えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

大脳局在論の政治 Pauly (1983)

http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.3109/00207458308986130#.VugAO4yLRNQ

  • Pauly, P. (1983). The political structure of the brain: Cerebral localization in Bismarckian Germany. International journal of neuroscience, 21(1−2): 145−149.

 1870年、エデュアルト・ヒッツィヒ Eduard Hitzig とグスタフ・フリッチュ Gustav Fritsch は、様々な身体運動に対応する中枢を大脳皮質に特定したと報告しました。以後約20年に亘り、ドイツではこの局在論をめぐる論争が行われることになります。一方この時代は政治的には、国家主義と官僚制によるドイツ統一が進むビスマルクの時代でもありました。この論文は、局在論者としてヒッツィヒを、反局在論者としてフリードリヒ・ゴルツ Friedrich Goltz をとりあげて「理念型」とすることで、局在論論争がもっていた政治的意味を鮮明にしようとするものです。

 ベルリンに生まれた生粋のプロイセン人であるヒッツィヒは、軍医としての訓練をつみ、局在の発見に至ります。このとき脳における各機能の局在とそれらの間の従属関係は、官僚制をモデルとすることで理解されました。この意味で局在論は官僚制を表象していると言えます。しかしさらに局在論は、もっと具体的な形で官僚的秩序を推進する手段でもありました。局在論が正しければ、精神疾患は脳の病でありあくまで医学の領域内部で扱うべきだという議論が力を増してきます。ヒッツィヒはチューリッヒの精神病院の院長になり、民主的な州政府から病院を完全に独立させようと奮闘することになったのです。

 一方のゴルツは、ドイツ・ポーランド・ユダヤ・ロシアの文化が混交するポズナン(現ポーランド)で育ち、ドイツの国民性とは政治ではなく文化の統一にあるとする叔父(Bogumil Goltz)の影響を強く受けました。ヘルムホルツに生理学を学んだ後、ストラスブール大で教授になることでフランスの伝統と触れ、異なるエスニック集団の協力の重要性を認識します。そしてこうした協力の障害物として、中央(ベルリン)集権的・官僚主義的な地方への政治・軍事的介入への反発を強めていました。ゴルツはヒッツィヒ達の報告について、脳部位の切除によるショックで一時的に運動障害が起こっているにすぎないとします。また犬の両半球を大きく切除しても完全な麻痺ではなく機能の減衰しか見られないという観察から、「中枢」の存在を否定します。ゴルツは局在の図をドイツの地図と比較し、脳には政治的境界のように明確な境界は引けないと述べています。

 この二人は非常に極端な例ですが、しかし「局在論 - ビスマルク的政治の擁護者/反局在論 - その反対者」という枠組により、19世紀後半のドイツにおける政治的思考と生理学的思考のつながりを考えることができるのではないかと筆者は示唆しています。