えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

古代と現代における幾何学と自然種 Mellone (1905)

https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.204636

  • Sydney Herbert Mellone. (1905). Introductory Textbook of Logic. 2nd edition. Edinburgh and London: William Blackwood and Sons
    • Note to Chapter 5. "Real Kinds" and "Essence"

「実在種」と「本質」

 上述のように、古代の見解によると、自然のなかには事物の固定的で永遠な種、クラスがあり、それらは互いに交わることがない。こうした分割に対応する分類は「自然な」と形容されていた。そうした分類こそ、自然の中にある出来合いの種ないしクラスを認識したものだと考えられていたからだ。この見解は古代の学のなかに浸透しており、またJ. S. ミルによっても支持されていた。「自然種」ないし「実在種」は、事実上有限数の差異によって互いに異なるものであると考えられた。言い換えれば、実在種とは根底において互いに異なり切り離されたものである。この見解があったからこそ、ポルフィリオスによる属性[predicable]の図式化と、ポルフィリオスの樹のような配列に対して、大きな重要性が与えられた。自然種は事物のはじまりの時点からずっと固定していると考えられていた。例えば、「人間」はこの意味での「自然種」を構成するものだとされた。私たちの概念が、自然が示す独立の種と対応していると確かめられた場合、ポルフィリオスの樹のような概念の配列は学問的重用性を持つことになる。というのはそうした配列は、実在する事物の関係を直接扱うものとなるからだ。そして、最高類[summa genera]を求めることは、自然における根本的な差異を探究することに他ならなかったのである。

 では、こうした理論は現在のところどのくらい維持可能なのか?ーーここで、この問いに明確な答えを与えておくのがよいだろう。

 相互に排他的なものとしての厳密な自然種概念、あるいはギリシャ人の言い方では、相互に排他的なものとしてのエイドスないし種という概念はどこから生じてきたのだろうか。それは、その他のギリシャ論理学の特徴的な概念と同じように、(彼らが理解するかぎりでの)幾何学を真の学の典型例そしてモデルとしたことから生まれてきた。ギリシャの幾何学、すなわちユークリッド幾何学の中では、たとえば円、多角形、平面図形、線といった区別ないしクラスは、相互に厳密に区別される。多角形から円、楕円から円、平面図形から円への移行というのは考えられないことであった。しかし近代の幾何学においては、円とは2つの焦点が一致した楕円だと捉えることができるし、あるいは、無限個の角をもつ多角形だと捉えることもできる。同様に、三角形の2辺と残りの1辺の長さの差異を無限に小さくしていけば、一つの角が180°残り2つの角が0°となり、直線を得ることができる。このように、一つの図形から別の図形への、「幾何学的進化」がありうるのだ。だたしこれが可能だからといって、円や多角形という名前によって示されている「実在種」に意味が無くなってしまうわけではない。

 同じことが、適切な変更を加えた上で、自然における「実在種」にも当てはまる。自然の場合と数学の場合の重要な違いとして、移行形態が実際に多数存在している点が挙げられる。実在種は互いに混じりあう。2つの実在種のあいだには、いわば係争中の土地のようなのりしろ部分がある。ある種から別の種への移行を構成する対象がある。しかし、自然な分割というのは確かに存在しており、それは明確な典型的差異によってしるしづけられている。この意味で私たちは、自然には実在種があると言い続けることができる。進化論の教えによれば、全てではないにせよ多くの生物は共通の家系に由来するものであり、従って生物のあいだにみられる分割を永遠のものと見なすことはできない。しかしだからといって、「実在種」に意味が無くなってしまうわけではない。実在種であるということは、絶対的ではなく相対的な安定性をもつということなのだ。

 ここで興味深いのが、植物学や動物学における「自然な」分類は、進化論が広く受けいれられる以前に行なわれていたという事実だ。まず自然な分類があり、そして進化がその分類により完全な意味を与えたのである。いまや自然な分類とは系統樹である。「種」「類縁性」「類」「族」といった名前は、もはや単なる比喩表現ではなくなったのだ。

 この話に密接に関係している問いが一つある。「本質」や「本質的」質・特徴、事物の「本性」、事物の「本当は何であるか」などと言うことで私たちは何を意味しているのだろうか。これらのフレーズは同義語と受けとってよいだろう。上でアリストテレスに触れた際、「本質的」質とはそれなしではある事物がその事物ではいられなくなってしまうような質であると述べておいた。そしてそれに続けて、本質的質とは、質の中でも、最も多くの事柄に対して決定的影響を与える質であるとも述べた。現代の観点から言うと、前者の言明は後者よりも不十分である。後者の言明は、クラスの固定性という教義からはっきりと離れている。またこれは、次のことを端的に表現している。すなわち、事物とはそれがなすところのものである[a thing is what it does]。もののなんであるかは、それが何らかのものや人によって働きかけられたときに、どのように応答するかによって、示される。事物が本性なり本質なりをもつと言うことは、単純に、何かされたときに特定のしかたで振る舞うということなのだ。たとえば、私たちが何らかの目的のために化学物質を使う場合を考えてみよう。この物質が、私たちの計画達成のためにいくら柔軟[plastic]なものであっても、またその化学物質にいかなる変化を加えるようとも、しかし私たちには変えられないものが残る。そしてそれは、私たちがその物質に対して変形力をおよぼすことのできる限界を示しているであろう。このことこそ、固定性という古代の教説に根付いていた真理である。事物の「本性」というのは存在する。しかしそれは、(アリストテレスが「本質」は「偶有性」と異なると考えたように)可変的な質から切り離しうるものではない。そうではなく本質とは、可変的な質のただなかで、その作動中の変化をコントロールする法則という形であらわれてくるものなのだ。従って、事物を理解するためにはその振る舞いを研究しなければならないし、可能であればそれを作用させる、つまりその事物で実験してみなくてはならない。こうした手段によって私たちは、事物の部分がもつ一定の特徴的で実践的な振る舞い方を学んでいく。この「振る舞い方」というのが、論理学における「属性」ないし「質」が本当に意味しているものに他ならない。そしてこれらは、私たちの概念によって、程度の差こそあれ把握されるのである。