えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

一元性と科学 バシュラール (1938=2012)

  • バシュラール G. (1938=2012) 『科学的精神の形成』(及川馥訳 平凡社)

【目次】
第一章 認識論的障害の概念 本書のプラン
第二章 第一の障害 最初の経験
第五章 科学的認識の障害としての一元的かつプラグマティックな認識 ←いまここ

I 〔普遍性の誘惑〕

  経験的思考にも一般化の危険があるが、哲学的思考の次元での普遍性への誘惑も科学的認識を阻害する。広大な「世界観」の前ではあらゆる困難が鎮静化してしまう。18世紀の場合、均質的・調和的・守護神的な自然という思想があった。前科学的書物は文学的側面に満ちているが、それは「世界」の偉大な特徴にふさわしい言葉であった。
  もちろんあらゆる著者は自分の選んだ主題に価値を与えたいと思うだろうが、当時は著作の内容と関係ないものによって価値が付与されている(例:光を扱うのに「精神の光」「名誉の光」「徳の光」に言及)。こうした<主題をもち上げようとする欲望>は<諸現象にふさわしい「完成」>という理念と結びついている。この完成の理想は経験的な思考の根底でそれを導くものなので、例えば<燐光によって発光する腐木>と<星という高貴な実体>はどちらも光るのに無関係とされてしまう。こうしてこの理念は科学的研究はもちろん日常的直観にすら逆らうことになる。

II 〔世界の一元性〕

  一元性への欲求はあらゆる二元性に疑いを投げかけることになり擬似問題が大量に発生した。例えば、神の中に最初の運動を見ると、物質の創造+運動の創造という二段構えが必要になってしまう! このような物体の作用(action)でメカニカルには理解できないものは、神の行為(action)によって説明されてしまう(神は物体にそれぞれの中心で回転せよと言った)。理解可能性が別の領域へ移るのである。
  壮大な一元化を図る著者たちは、神の前に卑下しているように見えても、その根底で〔経験/世界に対して〕傲慢であるといえる。

III 〔世界の調和と重層的決定〕

  世界の調和的な一元性によって中世やルネッサンスは巨大な類比的思考に基づく理論を展開した。そこでは異質な諸要因がある事象を決定したのだと判断され(「重層的決定」)、どんなものでもあらゆるものの原因となってしまった(例:王国の変動は惑星の場所の変化によってのみ生じる)。「猫は土星と月に感応する。猫はカノコソウを特に好むので、この二天体の会するときに摘まれたカノコソウはそれがおかれているところにあらゆる猫を集めるほどである。〔……〕」〔ファイヨル (1672) 『天上の諧調』〕。まったく異なる質のものによる重層的決定は実験に依拠することなく決定を肯定してしまう。
  その一方ある種の哲学説で重要になる量による決定もそれほど確固たるものではない。人は地球の重力の中心は統計的な点だとは考えないので、指を上げると重心が狂うのだと言ってしまう。現代科学はそれぞれ孤立した諸体系・細分化された諸単位(一元性)をもつし、無視しうる量は無視すべきだと知っている(例:閾の概念)。

IV 〔実在と云う係数〕

  前科学的精神は自然なもの全てに「実在」という係数を与えてしまう。これが大文字の「自然」に帰属される一元性や力にまつわる認識論的障害なのである。この係数付与の中には価値付加作用が含まれており、経験や科学的思想を混乱させることになる(例:毛虫の血液は毛虫の中にあるのが自然のあり方である。ところである種の毛虫は相当な寒さに耐えられ血液も凍らない。従って、この毛虫の血液には冷たさに抵抗するという性質がある(!?)←試験管で実験すべきだった〔つまり変数をつくってやるべきだった〕)。

V 〔功利性と帰納法〕

  また、功利性は特殊な帰納法を生み出し、誇張された一般化につながる(「功利的帰納法」 例:繭は発汗作用を行っており、繭にニスを塗ると成長が止まる → 卵も繭の一種だからニス塗ると長持ち(!?)→人にニス塗ると若さが続く(!??!?))。
  真理は功利性によって二重化されてしまう。一方で、役に立たない真理は削除され(ヴォルテール)、逆に有効性が見つかると真理が実現した(その現象が説明された)ということにされてしまう(ビュフォン)。文学や哲学の面からの科学の活用がまだ容易であった18世紀には特にこの危険が大きかったといえる。

VI 〔18世紀の「文学」〕

  今日の科学的精神はある種の慎重さを備えているが、前科学的精神にとって唯一の特性によってすべてを説明しようという誘惑は絶大な力をもっていた(例:電気)。18世紀には体系を与える事を約束しつつ事実を山のように積み上げただけの著作が腐るほどあった。これは、シェリングやショーペンハウエルのように単一の直観をつきつめているわけではないので哲学的にも役に立たないし、科学者や植物学者のように経験的記録を集めてないので哲学的にも役に立たない。こうした「文学」は19世紀には無くなったが、前科学時代のこうした混乱を意識してはじめて、科学的思考を心理的な意味で形成する力を正しく評価できるだろう。