えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為者不在の問題について デイヴィドソン (1990=1980)

行為と出来事

行為と出来事

デイヴィドソン D. (1990=1980) 『行為と出来事』 (服部・柴田訳 勁草書房)
第一章 「行為・理由・原因」 (柴田正良訳)

E 最後に、そもそも行為の原因なるものを口にするとき何人かの哲学者が感じているある種の不安について一言述べておきたい。たとえばメルデンは、行為は往々にして身体運動と同一であり、また身体運動は原因をもつ、と述べている。しかし、彼はその原因が行為の原因であることを否定する。私の考えでは、これは矛盾である。彼がこの矛盾に導かれたのは次のような考察によってである。「振る舞いを欲求の因果的効力によって説明するのは無駄な試みである。なぜなら、それが説明しうるのは、たかだかさらに別の事件(happenings)にすぎないのであって、行為者によってなされる行為ではないからである。こうした事件の生ずる因果のきずなに立ち向かう行為者というものは、彼の中に、また彼に対して生ずる事柄のすべてに、なすすべもなく弄ばれる犠牲者に他ならない。」(一二八、一二九頁)私が誤っていなければ、この議論は、仮にそれが正しいとすれば、行為は原因をまったくもちえない、ということを示している。私は、因果性の領域から行為をまったく取り除いてしまうことによって生ずる、いくつかのあからさまな困難には触れないでおこう。しかし、おそらく、この混乱の源を明らかにすることは意味のあることであろう。一体全体、原因はなぜ、行為を単なる事件に変え、人をなすすべもなくもてあそばれる犠牲者に仕立て上げることになるのであろうか。その理由は、少なくとも行為という舞台においては、原因は引き起こすもの(causer)を要求し、行為者性(agency)は行為者を要求する、と我々が想定しがちだからなのであろうか。そこで、われわれはこう問い質すのである。もし私の行為が原因をもつとすれば、何が私の行為を惹き起こしたのか、と。私自身が惹き起こしたのならば、私は無限背信の不合理に陥る。他方、私が惹き起こしたのでないならば、私は一人の犠牲者である。しかし、もちろん、これですべての可能性が尽くされたわけではない。原因の中には行為者が関与していないものがある。行為者を欠いたこれらの原因の中には、人間の状態や状態の変化も含まれており、それらのあるものは原因であると同時に理由でもあるが故に、ある種の出来事は自由で意図的な行為になるのである。  pp. 25-26