えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

1898年の自由意志と心理学 Titchener (1898)

https://archive.org/details/primerofpsycholo01titc

  • Tichener, Eduard Brandford. (1898). A Primer of Psychology. New York, NY: Macmillan.

§105 意志の自由

意志

 注意や行為をあつかう心理学は意志心理学と呼ばれることが多い。これは、affection、feeling、emotion、sentimentをあつかう心理学が感情心理学、感覚、知覚、観念、連合、思考をあつかう心理学が知性心理学とよばれるのとおなじである。ところで、心理学において最も議論されている問題の一つに「自由意志」の問題がある。この哲学的な問題に、我々の心理学一つで答えを与えることはあきらかにできない。心理学に加え、倫理学、論理学、その他の哲学的科学から回答を集め、それらを比較してまとめあげていく必要がある。とはいえ、意志の自由について論じる人々が訴えかける科学の一つはたしかに心理学であり、そして意志心理学というものがあるのだから、ここで自由意志の問題について心理学から何が言えるか検討してみるのもよいだろう。

自由を支持する心理学的な議論

 意志の自由を支持する心理学的議論は二つある。まず、二つの競合する状況が等しく魅力的である場合、それぞれの状況に関連する観念群が等しい強さをもっていても、私たちはどちらかを選択するないし決定することができる、とされている。したがって、精神には自らが好むように選択ないし解決をおこなう自由があるのである。第二に、選択ないし決定がおわったあと、私たちは自分が別の選択することもできたということを確信している。自分がもっていた様々な動機を検討し直してみても、実際に行った選択を強いるものは何もなかったとわかる。私たちは動機に基づいて行為したのに、その動機は私たちに行為を強いないとするならば、その動機に対して精神そのものが力を加えたのでなくてはならない。これはつまり、精神はどちらか一方の状況のほうに自由に向かうことができるのでなくてはならないということだ。

その論駁

 これらの議論にはしかし二つの批判がなされている。(1)どちらの議論も、精神をあたかも生きて行為する生物のように描いている。これは、精神についてのよくある見方ではある。しかし私たちはこの見方をあきらめ、科学的見解を採用したのだった(§4)。すなわち、精神とは心的プロセスの流れなのである。もしかすると、精神をもつ生物が自由に選択するとするのは自然な考え方なのかもしれない。そして、プロセスの流れが選択を行うと考えるのは難しい。だが上の二つの議論が成り立つならば、私たちはそう考えなくてはならないのである。しかしながら、上の議論は成り立たない。(2)なぜなら、どちらの議論も行為の条件として意識的な動機だけしか考えていないからだ。これはまったく根拠のない仮定である。ここで見逃されているのは、生得的ないし獲得された身体的傾向、すなわち、意識的プロセスに対応しないような神経系全体の特徴があり、それが意識的動機が行為を決定する際に寄与するということだ。大脳の興奮が伝わっていく傾向性の経路には、よく通られていて深いものもあれば、通るのが難しく浅いものもある。そうすると当然、前者の経路を通る興奮に対応するような動機が、後者に対応する動機に打ち勝つことになるであろう(§32)。二つの競合する選択肢は、私たちの意識の舞台上ではフェアプレイを演じているのだが、その背後では自然が暗躍しており、一方を支持し他方を妨げているのだ。
 したがって心理学者として言えば、意志の自由を認めるためには(1)精神の科学的定義を放棄し、通俗的な見方に戻らなくてはならない。さらに心理学者は、(2)自由意志を信じる基盤を与えるとふつう考えられている選択という現象を、神経の傾向にうったえて説明することができるのである。ただし、心理学は自由意志の問題を裁定する唯一の判事ではないという点は、常に忘れてはならない。