えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

アリストテレス『カテゴリー論』7章にみられる、知識と知識対象が同時的である可能性への言及について:古代注釈者たちの見解

 『カテゴリー論』7b10でアリストテレスは、「関係的なものは、その本性上、同時に存在する」と主張しています。これはたとえば、ある時に奴隷が存在するならば、奴隷というものの本性上、同時にその主人が存在するのでなくてはならない、ということです。逆に、一方の人が奴隷でなくなれば、他方の人はその主人ではなくなるはずです。この特徴は「関係の最も独特な特徴」(シンプリキオス)とも言われていますが、しかしここには例外があるとアリストテレス自身述べています。その代表例が知識です。知識とは常に何かについての知識であることから、これは関係的なものであるとアリストテレスは考えています。しかし、たとえばある動物についての知識を得るとき、当の動物は知識が得られるより前に存在しているはずです。従って、知識と知識の対象、つまり「知られうるもの」は、同時に存在するわけではない、ということになります。

 さて、このようにまとめると話は比較的明確だと思うのですが、アリストテレスは実際には次のように書いています。「たいていの場合、諸事象があらかじめ先行して成立し、その事象の知識をわれわれが獲得する〔……〕じっさいのところ、知識が知られうるものと同時に成立するという場合は、極めて希にしか見られないか、あるいはまったく見られない」(中畑訳、下線部引用者)。このテキストは、知識と知識の対象が同時存在する場合が、まれにではあるが存在するとアリストテレスが認めているように読めます。しかし、知識と知識の対象が同時に存在とは、いったいどういう事態なのでしょうか? 

 この個所でアリストテレスは何を言おうとしていたのか。この記事ではその手がかりをえるべく、ひとまず3人の古代注釈者、ポルピュリオス、アンモニオス、シンプリキオスの見解をメモしておきます(英語からの重訳です)。

ポルピュリオス

Porphyry: On Aristotle Categories (Ancient Commentators on Aristotle)

Porphyry: On Aristotle Categories (Ancient Commentators on Aristotle)

  • 作者:Strange, S.
  • 発売日: 2014/04/10
  • メディア: ペーパーバック

  • Porphyry 1992. On Aristotle Categories. Translated by Steven K. Strange. London: Bloomsbury.
  • 121, 5

Q. 〔……〕どんな場合に、知識とその対象は同時に存在するに至るのか?
A. 虚構の対象の場合である、と私は考える。というのも、私がキマイラの概念を作るとき、そのキマイラの知識は想像上のイメージ(phantasma)と同時に存在するに至るからだ。また、人に対してアルファベットの文字をはじめて教えた人は、文字と同時にその文字についての知識を導入した。さらに、絵画技術をはじめて発見した人は、その技術と同時に絵画を導入した。
Q. では、アリストテレスがそうした事態を「極めて希にしか見られないか、あるいはまったく見られない」と言っているのはなぜか?
A. 知識は後からしか獲得できないにせよ、しかしそうした事柄もまた事物の本性において〔すなわち知識の獲得以前から〕存在しているということがありうるからだ。

アンモニオス

Ammonius: On Aristotle Categories (Ancient Commentators on Aristotle)

Ammonius: On Aristotle Categories (Ancient Commentators on Aristotle)

  • 作者:Cohen, S.Marc
  • 発売日: 2014/04/10
  • メディア: ペーパーバック

  • Ammonius 2014. On Aristotle’s Categories. Translated by S Marc Cohen and Gareth B. Matthews. London: Bloomsbury.
  • 74, 25−75, 5

アリストテレスが〔この例外事項を〕付け加えたのは、何らかの技術ないし反省による発見を考慮するためだ。たとえば、ある人が通常使われているのとは異なる書き文字を発明したとしよう。このとき、知られるものは以前には存在していない。それが反省によって生み出されるのと同時に、それについての知識が生じる。

シンプリキオス

  • Simplicius 2002. On Aristotle Categories 7−8. Translated by B. Fleet. London: Bloomsbury.
  • p. 48(191, 5−25)

〔知られうるものは知識に先行して存在する〕。これは全く明白なことだ。では、知られうるものと知識が同時的である少数の場合とはどのようなものか? 質量を持たない知性的存在者は、つねに現実態において存在する知識と、同時的である。そうした知識は、(プロティヌスやイアンブリコスが考えているように)我々人間においてありながら常に高みに留まっているのかもしれない。あるいはそうした知識は、現実化した知性の中にあるのかもしれない。ただし、そうした知性作用を「知識」と呼べばの話ではある。こうした呼称は、普遍者の抽象的存在ゆえに可能かもしれない〔?〕、というのも、普遍者にかんする知識は、普遍者の存在と同時的だからだ。またこのことは、「つくりもの」についてもあてはまる。これは、想像力がつくるものについても芸術家がつくるものについても言える。というのは、キマイラとキマイラの知識は同時的であるから。
 それでは、なぜアリストテレスは、〔知られうるものと知識が同時的である場合は少数であるか〕「あるいは全くない」と付け加えているのだろうか? 以下のどちらかの理由による。ひとつは、一般者や知的対象、ないし何らかの仕方で概念把握されるものを、全て無きものにしようとする人々がいるからだ。第二の理由は、そうしたものが存在するにせよ、私たちはその概念を後から獲得するのであるから、そうである以上ここでも、知られうるものは知識に先行して存在するからだ。このようにしてアリストテレスは、上述の証明に従って、知られうるものはその本性によって知識に先立っており同時的ではないことを、示したと思われる。