意識障害の診断のために、"Sensory Modality Assessment and Rehabilitation Technique"(SMART)か、その相当物が実施されていること。(2) MCSと診断された患者の場合、 "Wessex Head Injury Matrix"(WHIM)による評価が長期間実施されていること。