えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

神経科学が発達しても法システムはそうかわらない Wheatlry (2015)

The Moral Brain: A Multidisciplinary Perspective (The MIT Press)

The Moral Brain: A Multidisciplinary Perspective (The MIT Press)

  • 作者: Jean Decety,Thalia Wheatley,Laurent Prétôt,Sarah F. Brosnan,Andrew W. Delton,Max M. Krasnow,Nicolas Baumard,Mark Sheskin,Jesse J. Prinz,Scott Atran,Jeremy Ginges,Jillian Jordan,Alexander Peysakhovich,David G. Rand,Kiley Hamlin,Joshua Rottman,Liane Young,Ayelet Lahat,Abigail A. Baird,Emma V. Roellke,Ricardo de Oliveira-Souza,Ronald Zahn,Jorge Moll,Joshua D. Greene,Molly J. Crockett,Regina A. Rini,Rheanna J. Remmel,Andrea L. Glenn,Caroline Moul,David J. Hawes,Mark R. Dadds,Jason M. Cowell
  • 出版社/メーカー: The MIT Press
  • 発売日: 2015/02/20
  • メディア: ハードカバー
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  • 私たちの思考や行為の基盤となっている神経的なメカニズムと、私たちがそれらについて感じていること(現象学)のあいだには乖離が存在していることが、近年の神経科学の研究から分かってきた。
    • 視知覚は豊かで詳細なものにみえるが、実際は貧しいイメージに依拠している。また、意識は連続的な流れのようにみえるが、実際はエピソードごとに区切られており、注意が払われていない中断期間がある。
  • 思考や行動を引き起す「私」は、ニューロンの集りにすぎないようには見えない。しかし本当はそうなのだとしたら、自由意志や道徳的責任という概念はどうなるだろうか? 
    • 以下で示すように、これらの概念は現象学ではなく科学と提携すべきであり、それは犯罪者をより人間的に扱うことにつながるが、その他の点では現行の法システムをほとんど変えないだろう。

脳はどう働くか

ひとつのニューロン
  • ニューロンは、自らが発火するタイミングを選ぶことはできない

たくさんのニューロン

  • 人間の脳には約850億個のニューロンがあり、相互に関連しあっている。このことによって、あるニューロンないしニューロン群が発火タイミングを選べるようになるか? ならないだろう。
  • ニューロンが発火タイミングを選べず、またニューロンのあつまりが私たちの脳である以上、自由意志にかんする素朴な見方はあやまりだということになるだろう。
人間例外主義の誘惑
  • 人間の脳は著しく複雑で創発的性質をもっており、それによって人間は、自然のなりゆきを管理したりそれに反するような世界を作り上げてきた。ここから、人間は他の動物とは質的に異なっているという「人間例外主義」が主張されることもよくある。〔自由についても、そのように考えられるかもしれない。〕
  • しかし人間の脳は、人間の進化的に近しい祖先と一般的構造を共有しており、人間にしかない能力というのもまた、完全に新しいというよりは、以前のほ乳類の能力をうまく利用したものであるようにみえる。
    • リンデンは『つぎはぎだらけの脳と心』(Linden 2007 [2009])で次のような便利なアナロジーを提示している。ある自動車設計士が、最も速く効率的で美しい車をつくるチャレンジに挑戦する。ただし条件がある。まず、その車は既存のモデルTをもとにつくらなくてはならない。次に、途中でモデルTに付け加えたものはすべて最終デザインの中に反映されなければならない。こうした条件下でつくられる車は、あきらかにその場しのぎのものになり、設計が進むほど美しくなくなっていく。
    • 同じように、人間の脳もまた、カエル、ネズミ、サルのパーツをもとに創られている。ただしこうしたパーツは規模が大きくなり、新たな仕方で組み合わされ、目的を新たに設定しなおされる。
      • たとえば、遠い未来について考える能力は人間に固有であるようにみえる(Gilbert 2005)。しかしこの能力は、空間的距離に関する思考と同じ計算を用いているかもしれない。近く/遠くの対象を見る際の脳の活動パターンが、近い/遠い未来をいみする単語を見るときの脳の活動パターンと似ている(Parkinson, Liu, & Wheatley 2014)。

人間であることはどう感じられるか

  • しかし私たちには、自分たちの脳は単に霊長類の脳が大きくなっただけとか、ニューロンは電圧の変化によって発火するという感じはない。
  • 現象学は本質的に二元論的であり、脳の中に「誰か」がいて、私たちが何を考えるか、感じるか、行うか、を決めているようにおもわれる。そしてこの「誰か」は、好きなときに心を変化させることができると感じられる。
    • しかし科学は、事物のみえかたは必ずしも事物のありかたと一致しないと何度も示してきた。
私たちは自分が見ていると思っているものを見ていない
  • 私たちには視野の全体が豊かなものに見えるが、じっさいはフルカラー・高解像度で見えているのはごく一部にすぎず、その一部もサッケードにしたがって動いている(Maxk and Rock 1998)。この乖離は「大いなる錯覚」(The Great Illusion)と呼ばれている。
    • O’Regan (1990) では、被験者はスクリーンに提示されるテキストを読んでいく。このとき、被験者が見ている部分の左右の単語がつねにめちゃくちゃに変化するが、被験者はこのことに気づけない。
  • ファイ現象もまた、主観的経験がいかに無意識の心的活動によって支えられているかを明らかにしてくる。意識経験は、意識下の感覚に比べて遅れている(Madl, Baar, & Franklin, 2011)。
    • この時間的バッファによって脳は、一瞬前に起きたことを最も良く説明するストーリーをつくりだし、それが意識経験の内容となる。
      • 無意識による経験内容の構成は、単に2つの光点を見るといった単純な事例だけではなく、より複雑な場合にでも生じる。Shiffar and Freyd (1990) では、被験者は人体のスライドを連続して見ていく。たとえば、一枚目のスライドは二本足で立っており、二枚目のスライドでは同じ人が足を交差させている。この二枚を素早く見ると、あたかもこの人が足を動かしたかのような錯覚が生まれる(ファイ現象)。ここで興味深いことに、どのような運動の錯覚が生じるかは二枚のスライド提示のあいだの間隔に依存している。インターバルが極めて短いと(175m以下)、足が最短距離を移動するようにみえる。インターバルが長いと、解剖学的に正しい錯覚、つまり、一方の足がちゃんともう一方の足をまたいで足が交差されるように見える。
私たちは自分が気づいていないということに気づいていない
  • 私たちは自分の意識が時間的に連続しているとおもっている。だがここにも錯覚的なものがある。
    • Smallword and Schoolar (2006) によると、目覚めている時間のうち約30%で、心はボーッとしているwandering(目の前の課題と関係ない思考をしている)。しかし、私たちはこのことに気がついていない。テキストを読んでいる被験者を実験者が遮り、いまボーッとしてなかったかどうか尋ねると、遮った回数の約10%で、被験者は「ボーッとしていたがそれには気づいていなかった」と回答する。
私たちは自分で思うようには自由ではない
  • 自分は自由な行為者であるという現象学的経験もまた錯覚かもしれない。
    • しかしこれが錯覚だというのは他の錯覚に比べ理解しがたい。自由意志の感覚は行為の感覚と結びついており、こうした感覚とは独立に目的的な行為が生じると理解するのは容易ではない。
  • しかし行為の感覚は実際の行為から切り離せることが近年分かっている〔従って、行為の感覚と独立に生じる目的的行為というのも理解不可能なものではない〕。

神経科学 vs. 現象学(そしてこの対決が正義にとってもつ意味)

  • ニューロンは選択せず、また思考や行為は神経活動によって実現されている。このありふれた事実から、いかにして私たちは自由意志を持ちうるのかと言う問題がでてくる。
    • 多くの人にとって喫緊の問題となるのは、「ニューロンがやった」という理由で犯罪者に責任がなくなってしまうのではないかという点だ。
  • しかし脳の働きが分かっても、現在の法システムにはほとんど影響しないだろう。
    • 監禁と罰は有意味でありつづける。罪悪感と非難は論理的には無意味になるかもしれない(ニューロンの発火を非難するのか?)が、社会的な嫌悪フィードバックとしての役割は果たしつづける。
    • 現行の脳理解と最も衝突するのは応報的正義の概念だ。これは、他行為可能性を根拠にして合法化されている復讐だからだ。
      • しかし応報の論理が誤っているとしても、ともかく罰は有用性をもつだろう。というのは、犯罪者にとって犯罪が避けられないことだったとしても、その犯罪者を罰することは、他の人々〔に対する脅威となり、他の人々が〕犯罪に手を染めないことを容易にして、共通善に寄与するからだ(Holmes 1997)。

謙虚さと人間性のほうへ

  • Burns and Swerdlow (2003) は、道徳的責任にかんする議論のなかで記念碑的な事例研究である。
    • 幼児の性的虐待で有罪判決を受けたある男の脳にあったがんを取り除いたところ、ポルノの蒐集をやめてリハビリのプログラムを模範的にこなすことができた。一年後、男はまたポルノを蒐集し始めたが、病院でみたとことがんが再発しており、再び手術を受けることになった。
    • 神経画像化の技術により、男の悪行の原因は癌であると分かり、そしてこの悪行は治療可能となった。一生を〔刑務所で〕惨めにくらすのではなく、比較的ふつうの暮らしをおくれるようになったのだ。
  • Burn and Swerdlowの事例は一般化できる。
    • 私たちが犯罪に手を染めてしまうのは、その犯罪を(単に可能にするだけでなく)その犯罪の瞬間にまさに必然のものとする神経的メカニズムがあるからだ。そこで、こうしたメカニズムについてよりよく理解できれば、再犯を防ぎ人々に安全をもたらすことができる。
    • 同時に、人間の脳の脆弱さやニューロンには選択ができないということを知ることで、私たちはより謙虚になるかもしれない。
      • 〔人が罪を犯すか犯さないかは本人の意志の問題ではないのだから、〕神の恩寵が無ければ自分も犯罪者になっていた、と。
    • Greene & Cohen (2004) も、人間の行動は究極的には本人には制御できない力の産物であると理解すれば、法は犯罪者をより人間的に扱うようになるだろうと指摘している。

結論

  • かつてダライ・ラマは、科学によって仏教の主張が偽だと示されたならば主張の方を捨てるべきだと述べた。神経科学が私たちのかたい直観を偽だと示した時、わたしたちは直観を捨てられるだろうか?
  • これが不安なことだとしても、しかし法システムが全体的に変わるということはないだろう。必要なのは、正義に対して科学的理解にもとづいてアプローチすることだけであり、それは強固で謙虚で人間的なアプローチなのである。