えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

意識は程度をゆるすものか? Lockwood (1989)

Mind, Brain and the Quantum: The Compound 'I'

Mind, Brain and the Quantum: The Compound 'I'

  • Lockwood, Michael (1989). Mind, Brain, and the Quantum - The Compound ‘I’. Oxford: Basil Blackwell.
    • Chapter 6. How unified is consciousness?

 ネーゲルはかつて、分離脳患者が2つの意識の流れをもつとする説を否定した。というのもこの説では、非実験的状況における分離脳患者の行動が統合されているという事実を説明できないとネーゲルは考えたからだ。だがこの議論は決定的ではなく、(1)二つの半球がおおむね同じ情報を受け取ることや、(2)統一的に行動しようとする欲求の存在、などに訴えれば行動の統合は十分説明できる。

 2つの意識説で説明しにくい現象は他にある。それは、両半球の神経的な結びつきは程度問題だという点だ。元々脳梁が担っていた機能は、時間を追うごとに脳幹を含む下流の経路によって担われるようになり、分離脳患者の統合されていない行動も、徐々に治っていく。この連続的過程の中のどこかの時点で、意識がいきなり二つから一つになると言うのだろうか?(脳梁を徐々に切断するという事態を考えれば、逆のこともまた言える)

 この問題に対して著者は、「意識は「1か0か」のものではなく、程度を許すものだ」というアイデアで答えようとする。著者によると、分離脳患者の意識(一緒に意識されている経験の全体のこと)は、2つの意識がオーバーラップしているものとして理解すべきである。すなわち、分離脳患者は全く独立の2つの意識を持っているわけではなくて、大脳より下流の部位に位置する経験(情動経験など)が2つの意識の共通要素になっているのだ(※「部分的統一」)。この考え方は、神経レベルでの連続性とうまく両立する。両半球の神経的結びつきが増す/減るごとに、経験のオーバーラップ部分が増える/減ると考えることができるからだ。


 この見方によると、複数の経験のあいだに成立する「一緒に意識されている」(共意識; co-consciousness)という関係は推移的ではなくなる(分離脳患者の場合、たとえば、右半球の経験rと間脳のdが共意識的であり、dが左半球のlと共意識的であっても、rとlは共意識的ではない)。この推移律は、実は通常の脳であっても、近似的にしか当てはまらないと著者は論じる。通常の脳には、ほとんどの部分でオーバーラップしている複数の意識があり(a)、シナプス刈り込みや細胞死といった脳の「自然な崩壊」によってオーバーラップ部分がどんどん減っていく(b)と考えるのである(著者は、この崩壊プロセス〔の極端なものが〕がアルツハイマー症候群において生じていることなのではないかと示唆している)。


 以上の考え方には、しかしまだ、意識を「1か0か」の問題とする発想(デカルト的な発想)が残っている。というのは、「2つの経験が共意識的かどうか」という問いには、はっきりした答えがあると前提されているからだ。だが著者は、共意識関係もまた、本当は程度の問題なのだと主張する。たとえば、上で著者は、間脳に位置する経験dが2つの意識の流れの共通要素となるという見解を示した。しかしこれは本当は程度問題で、経験dと、一方の半球に位置するその他の全ての経験とのあいだの共意識関係には、本当はグラデーションがあるというのである。

 だがこのような主張は本当に理解可能なのか? たとえばdを痛み経験だとしよう。そしてdは、一方の意識を構成する他の諸経験と共意識関係にあるとする。この時、この意識の主体は痛みを感じる。さて、もし共意識関係が程度を許すものなら、dとその他の諸経験の共意識関係が徐々に薄くなっていくことが可能なはずだ。これはつまり、dの内在的な性質は変化しないまま、他の経験と「一緒に意識される」程度が徐々に減っていくということだ。このとき、主体はどのようなかんじをもつのだろうか? ここで重要なのは、それは「痛みが薄くなっていく」ということではないということだ。なぜなら、そのような変化はdの内在的性質の変化であり、共意識関係の変化ではないからだ。この点を踏まえると、共意識関係だけが徐々に薄くなっていくというのは一体どういうことなのか、理解するのが困難に思われてくる。

 この事態を理解するためのアナロジーとして、著者は「見かけの現在」を引きあいに出す。いま、一つのみかけの現在においてド・レ・ミの3音が連続的に経験されたとしよう。この経験のなかでしかしド音は、いきなり消えるのではなく、徐々に消えていくはずである。ここで、〔ド音が痛み経験、レ音とミ音がその他の経験に対応すると考えると〕、痛み経験とその他の経験の共意識関係が徐々に消えるというのは、みかけの現在の中でド音が徐々に消えていくのと似たようなことではないか? つまり、「みかけの現在」は「共意識関係の程度」の通時的対応物といえるのではないだろうか。

 だがこの議論は先ほどと同じ理由でうまくいかない。というのも、「ド音が徐々に消えていく」というのは、ド音経験の内在的変化であり、ド音がレ音とミ音に対して持つ関係が薄くなっているということではないからだ。しかしそうだとすると、「みかけの現在」という考え方は混乱しているということになるのではないか? つまり、連続的なド・レ・ミの経験は、〔時制化された内容をもつ複数の瞬間的経験の継起にすぎず、〕経験それ自体が時間的延長をもつわけではないということにならないだろうか? 

 以上の議論からは、「共意識関係の程度」という考えと「みかけの現在」という考えはどちらも維持できないという結論が出てくるように見える。しかし著者はこの結論に抵抗する。ここではっきりと示されたのは、「2つの考えが一蓮托生の関係にある」ということだけだ。そしてこの両者を同時に捨てなければならないと思わせるようなこれまでの問題のえがきかたそれ自体を、以下の章で再検討するという。