えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

人類の古さ Rudwick (2008)

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform

Worlds Before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform

  • Rudwick, Martin. *Worlds before Adam: The Reconstruction of Geohistory in the Age of Reform* (Chicago: University of Chicago Press)

Ch. 28 The human species in geohistory (1830-37) ←いまここ
Ch. 30 Progression of life (1833-39)
Concluding (un)scientific postscript

28.1 トゥルナル 対 学界

  1830年代までには、第三紀層には人類の化石や人工物が見当たらないとわかっており、問題はより新しい「洪積世」に人類/前人類が存在していたかどうでした。
  若きフランスのナチュラリスト、クリストルとトゥルナルは、南フランスの洞窟の発掘作業を根拠に、初期人類と絶滅動物が共存していた事は明らかだと主張していました。キュビエは証拠が不確実だとして反対しましたが、パリの科学アカデミーにはこの問題を扱うべくキュビエを議長とする委員会が設けられます。
  ところが、委員会が責任問題を恐れて判断を渋ったり、セールがトゥルナルの標本をパリに送らなかったり、送った時期は7月革命で学者は直接ランドックへ赴くことができないなどの理由から、委員会の決定は先送りされてしまいました。
  トゥルナルはあきらめずトゥールーズの県立アカデミーに論文を送ったところ、終身書記であるドウビソンから好意的反応を得ます。
  さらに新設のパリ地質学会にも論文を送り、真の問題は標本の保存状態ではなくて、人骨と絶滅動物の骨の同時代性であり、これはフィールド調査によってかなり支持されていると力説しました(この時、ドウビソンのアドバイスに従って宗教色の強い「洪積世」という言葉は避けられています)。また、ただ人類が存在していただけではなく既に社会として存在していたとも主張されました。
  しかしデノワイエは、洞窟には二つ異なる時代の遺物、つまり当時の動物の骨と、有史時代からの陶器が混ざっているのだと論じます。この主張と「人類の古さ」に関する最近の研究のサーベイは会報に掲載され、各地の地質学者に知られることになりました。
  トゥルナルはすぐに応戦し、人類が絶滅哺乳類の間で生きていたわけがないというアプリオリな仮定のもとでは問題はそもそも解かれないし、沈積物は明らかに徐々に堆積されたもので混ざっていない事が観察されていると主張しました。
  さて、その約一ヶ月後の1832年5月13日、キュビエが63歳で急死します。
  さらに数ヵ月後、キュビエとあまり仲が良くなかったパリアカデミーの終身書記アラゴが、ゲイ=リュサックと共同編集する『化学および物理学年報』に投稿するようトゥルナルを招待しました。これでトゥルナルは多くの読者に直接訴えかけることができたのです。
  この論文「化石洞窟という現象についての一般考察」の重要な一つの点は、慣習的に人類の存在の有無で区別されていた「former geological period」と「modern-」を見直し、後者をさらに人類の出現で特徴づける「période antehistorique」と記録に残る限りでの「historic period」に分けたところにあります。ここで、<文献にあらわれていない人類の時代>という概念(今日の「先史時代 prehistoric」)が可能になったのです。
  さて、人類が非常に古いという主張に対する証拠はますます強くなって行きましたが、事態が決定的になるのは遅れました。その原因か結果かはにわかにわかりませんが、クリストルとトゥルナルは完全な説明を交換することなく、論争から下りてしまいました。
  一方でセールはあきらめませんでした。1835年、セールはヨーロッパ各地の洞窟の証拠を集めて長大なサーベイをものし、オランダ学会から金メダルを授かります。このサーベイは、洞窟の中の何種類かの生物は人類の出現以降に滅びたとし、人類の過去と太古の地史の間の区別をぼやかしましたが、これを創世記と関係させながら論じたので、セールは周縁的な立場におかれ続けることになりました。

28.2 シュマーリングがベルギーで見つけた人類の化石

  キュビエの死の一年後、人類の古さに関する極めてよい証拠が現れます。ベルギーのリエージュ州の内科医シュマーリングが、近郊の洞窟で動物の骨の中に人類の頭蓋骨・火打石・石器を発見したのです。
  この報告は始めはリエージュ州に関する本の一部にちょっと載っただけでしたが、シュマーリングは二年後には論文を地質学会に送るとともに、ドイツの地質学者の間で権威ある『新年報』で公刊し、この発見はヨーロッパ中の地質学者の知るところとなりました。クリストルとトゥルネルの予備的報告とはことなり、シュマーリングの記述は完全で、標本の優れたリトグラフも付いており、無視できないものでした。
  キュビエの『化石骨の研究』を導きに、本人の内科医としての訓練のおかげもあり、シュマーリングは化石をよく同定することができました。そのうえでシュマーリングは、<modern period以前に人類は地球にいなかった>という「無駄な仮説」は、表層堆積物が徹底的に検討されるまでは正当化されないと批判し、最大の注意を払って発掘した結果頭蓋骨などの標本は絶滅動物と同じ堆積物の中から発見されたのだと強く主張しました。
  頭蓋骨の大きい方は大人の骨だとされ、また人種を特定できるほど完全ではありませんでしたが、「エチオピア人」に似ており、比較的原始的だされました。さらに重要なのはこの頭蓋骨が骨成角礫岩ので見つかったという点で、この地層からは絶滅した哺乳動物が発見されるので、人類はこいつらと少なくとも同じくらい古いことになります。
  小さい方は採掘の際に崩れましたが破片は回収されました。マンモスの大臼歯がこれに隣り合って発見されています。これらの標本はこれまでで最も印象的なものであり、優れた図版は学者にとって良い代用物となりました。
  また、同時に発掘された二種類の人工物も(細かく砕かれた火打石の道具・人の手の入った動物の骨)洪水以前の人類の時代に属していることは確定的だと論じられました。
  以上から、洗練された道具を持つ「洪水以前の人種」が存在していたことははっきりしていると結論されます。
  しかしこの証拠でも当時の地理学者を納得させるのには失敗しました。例えばライエルは、洪積世に人類がいたと認めると洪水=ノアの洪水で人類が流されたという説に加担してしまいかねないために、この証拠を否定してしまいました。
  シュマーリングは、敵対者を「理論の人」と呼んで批判し、フィールドでの慎重な観察によって自説は勝利するだろうと予言しました。しかし「ドイツ自然研究者と医師の会」でも同じような扱いを受けた上、バックランドも、人骨は後の時代の墓から来たとしてこの主張を退け、それを自著の補遺に加えました。そしてこの補遺が出たのと同年にシュマーリングは45歳の若さで死んでしまい、フィールドワークが重要だと言う予言が後に成就することを見届けることはついにできませんでした。

28.3 最初の化石霊長類

  たとえ人類が洪積世にいたとしても、謎のギャップが未だ残っていました。というのは、人類以外の霊長類の化石が第三紀層からまったく発見されていなかったのです。しかしこのギャップは、3つの大陸でのほぼ同時の発見によって埋められることになります。
  【1】1837年1月、フランスのアマチュアナチュラリストであるラルテが、南フランス・サンサンの第三紀層から、テナガザルのあごの化石を見つけたとパリのアカデミーに報告しました。サルがいれば人もいようということでこの標本は重要であり、アカデミーは比較解剖学の権威ブランヴィルをメンバーとした委員会を招集し、37年の6月にはラルテの結論は認証されました。
  【2】この承認の少し前、ロンドンの地質学会にコートレイとファルコナーの手になるインドからの手紙が届きます。
  彼らは、ヒンドスタン平野の端にあるシワリク丘陵の第三紀層から化石サルの距骨を見つけたと報告したのです。ここで彼らは、一つの骨さえあれば関係する構造は固定できるというキュビエ的推論、および熱帯の捕食者(骨も砕くハイエナなど)のせいでインドではサルの死体が残っている事は珍しいという〔現在因による〕ライエル的推論から、霊長類の化石の珍しさを説明しました。
  実は、この二人以前にも霊長類の頭蓋その他の骨の一部を発見したインドのナチュラリストはおり、これはカルカッタのアジア学会で報告されてヨーロッパにも伝わっていたのですが、標本自体がインドに置きっぱなしだったのでインパクトは薄いままに留まりました。
  【3】デンマークのナチュラリストであるルントは、1836年7月にブラジルのラゴア・サンタ付近の洞くつで霊長類の大腿骨と上腕骨を発見しました。ただしこれは38年にしかもデンマークで公刊されたのであまり注目をあびず、翻訳版がパリの「年報」に載ったのは39年でした。この時には他の発見もよく知られていたので、ルントの発見の重要性は霊長類の化石が新大陸にもある事を示したと言うことになりました。
 かくして化石記録はオランウータンひいては人類に近づき、生命の歴史は方向性をもつという主張がますます強化されることになったのです。

28.4 結論

〔省略〕