えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

モラルエンハンスメントは自由を奪う Harris (2014)

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

How to Be Good: The Possibility of Moral Enhancement

〔4章の復習:通常、動機は判断/意志に媒介されることで行為を生み出す。ある種の道徳的エンハンスメントは、動機に作用することで、判断/意志をバイパスして行為を生み出すものだ。しかしそうである以上、この種の道徳的エンハンスメントは、意志の働き、つまり自由の余地を妨げる。そして、本人が自由に行なった行為ではないものについては、本人を称賛することもできない。自由が無いところには徳も無い。これに対し、判断/意志の方を増強する認知的エンハンスメントを通じた道徳的エンハンスメントは、自由を奪うことも無く推奨できる。〕

  • [77] DeGrazia (2014) は、道徳的なバイオエンハンスメント(MB)へのいくつもの批判に反論しており、そこにはMBは自由を脅かすというハリスの批判も含まれる。だがドゥグラチアのハリス理解には誤解が多い。[78] 〔まず一般的な話として〕、ハリスはMBが内在的に悪いとは思っていないし、実際MBは不自然だ、被贈与性を無視している、人格を脅かす、などの批判にはハリスも反論してきた。
  • [79]〔個別的には〕、ハリスの言う「自由」とは日常的な意味での自由であり、決定論の問題と関係する自由ではない。実際MBは、〔日常的な自由を脅かす〕レイシズムやセクシズムといった偏見と似たはたらきをする。すなわちMBによって人は、合理的に選択したり、道徳的視点から様々な選択肢を考慮したりしなくなり、判断が曇らされてしまう。MBが「道徳的」行為を生むにせよ、その行為は全てを考慮して正しい/良い行為に事実上(=たまたま)なっているにすぎず、その行為こそ正しい/良いという当人の道徳的判断に導かれた行為を生み出すわけではない。
  • ドゥグラチアは、十分に能力のある大人がMBを行なうのは、自己啓発セミナーに行くのと同じようなものだと主張している。どちらの場合も本人の行為者性の外から因果的な働きかけがなされるが、それだけで人が受動的存在になるわけではなく、それを積極的に歓迎することもできる、と。しかし、MBはそのようなものではない。MBは意識を高めるどころか、自律的な選択を妨げるものだ。[80]少なくともセロトニンやオキシトシンのレベルを操作するタイプのMBはそうである。この種のMBへの賛同者が強調するように、これらの化学物質は意志や判断とは独立に働くが、それはまさに、こうした物質が自由を損なうということだ。
  • ドゥグラチア自身は、「自由な行為」を次のように定義し、MBによって生み出された行為はこれらの条件を満たすという。
    • (1) AがXするのは、Xヘの選好があるからだ。
    • (2) AがXヘの選好をもつのは、Aが(少なくとも傾向的には)その選好に同一化しその選好を持つことを選好しているからだ。
    • (3) この同一化は、Aが注意深く反省したさいに疎外的だと考えるような影響によって生み出されたものではない。

 だがこの定義には、(3)が曖昧で主観的だという問題がある。レイシストは注意深く反省しても、自分の偏見が疎外的なものだとは思わないだろう。〔偏見で判断が曇らされているレイシストはその分自由ではないのだから、このような帰結をもたらしてしまう自由の定義はおかしい〕。

  • [81]また、MBの影響を歓迎するというのも、それ自体がMBの影響の一部であり、全てを考えた上でそれが正しいと判断されたからではない。ハリスは、動機が実際に道徳的に最良のものの方に向かっているか否かをその時点で考えることができる自由を、人にもってほしい。
  • ドゥグラチアはハリスが自由のために必要だと述べた「堕ちる自由」を他行為可能性と同一視し、自由な行為は他行為可能性を必要としないと述べる。自分の固定的な価値や選好によってある行為しかできないような場合がそれだ。この主張は全く正しいが、「堕ちる自由」と他行為可能性を同一視している点が誤りである(Douglas 2013 も)。「堕ちる自由」とは、何らかの理由に従って、価値や選好と思わしきものを獲得する/獲得しない自由にかかわるものだ。ハリスが問題にしているのは、価値や選好が獲得され固定的になるその過程であり、自分の今持っている価値や選好が本当に良さにつながるかを検討しつづける自由が大切だと言っている。
  • 価値や選好と「思わしきもの」と言ったのは、向社会的態度は人々の行動と推論から逆算されて帰属されるものだからだ。[82]まずは向社会的だと解釈されるのは行動である。しかしある行動が、〔よく言われるように、〕目の前の相手の幸福への関心を示しているがゆえに「向社会的」と言われるとしても、そうした行動はより広い文脈で見れば反社会的かもしれない。つまり、目の前にいない人々に対して善をなすほうがより良い選択かもしれないからだ。そしてそうした人々は、反省的な道徳的意識にしか現れてこない。自分が愛する人が殺されそうなとき、MBを用いた人は、より暴力性の低い選択肢を考慮せず、犯人を迷わず射殺してしまうかもしれない。[83]実際そうなるかどうかは経験的問題だが、現状のMB技術ではそうなる可能性が高いと思われる。
  • またドゥグラチアは、固有の意味での「道徳性」〔行為者本人が道徳的観点から判断して選択をすること〕と、「道徳とは関係ない手法(MB)によって害を減らす方策」とを区別し損ねている。後者は、既に述べたように、しかし無差別に攻撃性を減少させ、自分や他人を守るのに必要な攻撃性までも失わせてしまう。
  • 犯罪を行なう傾向が高い集団を予防的に拘留するという方策を考えてみよう。不完全ではあるが、この例との類推でハリスのMBに対する見解のポイントを3つ浮かび上がらせることができる。
    • 害をもたらす結果が減っても、人の道徳判断(/特定集団の犯罪を起こしやすい傾向)は変わるわけではない
    • MBの影響を受ける人(/拘留される人)の自由の減少が無視されている
    • [84]こうした方略は、全てを考慮する能力を人から奪う。そうであるがゆえに、道徳的によい結果を生まないだろうと考える理由がある。