えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

命令、魅力、忌避:古代ギリシア倫理学にかんするシジウィックの見解 White (1992)

www.cambridge.org

  • Nicholas P. White (1992). The attractive and the imperative: Sidgwick’s view of Greek ethics. In: Bart Schultz (ed.), Essays on Henry Sidgwick. Cambridge University Press. pp. 311–330.

【短いまとめ】
[1] シジウィックは、古代倫理学の中心には善のような「魅力」概念があったが、近代倫理学では義務・権利のような「命令」概念が中心となっていると述べた。[2] だが、アリストテレスは徳や幸福の説明に命令概念を用いている。[3] プラトンの場合、善が命令要素を含むかどうか解釈が別れている。


[4] シジウィック自身の魅力/命令区別の説明には問題も多い。[5] だが、確かに命令されることと魅了されることには違いがある。[6] ただし、古代倫理学では「醜い」「卑しい」「悪い」といった忌避概念も重要だった。忌避概念は、単に魅力概念の不在を意味するとは考え難い。[7] 古代ギリシアの哲学者も、形而上学においては魅力概念を基本として忌避概念を派生的なものとしたが、倫理学では忌避概念に積極的意義を与えている。


[8] 命令はサンクションを伴った欲求表明だとする考えがある。[9] この場合、命令概念は忌避概念に回収されるため、「近代倫理学は命令を重視するが、古代倫理学は魅力と忌避を重視する」という区別もつけられなくなる。シジウィックの区別を擁護するための方法はいくつか考えられるが、[10] 結局のところシジウィック自身は近代倫理学の構造におおむね満足しており、命令のない倫理がまともだとは考えなかったのだろう。

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シジウィックは、古代ギリシア倫理学と近代倫理学には三つの違いがあると考えた。

  1. 古代倫理学の中心には、善という魅力(attractive)概念がある。近代倫理学の中心には義務や権利といった法、命令(imperative)概念がある。
  2. 古代倫理学では、人間の合理的な究極目的は当人の善である。近代倫理学では、それ以外ものも究極目的でありうる。
  3. 対応して、古代倫理学では規制的・支配的能力である理性は一つしかない。近代倫理学では二つある(普遍的理性・良心/利己的理性・自己愛)。

この論文では第一の違いに注目する。「命令」対「魅力」という区別は、古代と近代の倫理学の違いをうまく特徴づけているだろうか。また、この区別はそれ自体として重要な区別だろうか。

古代ギリシアの倫理学にはシジウィックが無視した第三の概念があり、上述の区別に疑問を投げかける。第三の概念とは「忌避」(repulsive)と呼べるもので、「醜い」(ugly)、「卑しい」(base)、そして一定の用法での「悪い」(bad)などの語で表現される。

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古代ギリシア倫理学では命令概念があまり扱われないというシジウィックの見解は正しいのか? ストア派が自然法概念を重視したことはシジウィック自身も認め、これを移行期としている。そこで、シジウィックの見解を最も強力に支持するのはアリストテレスだと思われる。

しかし、アリストテレスにも動詞dei(「べき」)で表現される命令概念があり、しかもこれは道徳的徳や幸福の説明で非常に重要な役割を果たしている。道徳的徳は中庸によって説明されるが、中庸は「然るべきときに、然るべきことがらについて、然るべき人に対して、然るべき目的のために、然るべき仕方において」感じる快苦によって説明されているのだ(NE1106b21–22)*1

たしかにアリストテレスは、「べき」や「法」よりも、善や徳といった魅力概念により注目している。またアリストテレスは「べき」や「法」が「道徳的な」命令力をもつとは考えなかっただろう。しかし、徳の説明という重要な局面で命令概念deiへの訴えがあることは重要である。

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アリストテレスとは異なり、プラトンは徳を命令の観点から定義しない。逆に、行為の正しさが、魂のよい状態を促進・保存する行為傾向という〔魅力の〕観点から説明されている(Rep. 443E–444A)。しかも、プラトンは正義は善の一種だと考えているようだ。たしかに、正義はそれ自体として命令要素をもっているのだが(519E, 520D–E, 521B, 540B, 540D–E)、しかし理想国家の指導者は究極的には善によって国家を指導するとされる(540A–B)。

ここには解釈上の論争がある。シジウィックを含む多くの解釈者は、人が正しくある理由はそれがその人自身をよりよくするからだ、と解釈する(利己主義的解釈)。だが筆者自身を含む別の解釈者は、人が正しくある理由はそれが端的な善を実現するからだ、と解釈している。つまり、この理由はシジウィックの言う普遍的理性から来る(普遍主義的解釈)。普遍主義的解釈は、正義も魅力概念なのだと言っているとも取れるが、逆に、善は純粋な魅力概念ではないと言っているとも取れる。

ここで一旦歴史的事例の検討を中断し、シジウィックの区別自体の検討に移ろう。

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命令/魅力区別に関するシジウィックの説明は曖昧であり、問題を含むものもある。たとえば、ある行為が「正しい」という認識には「それをせよという権威的命令」が伴う一方で、ある行為がよいと判断されても「この種の善をその他全てのよいものより好むべきかどうかは不明である。異なる「善」の相対的な価値を見積もる何らかの基準がさらに必要である」という説明がある(ME, 109)。だが、最善のものが決定されたとしても、それは最も魅力的だというだけで、命令概念が出てくるわけではない。あるいは、古代ギリシアでは「特殊概念ではなく一般概念が用いられており」、「正しい行為はよいものの一種だとみなされるのが普通だった」(ME, 105–106)という発言は、たしかにギリシア人の思考の記述としては正しいのだが、特殊概念に命令が内在し一般概念には魅力が内在するというわけではない。

またシジウィックは、「べき」という言葉は悪い行為へ向かう動機の存在(少なくともその可能性)を含意すると述べる(ME, 217)。シジウィックがこれを定義として提出していないのは正しく、これは命令の必要条件かもしれないが、十分条件はではない(以下の9も見よ)。

この区別に疑問を投げかけるような発言も見られる。たとえば、「ある目的を究極的に合理的だとする認識には、その目的に最もつながる行為をせよという義務の認識が含まれる」としている〔が、これは魅力概念が究極的に合理的な目的でありうることを否定している〕(ME, 35)。

さらにシジウィックは、「自分の全体的な善」への欲求は、対立欲求がある場合にその善へ向かわせる合理的命令を暗に伴うとしつつも、この「自分の全体的な善」を理性と調和した欲求が求めるものだと解釈すれば、命令概念は単に「潜在的な」ものにしておける、としている(ME, 112)。この箇所は難解だが、シジウィックは「潜在的」でも命令は存在すると考えているようであり、そうだとすると魅力概念である善に潜在的な命令概念が含まれることになって、両者の境界がぼやけてしまう。

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シジウィック自身の説明の問題はおいておくとして、この区別自体はたしかに一見訴求力をもつ。自分が命令されていること、自分が魅了されていることには、何らかの明らかな違いがあると思われる。

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しかしここで歴史的な話に戻ると、古代ギリシアの倫理学は魅力概念だけに依拠していたわけではない。もう一つ重要なのが、「醜い」、「卑しい」、「キモい」(disgusting)、「悪い」といった「忌避」というべき概念である。これを見逃してしまうのは、哲学的にも歴史的にも誤りである。

まず哲学的に見ると、忌避概念の力は、魅力概念の欠如や反対というだけでは説明がつかない。たとえば意地悪が悪いと言うことには、単に意地悪でないことがよいとか、意地悪の反対がよいとか言う以上のことが含まれる。あるものの不在や反対がよいとしても、そのもの自体は別に悪くなく、中立的ないしまあまあということもありうるからだ。

プラトンやアウグスティヌスは、悪さとは実際のところよさの完全な不在ないし欠如だと考えている。これは悪さという性質に関する形而上学的な真理ではありうるが、〔意味論的な話として〕悪さという「概念」が単によさという「概念」の不在だというのは明らかに誤りだ。我々は、単なる欠如概念ではない、「積極的な」悪さ概念を用いている。

このことは、善は魅力概念だというシジウィックの見解を受け入れれば容易に説明できる。あるXを忌避している(being repeled)ということは、Xの不在に魅了されているということではない*2。それは、単にXから遠ざけてくれるものへの反応なのではなくて、X自体に対する積極的反応なのだ。

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次に簡単にだが歴史的な論点に移る。プラトンもアリストテレスも、「よい」(agathon)(および、「立派」、「美しい」などkalonが表すもの)の反対を表現するために「悪い」(kakon)や「醜い」(aischron)を用いている。また、「卓越性」(arete)の反対として「悪さ」、「悪い性格」(kakia:「悪徳」は誤解を招きやすい訳語)を用いる。そしてこれらの語はあきらかに、単に望ましいものの不在への反応ではなく、望ましくないものへの積極的反応を含意する仕方で用いられている。

しかも、忌避概念の使用は決して脱線的なものではない。アリストテレスの「中庸の学説」では、悪い性格は一定の特性を過小ないし過剰にもつことだ、という風に明らかに積極的に記述されている。プラトンが例えば魂における様々な不正を記述するときも同様である(Rep, 8–9)。

ただし、形而上学的には、ギリシア哲学では魅力概念が根本的であり忌避概念が派生的なのは事実である。善のイデアはあるのに悪のイデアはなく、第一動者はあるのに第一停止者はない。この事実が、シジウィックを含む多くの人の歴史的説明から忌避概念が抜け落ちている理由だろう。だがこの事実が示しているのは、倫理学における忌避概念の役割が形而上学に精確に反映されていない、ということにすぎない。

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では、命令、魅力、忌避の違いはなにか。ここで完全な説明はできないが、まずは次の二つの発言による言語行為の違いを考えるべきだろう。すなわち、「ドアを閉めろ」と「ドアを閉めくれるとよい」。ただし、ヘア、J. L. オースティン、サールの研究はこの文脈ではあまり役に立たない(とくにヘアは全ての評価語に命令力が含まれるとしている)。

ここではむしろ法哲学者から得るものがある。ジョン・オースティンは、命令とは人に何かをしてほしいという欲求の表明であり、その欲求に従わない場合相手には悪いことが起こるという示唆を伴うものだとした*3。なお、ハート、アダム・スミス、カント、そしてシジウィック(ME, 29)は、命令は第一義的には権威に訴えるもので、サンクションを含意しないとしている。

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オースティンの説明が正しい場合、命令とは、言われたことをするか、それとも苦しむか、という選択を提示するものだと言える(なおこう考えると、シジウィックが命令には常に逆の動機が伴うと言っていたことも説明できる(4参照))。人から命令されたと思うのは、自分がそれをやりたくない場合だからだ)。この場合、命令的なものは忌避的なものに還元される。このため、命令概念を重視する倫理(近代倫理学)と、魅力および忌避概念の組み合わせを重視する倫理(古代倫理学)、といった区別もつけられなくなる。

シジウィックが、魅力概念には命令概念が含まれると示唆していたことを思い出そう(4)。そうすると、命令の力と魅力・忌避の力は相互に説明し合うものなのかもしれない。すなわち、合理的な魅力概念は、それを選択せよという合理的命令を伴う。合理的命令は、特定の行為か忌避的結果かという選択を提示する。そして、忌避概念はそれを避けろという合理的命令を伴う。

ここで、シジウィックの区別を擁護する議論がいくつか考えられる。第一に、上述したように、シジウィックは道徳的「べき」はサンクションを含意しないと考えており、命令に関するオースティンの見解を否定するはずだ。実際、自分が命令されていると理解する人のなかには、単に従わなければ罰がくるだろうと考えるのではなくて、罰がくるべきだと考える人もいる。道徳に関連する命令の場合にはこれが〔常に〕成り立つと思われ、そうだとすると命令概念は忌避概念に還元されず残り続ける。

第二に、善には理性の命令が(潜在的にでも)含まれるというシジウィックの見解(4)を拒否する方法がある。シジウィックはこの見解に何の論証も与えておらず、筆者の考えではこれはもっともらしくない。シジウィックは理性が命令によって意志に働きかけるという見方に固執しているが、魅力によって意志に働きかけることもできるのではないか*4

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シジウィックは近代倫理学の構造におおむね満足しており、古代倫理学を改革の源泉とは考えなかった。おそらく、命令概念を含まない倫理的見解はすべて不適切だと考えていたのだろう。

だが、古代ギリシア倫理学には近代倫理学より優れた特徴があると考える哲学者もいる。BrochardとAnscombeは、まさに義務や責任といった概念の命令的性格に異議を唱える。またWilliamsは、うるさい命令ばかりに頼り切った倫理に不満を感じている。命令にそれほど依存しない倫理が理論的・実践的に可能かを考えるためには、次の三つの問いに答える必要がある。

  1. 魅力に頼る倫理は、忌避に頼る倫理よりも受け入れらるか(古代ギリシア倫理にいかなる美点があろうと、それは決して魅力だけを用いていたわけではない。また、魅力だけで人を十分動機づけられるかは不明である)。
  2. 命令の力には、サンクションとしての忌避の力以上のものがあるか。
  3. 善のような魅力的概念は、シジウィックの言うように、実際は一種の命令的概念なのか。

*1:要約者注:高田三郎訳『ニコマコス倫理学』(上)、89頁、岩波文庫

*2:要約者注:being repeled/being attractedと受動形で揃えているのだが、「〜に魅了される」に対応する「〜にrepelされる」という形の自然な日本語表現を思いつけなかった。以下同様

*3:The Province of Jurisprudence Determined, p. 14

*4:原注:これはプラトンの見方に近い(プラトンは意志とは言わないが)