http://ci.nii.ac.jp/naid/10006418495
- 加藤博雄 (1993) 「零戦の設計・試作過程と人命軽視の技術思想」 『科学史研究』32(187), pp. 157-161
ゼロ戦の防御力の低さには定評があります。そもそも37年10月に海軍航空本部が三菱に提出した「十二試艦上戦闘機計画要求書」には、防御に関する要求はありませんでした。高速機を作る場合、速度と空戦性能はトレードオフになりますが、日本ではあくまで両者ともに優れた戦闘機が求められたため、その分機体の重量減が大きな課題となり、重い防弾装備は無視されるようになっていたのです。
39年、堀越二郎らはこの要求に応えて零戦11型を制作し、改良が重ねられて零戦は優勢に立ちましたが、1943年3月には速度を優先し「一撃離脱」の戦法をとる米軍の新鋭戦闘機に対し苦戦に陥ります。しかし同4月でさえ海軍航空本部は戦闘機の防弾を「将来の課題」としていました。結局44年4月の52型乙から操縦者と燃料タンクの防弾と自動消火装置が付けられましたが、時は既に遅しです。
堀越は、「当時防弾を実現しようと考えた国は世界になかった」と述べてましたが、既に37年8月に第一回渡洋爆撃が行われた際、96式陸攻が中国機の焼夷弾で墜落自爆し、防弾・防火の事項が航空廠に持ち込まれていたことを考えれば、これは認識不足でした(この戦訓は爆撃機に対しても生かされず、1941年4月には「ワン・ショット・ライター」と蔑称されることになる「無防備1式陸攻」(11型)が生まれます〔←本庄季郎の設計です〕)。
防弾の欠如について戦後指摘をうけた堀越は、まずは精兵寡兵主義、奇襲と夜襲を重んじる伝統、戦闘機操縦者の空戦性能に対する高い要求などの「用兵側の手落ち」を理由としてあげ、ただし防弾技術御研究を早く始めなかった点に「技術者の怠慢」があったとも認めています。また最大の理由として、日本には大馬力の発動機がなかったことを挙げ、「多少性能本位に偏した嫌いがあるかも知れぬが、防弾、兵装を担うに十分の発動機がなかつた点だけを除き今更考えてみても大過なかつたと信ずる」と述べています。こうした堀越の弁明は設計の妥当性を強調するもので、防弾欠如を当然とする設計思想対しては、深い反省は見られなかったようです。
この設計思想の行き着いた先が、一旦発射したら絶対に帰還できない方針で計画された特攻兵器「桜花」です。この設計思想の克服は、戦後に残された重い課題となっていきました。
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